「教会」は日本社会の夾雑物か
今日までの160年余の日本のキリスト教伝道は、いわば失敗の歴史である。多くの先輩方の労苦を前にして、小生のごとき者がそのような発言をするのは恐れ多いことであるが、なお、世界的に見れば、日本の福音宣教は社会に定着していない。
初めにも述べたように1年のうちの、ある日曜日を取って見る。たぶん日本全国で、キリスト教会の礼拝に集まっている人の数は15万人くらいであろう。これはカトリック、プロテスタント、またその他すべてのグループを入れての話である。
(注:『キリスト教年鑑』などの統計によれば、これらの教会の会員は約100万人である。ラフな推定であるが、このうちの60万人はいわゆる籍はあるが、礼拝には出席しておらず、外側から見るとクリスチャンであることなど忘れてしまっているように見える人々であろうか。
さらに残りの40万人が、恐らく活会員(アクティヴ・メンバー)、つまり年に少なくとも1度は礼拝出席している人であると思われる。これら活会員のうち10万人ほどは、ほとんど毎週休まずに出席しており、残りの30万人が時々出席するというのが現状であろう)
キリスト教徒は、世界人口の35パーセント、約25億人を数え、また旧約聖書から出たイスラム教も合わせると、旧約聖書的な唯一神信仰を奉ずる者は、世界人口の半分を超えるという。ところが、日本ではイスラム教徒とユダヤ教徒は皆無に等しいとして、キリスト教だけを考えると、日本で唯一神信仰を持つ者の数は人口の1パーセントに満たない。仮に40万人と考えれば、人口の0・3パーセントにすぎない。なぜそうなのだろうか。
日本宣教の困難さの理由として、福音が西欧的な文化にくるまれていることはすでに述べたところであるが、その他にもう1つの大きなことがある。それは日本社会では伝統的に宗教が「礼拝者の共同体」というものを形成してこなかったということであろう。日本人は「福音を信じる」ということと「教会に所属する」ということが同義語であるとは思っていない。
だから、日本人は福音を聞いて、これに好意を持っても「教会に加入」しようとはしない。「教会」は、あくまで西欧の社会で発達したものである。実は「礼拝者の共同体」ということ自体、西欧社会のエートスと深く関わっているので、そのため西欧の社会ではごく自然に教会が成立し、社会に受け入れられ、理解され、社会の一部分として認識されている。また社会のニーズを満たすものとして機能している。
ところが、日本ではそれは歯にはさまった異物のように感じられており、異質な存在であるまま150年以上が経過した。そのような事情で、一般に日本社会は教会の性質を把握しておらず、単に不可解な存在と感じているだけである。日本におけるキリスト教学も、そのあたりの分析はしないままで来ているように思う。
日本のキリスト教会の現状と分析については、後ほど具体的に進めていきたい。
日本教と西欧教
堀田善衛や山本七平は「日本的なもの」、また「日本教」が日本を支配している、と言っている。堀田は『海鳴りの底から』で、江戸時代のキリスト教信仰の受容を題材として扱って、その中で西欧文化の日本的な消化ということを論じている。彼の描写によれば、日本社会というものは西欧的なものに決定的には近づけない。どうやら堀田はそこで日本社会は、近代化については劣等生であると言いたいようである。(近代化と西欧化が同一であるのかどうかは別のこととして・・・)
つまり、「日本教」化をやっている限りは、西欧文化には決定的に近づけない、それは日本の悲劇である、というのが彼のテーマのようである。このように「日本教」という言葉は否定的に取られることが多い。
「キリスト教信仰と実践」の西欧版は、果たして隣人に対する態度、家族観、職業観なども含めて不動の真理なのか。もしそうであるのなら、日本教化するのはいけないことになる。
しかし、翻って考えれば、そもそも聖書の宗教は中近東的な背景を持っており、聖書の宗教のオリジナル・バージョンは「中近東教」であることはすでに述べた。福音はもともと中近東の文化にくるまれていたのである。それが「近代西欧教」に変化したのがキリスト教であり、それはプロテスタント宗教改革以後さらに徹底したので、これが日本に紹介されている「現代英米教」なのである。
前にも述べたように「西欧教」化の過程では、福音は改変されなかったが、福音をくるむ文化、すなわち倫理と価値観においては、見事に「換骨奪胎(かんこつだったい)」されて「英米教」化した。そのように手直しされた聖書教が、日本に到達したのである。
こうして、もともとは「中近東の宗教」であった「聖書の宗教」が「西欧の宗教」に作り変えられたので、一番の近親であるアラブ世界に一番遠くなったことは前述したが、同様のことが日本でも起こっているといえよう。そこに、教会が日本社会にとって夾雑物(きょうざつぶつ)である理由がある。その「英米教」化したキリスト教を、我々はあくまで「英米教のまま」で日本に広めようとしたし、信者にとって唯一の正しい態度は「英米教徒」に徹することだとしてきた。
明治の開国以来、外国から受けてきたものは多くあるが、それらのすべてを日本社会は「日本化」して消化してきた。キリスト教だけは、「日本化」に対して拒絶の姿勢を取ってきた。そうしてキリスト教会は、日本的なものを拒絶していることを誇りにしてきたし、絶えず自分たちの体質に、日本的な体臭が残っていないかを自己批判してきたのである。
もちろん、よく覗(のぞ)き込んで見れば、実際には日本のキリスト教が無意識のうちに日本化をやってしまっている部分も大きいのである。だから、日本化をやっていながら、それに気が付かず、自分たちこそ西欧の伝統を純粋に受け継いでいる、と自負してきた面もある。
その無意識の日本化については、後ほどその現実を扱いたい。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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