米国内の異文化宣教
米国の教会は、一般に世界宣教に熱心である。世界各地での宣教の現況に関して、意識が高いことは素晴らしい。世界の宣教の状況には通じており、世界各地のために祈っており、よくささげている。
また、フラー神学校をはじめ西欧的な宣教学では世界のトップを切っており、宣教学の分野での博士号の保持者を多く輩出している。
しかし、大きな問題がある。肝心の自分の足元は、これを忘れているということである。あるいは、ここに西欧的な宣教学の限度があるのかもしれない。
アメリカン・インディアン伝道
日本の宣教は難しいとされているが、実は米国の国内には、さらに困難な宣教がある。それは、先住米国人(インディアン)への伝道である。自分の知っている範囲で言えば、これらネイティブ・アメリカンの独立したキリスト教会も、彼らの作った賛美歌も、ネイティブ・ アメリカンの教授たちによる神学校も存在しない。インディアン宣教は、400年近く続いているのである。問題はどこにあるのか。
だいたいのアメリカン・インディアンの教会は、白人の伝道者が説教している伝道所であり、そこでは白人のプロテスタント信仰と、白人の倫理が教えられている。集まる人もいるが、地についていない。インディアン居留地の文化とは、縁遠いのである。
初期のインディアン伝道は、ずいぶん乱暴なことをやった。子どもたちを親から離して遠隔地の学校に連れていき、寮に入れて生活をさせ、白人としての生活を教えた。つまり、部族の習慣と意識が定着する前の子どもを、白人文化の中で育てようとした。
ちょうど、血液の病気を持った新生児の血液の全交換をするかのように、文化的に血液の全交換をしようとした。インディアンの子どもを白人文化の中で育て、肌は赤いが文化的には白人にしようとした。皮は赤いが中味は白い(白人文化)、つまりリンゴである。場合によっては、お前の親はもう死んでしまったと告げた。動物のような生活をしていて、偶像を礼拝しているインディアンの親たちは、霊的には死んだも同然というわけである!
初期のインディアン伝道の中には、子どもたちを部族から文化的に隔離することが中心にあった。そうして、それこそが彼らへの奉仕であると信じていたのである。インディアンのための全寮制ミッション・スクール(キリスト教教育を目的とした伝道団体による学校)の実態である。
現在では、そのような方法や制度は廃止されている。しかし、布教しようとしているキリスト教信仰の内容は、やはり部族の文化とは遠く隔たっており、根本的には変わっていない。こうしてインディアン伝道は、歴史が古いわりには前進しておらず、アメリカン・インディアン自身の手による伝道というところまでは至らず、インディアンの神学者も出ていない。
米政府のインディアン政策もこれと同様で、先住民族を白人化しようとするのが努力目標であった。政府にインディアン局があり、係官が居留地に派遣され、居留地ではインディアンの慣習を禁止し、伝統的な祭り、行事、ダンス、民芸品の製造などを禁じた。違反すると、罰則として食料の配給が止まった。
なんで食料の配給の停止が処罰なのか、と疑問を持つ人もあるだろう。
それには特別な事情がある。インディアンは何千年も狩猟で暮らして、部族民的な生活をしていた。それが突然何千キロも離れた荒蕪(こうぶ)地を居留のために指定され、そこに追い払われた。狩猟のための獣はおらず、かといって農業の伝統もなく、百何十年もの間、配給される食料で生き延びてきた。それを停止されるのは死活問題である。民族の尊厳も何もあったものではない。
子どもたちは、居留地の学校で部族の言語を話すことを禁止され、それをしゃべっていると殴られた。そのようにして、長年インディアンは文化的には抹殺されるべきものとして扱われてきた。
その結果、現在ほとんどのインディアンは、文化的なアイデンティティーを失い、キリスト教会は、英語で宣教しても十分に通じないし、いまからインディアンの言語を使用して伝道しようとしても、部族の言葉は廃れて話す人が減っており、効率が悪い。中途半端な状態で、そのような動きもない状態のようである。
依然として英語で宣教がなされ、本気でクリスチャンになろうとすると、集落を出て白人社会に入らねばならないような感じである。このような理由で、米国先住民によって成立し、運営されているキリスト教会群はまだ成立していないのである。
これから比べると、日本伝道ははるかに成功している。日本は伝道が困難であるとされているが、インディアン伝道は、もっと大きな障害を抱えている。
インディアンは、米国では市民権を持った通常の成人としては扱われていない。米内務省インディアン局は、インディアン居留地の司法、行政、財政、教育、厚生などのすべての権限を持っている。つまり、居留地はインディアン局の役人が支配している。
言うなれば、民主的な米国憲法の保護の下にはいないので、三権分立の状態に置かれていない。 内務省インディアン局の現地の役人の監督下に置かれ、居留地では地方自治はなく、内務省の役人がすべてを取り仕切っている。
これらのインディアン居留地では、アルコール依存、犯罪、若者の自殺などの率が極めて高く、彼らは米国社会のお荷物として扱われ、居留地には無気力と退廃がみなぎっている。
トーマス・ジェファーソンは、彼の人権宣言で人間には生得の権利として公平と正義と幸福追求があり、これは自明の真理であると謳(うた)い上げたが、それは白人のことで、有色人種は入っていなかった。そのことは、いまも引きずっているのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇