社会と共同体
先に、福音信仰をある一つの社会の中で実践しようとするとき、その社会の文化の影響を受けるし、また受けるべきであることを論じた。
これから考えたいのは、次のことである。それは日本的な価値観が支配している社会の中で「キリスト教会」という礼拝者共同体を形成しようとするとき、どのような日本的現象が起こるのかということである。
そのために、日本の社会の中に存在するいろいろな共同体を論じ、またそれらの性格を考えたい。また、それらがこれまでの日本のキリスト教会に及ぼしてきた影響について考えることとし、さらに今後の日本のキリスト教会の進むべき方向についての幾つかの示唆を述べたい。
なぜ、そのような作業が必要なのか。社会には人間の集団がいろいろあって、それらは家庭だったり、職場だったり、村落であったりする。それらを一括して共同体という名前を付けることができる。そして、これらの共同体の性格は国によって違う。緻密か、粗いか、また成員を束縛するか、それとも放任的か、などのことがそれぞれ違うのである。
個人の側から見ると、それは共同体への帰属感が強いか、弱いか、ということでもある。つまり、何かに属しないとやっていけないと思うのか、それともそんなものは要らない、自分1人でやっていけると思える社会かということである。
そのような共同体の性格、また個人が共同体をどう評価しているか、ということと、キリスト教会の形成ということの間には関連があるのか、それともないのか、そのあたりを考えるのは重要だと思う。
もちろん教会は、地上の共同体以上のものである。それはイエス・キリストの体であり、聖霊の超自然の恵みとお働きによって形成される。教会は、いかなる共同体とも違い、その意味では教会は社会の中の他の共同体によって左右されない。
教会は究極的な意味では、超自然的な存在である。しかし、同時に教会は社会の中の一つの現象としての性格も持っており、それが置かれている社会の文化によって影響を受けている面があることも事実である。
そこで、一つの社会の中で教会が形成されるとき、その社会の中の他の共同体がキリスト教会の形成に対して影響を及ぼしているのか、そういうことは一切ないのか、それを調べねばならない。
日本の教会はこれまで、西欧の教会の理想やその構造を模範として自己を形成しようと努力してきている。だが、果たしてキリスト教会は日本の精神文化からは独立して形成してきたのか、それとも、実は日本的な精神文化から影響を受け、あるいは規制を受けたりしながら教会形成をしてきたのだろうか。
そういう面があるのか、それともそんなことはなかったのか、それを見極めなければならないと思うのである。そのような努力の一つとして、ここに日本社会における共同体とキリスト教会の関係ということを考えたい。
共同体
共同体とは、家族や職場のように人間が帰属する集団であり、いわば人間が住み、働く小宇宙である。
共同体という集団は、人間が生存し社会において機能するための最小の環境であり、そこでは、その構成員同士の間で互酬関係が成立している。また人は、それに対して感情的な帰属を持つ。
共同体はまた拡大された人格であり、個人の人格の延長である。人は自分が属する共同体と一体感を持つ。会社が栄誉を受ければ、自分もその栄誉を受けるが、逆も真である。家族の一員が栄誉を得れば、それは自分の栄誉であるが、逆も真である。
家族は共同体のうちでも、最も代表的なものである。人により強弱はあるが、通常幼少時から養育された家庭に人間は帰属し、その家族の価値観によって人格の形成は左右される。仲が良いか悪いか、反発しているかなどはともかくとして、その家族の価値観によって育てられたのであり、その価値観と関連を持ち続ける。
共同体には、教育がある。家風とか社風というものがあり、構成員はそれに「染め」られる。すなわち、その共同体の価値観を受け入れさせられる。
このように共同体とは、社会の中に存在する「連帯を持った人間の集団」である。家族の共同体の規模は核家族のように小規模なものから、第二次大戦前の中国におけるごとく、4世代が1軒の家に住む「四世同堂」と呼ばれるものがある。
また、戦前の日本の農村などに見られた、本家と分家(あるものは小作であり、あるものは自作農)で構成する同族意識を持った集団のこともある。
日本の社会における共同体としては家族のほかに、もう一つ職場の共同体を挙げることができる。日本の教会形成を考えるに当たって重要なのは、この職場の共同体である。
日本社会の2つの共同体
日本社会には、家族の他に「職場」の共同体が存在する。家族の共同体と職場の共同体の2つは、共にエートスの共有によって成立している。家族の中で、若者は親たちの年代の価値観に反発するかもしれないが、なお多くのものを共有する。一つの家族の中では、エートスの共有は自然なことである。家族は好きな食べ物、好きな時間の過ごし方など多くのものを共有する。
職場集団はどうか。日本では、職場の状態を指して「まとまっている」とか「バラバラである」というふうに表現することが多い。これは価値観の共有ということが徹底しているか、または不十分であるかを表現しているものであり、日本では重要な指標とされている。日本的な考え方では、価値観の共有が職場の共同体にとって重要な要素であることを示している。
家族と職場という、これら2つの共同体では、価値観の自覚ということにおいておのずと差がある。もともと、日本の農村は村が職場の共同体であり、また家族の共同体の延長であった。
本来、稲は日本の気候では野生ではできない。野生の稲の北限は沖縄と鹿児島の間らしい。そこで稲作のためには保温した苗代で苗を育て、大きくしてから水田に植える。そうして夏の高温の6週間を稲の最も大切な生長期に充てる。
収穫は秋の長雨の直前に終わるようにする。そうでないと乾燥させられない。それで、1村全体が10日間ほどの間に田植えをする。皆が総出で植え付けをする。また収穫期もそろってやることになる。だから、日本という気候においては、稲作に関する限り個人の自由はない。病気をしているヒマもないのである。
この綱渡り芸術的な農法は後に改善され、品種も改善され、ついに東北が穀倉地帯となり、幕末には北海道まで稲作が可能となった。また、登呂遺跡から判明したことは、千年以上の間、日本では稲が連作されてきたことである。世界の農業で、これは奇跡と考えられている。
作物は同一の土地で連作すれば必ず障害が出ることになっているのである。この農村共同体は、日本人のエートスに深く染み付いている。家は村の共同体の部分である。だから、常に全体の状況を考えながら行動する。旗田巍(はただたかし)の『中国村落と共同体理論』(岩波書店)では、戦前の中国山東省の調査をした。
それによると、山東省においては、農村共同体は存在しない。高梁(メイズ)が主食なのであるが、収穫期になると、畑に入って盗み出す者が出てくる。それで大地主などの有力者が音頭を取って見張りを雇う。ナラズ者を棍棒などで武装させて寝ずの番をさせる。これを「看青」と呼ぶ。
旗田によると、山東省では村の境界に相当するものは、この「看青」を雇うための連合の境界にすぎない。これは有力地主の勢力の消長によって変わる。
前年までは音頭を取っていた地主が没落すれば、他の者が音頭を取り、参加者が変わると境界が変わる。このようにして、境界は常に変化しているので、山東省では恒久的な村の境界を認めることはできなかったという。
日本人であれば、それなしには農村は成立しないと考えられるような協力、村としての結束、分業などは、あくまで日本的なもので、これはお隣の中国大陸にはないことが分かる。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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