キリスト教会は不変であって、どこの国でも同一の形を持つべきなのだろうか。つまり、礼拝の形式、教会内の組織の在り方、役員の名称、意思決定の方式などのすべてはすでに決まっており、動かせないものなのだろうか。
それとも、教会はそれが置かれている土壌によって違った形を取ることが許されているのだろうか。社会が教会の在り方を規制する力を持っており、教会を取り巻く文化的環境に合わせて、教会は自分の様態を改変していけるのだろうか。
「福音」については、これを再定義するということはあり得ない。福音の内容については聖書にある通りで、これに「付け加える」ことも、これから「差し引く」こともあり得ないのは当然である。
しかし、キリスト者の礼拝者共同体である教会はどういう形がいいのか、については再定義はあり得ると考えたい。そうして教会の形態の再定義の機会は一般に開かれており、誰でも自分の文化と価値体系に従って教会を再構成できるのだと考えたいのである。
筆者はここで、福音はその衣服としてさまざまな文化を着ることができる、キリスト教をその文化に合わせて再形成できる、という立場を取ろうとしている。またそれに従って、当然教会も、その土地の文化に合致して再構成されていけると考える。すなわち「神の前に白人も有色人種も平等」で「両者の文化は神の前に平等」という立場を取る。
摂取、消化、発酵
日本という風土は、ユニークである。自分の文化を統一された形で持ち、外来の文化を摂取すると、それを在来の文化と調和させる。そのために、文化的なアイデンティティーが強固である。日本の文化は、そのさまざまな局面が緻密に組み合わさり「和風の暮らし」を構成している。つまり、社会生活のすべてに「和風」があり、日本風の生活、労働慣行、学び方、余暇の過ごし方がある。つまり、生活、労働、余暇、交友、通過儀礼などのすべてに、日本風が存在するのである。
もちろん、島国であるので、外国の文物に対して好奇心と貪欲(どんよく)なまでの興味があり、それらを吸収しようとする。
杉田玄白と2人の友人たち(前沢良沢、中川淳庵)は、オランダ語の解剖学の教科書を訳そうとして、月に2度集まった。そのうちの1人(前沢良沢)が、オランダ語のアルファベットの読み方を知っていたという、ただそれだけの知識しかなかった。だから、初めの1年間は、ただ集まってため息をつき、朝から夕方までその書籍を見つめていたという。当たり前である。
ところが、それで諦めることはしなかった。もちろん、解剖学の教科書であるから内蔵などの図があって、おおよそのことは掴める。ただ説明文が分からないのである。
やがて少しずつ意味をくめるようになり、4年後に翻訳は完成し(前沢良沢翻訳、杉田玄白清書)、出版することができた(『解体新書』)。1774年、明治維新の約100年前のことである。その時の訳語として使用した、神経、動脈、軟骨などの用語は230年後のいまも、使用されている。
福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾に入学したときのことを書いている。日本で最高のこの蘭学塾では、生徒はまず1年かかって蘭・漢辞書を筆写するのだった。(当時日本には、この辞書は幕府と適塾とで計2冊しかなかったという)
約1年かかって筆写が終わるころには、本人の学問に対する「やる気」や、また適性も証明されているわけである。また、単語の能力も、適当に生じている。無事に筆写が終わると、原書講読が始まる。当時の日本には、一般が所有することを許されている蘭書は12冊くらいで、ほとんどが医書であった。それをまた毛筆で手写しながらゼミで読む。全部読めば卒業である。(福沢諭吉『福翁自伝』岩波文庫)
これは、19世紀の鎖国も終わらんとする頃である。その時代に、アジア・アフリカのどこで、これだけの貪欲さとエネルギーをもって欧州の学術を吸収しようとした国があっただろうか。
この貪欲さの陰には、吸収したものが日本社会の中に浸透して機能するという現象がある。外国の知識が異物として残るのでなく、日本社会に適合し、日本文化の1つとして機能するという事実がある。つまり、完全な消化であり、日本化である。蘭学は消化されて、もう異物でなくなり、日本の文化の一部となる。つまり、その他の既存の日本の文化的現象と斉一性を持つように手直しがされるのである。
日本の文化は、さらにほど良く発酵する。どこの国の人でも自分の文化を愛し、そこに自己同一性を見いだすのであるが、日本は文化が統一され、凝縮され、発酵して、世界的なレベルに到達するのである。
他国の侵略を極度に嫌い、恐怖し、侵略を防ぐ手段として「鎖国」を実行したが、その鎖国の期間がさらに文化の凝縮、また良質の発酵の度合いを高めた。
その発酵とは何か。前述したが、伝統的な衣服、建築、美術、食文化、舞台芸術、絵画、茶道、華道、短詩(和歌、俳句)、スポーツ、音楽、またほとんどの道具など、すべてに「和風」がある。すべてによその国のものとは違うものがあり、それらの一つ一つが独自で、また世界的な価値を持っている。
この和風は地理的に一番近い朝鮮や中国の文化とも違う。それが住居、服飾、食生活、音楽などでワンセットになっている。その外国とは違う様式で、生活の「すべて」が行われ得るのである。つまり、「日本風」が、生活のあらゆる面に存在するのである。
この文化的な発酵がうまく行き、日本は文化的に1つの「世界」を形成している。もちろん、米国も中国もインドも、すべての国が文化的に1つの統一された「世界」である。しかし、日本の特殊性はそれらのすべてが、日本だけに見られる独自なものだ、ということである。
日本文化は、一つ一つがユニークである。他に例を見ないものが多い。しかも、それぞれが一流であり、世界的に影響を及ぼしているということである。ここに、それらの例を幾つか挙げてみる。
歌舞伎は「時間処理」のユニークさによって、現代映画理論の根底となった。セルゲイ・エイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」において、時間の流れをフラッシュバックなどの技法で操作し、時間の継ぎ接ぎ(モンタージュ)を行い、近代映画の技法を確立した。彼は、これを歌舞伎から学んだ。歌舞伎は世界初の「回り舞台」によって、一瞬にして追憶の時間に入ったり、また現実に引き戻したりする、そういう技法をすでに江戸時代に完成していた。
伝統的な西欧のリアリズム演劇には、これはなかった。それまでの映画は、直線的に時間が進行する演劇を観客席からカメラで単に収めるというタイプだった。
歌舞伎では、切腹など一瞬であるはずのものを長々とやる。苦悶の表情、手足のわななき、主人公の追憶の描写などに分割してやる。エイゼンシュテインは、その方法を借用して民衆の惨劇を描写し、そこから現代映画の技法が確立した。
浮世絵は、デフォルメによって個性を強調する。19世紀に入って西洋の絵画のリアリズムは行き詰まっていた。ダゲレオタイプ (湿式銀板写真)の発明により、それまでの絵画は意味を失い始めていた。ヨーロッパのリアリズム絵画は、写真に決定的に敗北したのだった。
ところが、浮世絵はそれに支配されない思想と技法を持っている。役者絵には、人物の顔の主観的描写がある。歌川広重の「東海道五十三次」の中には、20ミリ以下の超広角レンズを使って、初めて可能なような描写がある。欧州に浮世絵が伝わると、美術界に大きな衝撃を与えた。行き詰まっていた西欧の美術は、これによって蘇生した。
浮世絵を学んだ画家たちが、フランスを中心にして起こり、後に印象派と呼ばれるようになった。フィンセント・ファン・ゴッホもクロード・モネも、浮世絵に大きな衝撃を受けた。浮世絵には、写真によって左右されない絵画があったのであり、リアリズムの行き詰まりを解決するカギがそこにあった。
日本人は、主観的描写をすでに何百年も前から行っていたのである。印象派の画家たちは、浮世絵を多く模写した。フランスばかりでなく、米国でもジェームズ・マクニール・ホイッスラーが印象派にかぶれ、着物姿の舞妓の模写などをやっている。
印象派というのは、ある新聞がモネの絵を批評して「ただの印象にすぎない、絵画でない」と言って切り捨てた。それが後に、この派の正式な名称となった、という。
日本はバブル時代に、たくさんの印象派の絵画を買い集めた。欧州の画商の間では、日本人が印象派しか買わず、ヴァン・ダイクにもヨハネス・フェルメールにも見向きもしないので日本人は色盲か、と言ったという。要するに日本人は、欧州人が描いた浮世絵を買っていたのである。
では、いったいどんな識見を持った人物が、欧州に浮世絵を輸出するなどということを考え付いたのか。実は、誰も輸出などしなかったのである。浮世絵が欧州に伝わったのはまったくの偶然であった。
浮世絵はいまで言うならポスターや雑誌のグラビアページと同じで、日本では芸術作品とは考えられていなかった。庶民が芝居の帰りに小遣いで買って、部屋に飾る。見飽きれば、くずかごに捨てた。くず屋がまわってきて買い取り、他の和紙の紙くずと一緒に瀬戸物屋に売る。そこでは、クッション材としてワレモノを包むのに使った。
幕末から維新にかけて、日本から多く陶磁器がオランダを経由して欧州に輸出されたが、それらの包装に浮世絵の紙くずも使われた。クシャクシャと丸められて、詰め物になったのである。
欧州では、この紙くずのシワを丁寧に伸ばして、それが美術品として取り引きされるようになった。こうして、浮世絵が欧州に紹介されたのは、まったくのアクシデントだったのである。
日本には、浮世絵のコレクションがない。日本にあるのは、すべて欧州のコレクションを買い戻したものである。日本人にとっては、要するに、日常の、別に取り立てて言うほどのものでなかった。それが、世界の絵画史を変えたのであった。日本文化のポテンシャルの大きさ、レベルの高さを示す好例である。
たまには、日本に浮世絵のコレクションがないことをもって、これは日本人が美術に対する目がないことの証拠である、と言う人もあるが、事実は逆である。
パリ近郊のジベルニーのモネの邸宅(スイレンの池のある)の食堂にも寝室にも、葛飾北斎、歌川広重などの浮世絵が壁面いっぱいに飾られている。(行ったのでなく、雑誌のグラビアページで見ただけである。「VISA」04年6月号、コミニケ出版)
日本の着物は、世界でも一流のデザインである。これを変形し、三宅一生は世界のファッションを変革した。プリーツプリーズは、西欧のファッションになかった概念である。身体の線を隠すという、日本のキモノの伝統に従っている。
1999年の時点では、ウィーンにスシ屋が200軒あり、1、2軒が日本人の経営であるが、あとはロシア人が経営、などは前に述べた。
ロンドンでも回転ズシが繁盛しており、予約を取るにも何週間も待たされるとのことである。欧州や英国に、生の魚肉とコメでできたものをしょう油で食べる文化が侵入するなど、誰が考えただろう?
日本料理の欧米における発展は、目を見張るものがある。フランス料理は、ソースによる濃い味付けが伝統である。それで「ソースがよければ、段ボールでも食べられる」と皮肉られてきたが、ここでヌーベルキュイジーヌと呼ばれる日本風のあっさり調理が(とくに魚料理)、フランス料理を革命的に変えたという。
戦後にたくさんの日本の料理人がフランスに留学したが、フランスの魚料理の拙劣さにあきれ、休日などにフランス人の同級生を招き、魚のしめ方から教えて、スシ、刺し身などを下宿で食べさせたという。
そこからフランス料理が変わっていったのだが、これら日本料理の味を覚えたフランス人若手シェフたちが、ニューヨークを中心として仕事をし、日本料理の手法を含む料理を始めた。だから、米国の日本料理は、日本人の多いカリフォルニアからではなくて、東部の一流レストランから普及したという。
そのため日本料理は、いわゆるエスニック料理と呼ばれる物珍しさのジャンルでなく、東部の高級レストランでの正式な高級料理としての地位を初めから獲得したという。道理で高いわけである!
日本の武道のうち、柔道は国際的に一流のスポーツであることは言うまでもない。
俳句、和歌などの短詩の形式は、いまや世界的な広がりを見せている。特に俳句の「仮託」は、世界の詩に新しい表現形式を与えた。つまり、風物や花鳥、昆虫などについて歌っているようであるが、実は心象風景であり、歌っている本人のことであり、世界を歌っている、というような。
これを広めたのは、日本人ではない。ポーランド人やフランス人の、日本研究家たちであった。日本人にとっては外国人には無理で、分かるはずがない、作れるわけがないと初めから諦めていて、日本以外に普及させようなどとは思っていなかった。
それがまったく自然に、欧州の日本研究者から始まったのである。 音律的に5、7、5・・・とはいかないが、それは必ずしも日本短詩の本質ではない。山頭火のものなど見れば、それは明らかである。主題を絞る、短詩形で仮託があるということが眼目のようである。
米国での米食は、これまではインディカ種のパラパラの米であった。この2、3年、カリフォルニアの大学の食堂などでも、米がジャポニカ種のネットリした種類に変わっていて驚く。中国では、収量の関係で、ジャポニカ種の栽培は厳禁されている(収量が少ない)が、ヤミで耕作が増えているという。
日本でしか食べられていなかった種類の米が、広がっていきつつある。ジャポニカ種は、蛋白質と脂肪の含有が多く、それがネットリ感を生んでいる。いま米国の病院食は、ほとんど日本食スタイルで、米、野菜、トウフ、魚などが主体であるという。
米国でトウフ熱が始まったのが約30年前であった。どう考えても、これだけは絶対に米国人の口に合うわけがないと、筆者などは思っていた。米国人にとっては、一見するとプディング風で、口にすると無味という無気味なもの、それがトウフであった。ところが、ハンバーグやミートローフの増量材から始まり、いまやトウフの消費は増大し、どこのスーパーでも置くようになっている。
日本のアニメは、世界に影響を及ぼしている。アニメのルーツの1つは、京都栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)の「鳥獣戯画」である。900年前のこのアニメは4巻に分かれ、猿、兎、蛙などが遊び、バクチを打ったりし、地獄に落ちる者もある。
文字がないので、筋書きを把握するのに困難があるとされているが、人間の行動を鳥獣に置き換えており、倫理や世界観の表現を試みている。巻物をほどきながら読むと、時間の経過につれて次々と情景が開けていって、アニメの基本的な要素を満たしている。世界で最古の漫画である。人間観があり、世界観がある。
和紙は、もともと中国から伝来した製紙の技術であるが日本で完成された。消化と発酵の一例である。
長繊維の和紙は、優秀でこれが浮世絵を可能にした。十分に湿らせ、それ以上の伸びがないようにして印刷する。浮世絵は、60枚もの版木を使うものがある。60色である。60枚の版木にそれぞれ色を付け、1枚の和紙に60回も刷り込みをする。
しかも、色ずれがない。これは、紙の製造技術が正確だからである。この想像を絶する製紙技術は、のちに謄写版(ガリ版)原紙の製造に生かされた。
コンピューター時代になり、謄写版など誰も知らない時代になると、この技術はファックス・ロール紙の製造に生かされ、一時は世界のロール紙のほとんどが四国で製造されていた。
ラーメンは、中華料理を日本風にして作られたもので、中国にはなく、日本以外では食べられなかった。ところが、いまや上海や台湾に逆上陸し、札幌ラーメン、喜多方ラーメン、博多ラーメンなどと言って売っているという。オドロキである。
大阪フィルの常任指揮者であった朝比奈隆は、独自の世界を開いた。彼の演奏は一種独特のテンポで進む。各演奏者に表現がまかされ、抑えつけない。おのずから、他の指揮者とは違った表現になる。よく知っているはずの曲にも、こんなフレーズがあったのか、と新鮮な発見がある。
指揮者とは、もともと全体のバランスを重んじる。だから、どうしても伝統的に抑えてしまう部分がある。ところが、朝比奈は演奏者にまかせる。各パートに亮々(りょうりょう)と弾かせる。聴く者は驚く。エロイカの第2楽章など、もうこれは「事件」に等しい。事件に出会えば、誰でも興奮して、目撃したことを話したくなる。朝比奈の演奏には、それがある。もちろん、それが何なのかを表現できるほど小生に知識があるわけではないが。ただ事件に遭遇したようなショックと感動が残る。
ベートーベンの第九交響曲も、1、2、3楽章を朝比奈は丹念に拾う。普通の指揮者は最後の合唱に向けて盛り上げ、それに向かって急ぐ傾向がある。そこで1、2、3楽章が序章としての扱いになる。だが、序章としてはいかにも長い。みな処理に困っているように見える。
ところが、朝比奈はそれとは違い、悠然と進む。1、2、3楽章に含まれる音楽が浮き彫りになる。筆者にとって、小学生の頃から70年近く聴いてきた第九のはずだが、いまや別の曲に響く。200年前のドイツの音楽に、朝比奈は独自の命を吹き込んだ。
中年男性の追っかけがいて、東京から夜行バスで大阪まで往復して聴きに行く者があった。彼のコンサートは、毎回が満員で、クラシック音楽の演奏会としては、毎回が異例の現象であった。小生も1度大阪まで追っかけをやったことがある。
オーケストラというものはだいたい音程がバラバラになる。何十本もの弦楽器の音程をキチンと揃えるのは、至難の業であろう。だから、弦楽四重奏で十分である。音の清澄さを求める者にとっては、オーケストラというものはしばしば聴くに耐えない。
ところが、サイトウ・キネン・オケ(斉藤秀雄を記念して小沢征爾と秋山和慶が呼び掛けたオーケストラ)が数年前に松本でやったブラームスの2番シンフォニーは出色の出来栄えで、心の震えるような思いがした。あんな上質の演奏のできるオーケストラは、世界のどこにもない。日本人の「精進」がさせる業か。
新幹線は1日に何十万人も運んでいる。何百本も出ている。その日本中の新幹線の全列車の遅延の平均は18秒。つまり0・3分だそうである。これは日本人だけにできることだろう。
1997(平成9)年に、プリンストンからデラウェア州のウィルミントンまでメトロ・ライナーに乗った。アメリカが誇る高速列車なのだが、昼どきで2時間に1本くらいというノンビリしたものである。何と45分くらい遅れて来た。お詫びのアナウンスもない。世界の鉄道は、そういうところらしい。
日本の新幹線は、1日に150万席を売っている。それが平均18秒の遅れで営業しているのである。メトロ・ライナーはニューヨーク~ワシントンの350キロで、3時間半かかる。1日に15往復くらいと、区間運転が少々。まあ1万5千席くらいを売っているのか。そんなものである。
茶、これも中国から渡来して、日本で独自の発展を遂げた。たぶん聖餐式からヒントを得て「茶の湯」ができた。これも、世界的なインパクトを与えている。
日本人は中国から漢字を学び、それをそっくり日本化した。漢字は豊かな表現能力、また造語能力を持っており、人類の宝である。しかし、学習が難しい。漢字国では、ほとんどの人間が文盲である。
そこでベトナムは漢字を廃止し、ローマ字に変えた。南北朝鮮は、ハングルを採用し漢字を廃止した。中国大陸では、簡体字800を使用し、繁体学(従来の漢字)を廃止した。いまや台湾だけが、純粋な漢字国家である。
日本は「仮名」を発明し、漢字仮名まじりという独特の文体を完成させた。仮名を正式に採用したことにより、「仮名」だけに限って言えば、識字率が100パーセントになった。これは世界的にもまれなことである。それが千年以上も前に成立した。また振り仮名の使用により、教育をまったく受けなくても、多くの人間が不完全ながらかなりの数の漢字を読めるようになった。
鎌倉仏教は、中国経由で渡来した仏教が完全に日本化した例である。もともと仏教は無神論で「輪廻(りんね)の法」がすべてで、人間がこの法の支配から解放されたりするのは出家と苦行によるとした。この概念により社会は停滞した。
オウム真理教は、この原初の形態の仏教を回復しようとする方向を不完全ながら持った。これに新鮮な印象を感じた者があったのは、それが理由であろう。鎌倉新仏教は有神論的な方向を取り、日蓮は時間の観念を導入し、日蓮的な歴史観が成立した。易行が中心となり、より人間的になり、躍動的な社会が形成された。
この日本的な仏教については後にわずかではあるが扱いたい。
(注:仏教による停滞の毒を避けようとして仏教を迫害、壊滅させてしまったのが、インド、中国、朝鮮である。中国では唐代に、イモ虫のように寺院と僧侶が国の富を食い荒している、として仏教壊滅政策が取られ寺院が破壊され、僧も尼も殺された。朝鮮でも、李朝時代に崇儒抗仏と言って、寺院のほとんどが破壊され、残った僧侶たちは社会の階級の一番下層に置かれた。壊滅政策をとらず仏教国として存続し、そのため仏教による社会の停滞が起こってしまっているように見えるのは、ビルマ[現ミャンマー]、タイ、スリランカ、ラオスなどであろう)
以上、幾つかの例を挙げたが、日本人は、このような「日本風」の暮らしと文化を好んでおり、日本風の職場、そこでの労働倫理、意思決定の在り方などを好む。それが否定されたり、変化して日本風でなくなることには抵抗感が強い。このような日本式の精神文化、職場の雰囲気、趣味、衣・ 食・住のフルセット、加えて、日本の四季などの中で日本人は生活しており、それらを好んでいる。
このように日本人は、外来の文化を貪欲に吸収しようとするが、取り入れたあとは、周りの日本式のものと調和が取れるように手直しをする。それらは発酵して世界的なレベルになり、世界的に影響を及ぼすようになるのはすでに見た通りである。
日本人が外来の文化に対して魅力を感じるのは、日本式に嫌気がさしたからではない。外来の文物には、摂取、消化、発酵のための「素材としての魅力」を感じているということかもしれない。
(注:以上、かなり主観的な、また筆者の個人的な趣味性の強いものも含む観察となった。そもそも論文というものは、公平性と客観性を重んじるはずである。ただ宣教学はその性質よりして、研究者自身が絵画なり、庭園なり、音楽の前に立ったときの本人自身の感動や印象が重要であるように思う。それがなくて、他人の発表したものの引用ばかりであると、宣教学としてはその時に死んでしまうような気もするのである。お許しいただきたい)
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
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