旧約聖書の理解
旧約聖書の中には、さまざまな文化が混在しており、一見しただけで「絶対的な1つの聖書的な文化」などというものを発見できないことは明白である。
アブラハムの時代は、遊牧民族の世界である。1つの部族は、たぶん数万人くらいから数千人の規模の集団であり、それが自分の言語を持っている。つまり単位言語集団である。だいたいが、無文字社会である。常に移動しており、互いに攻撃し合っており、いつ亡ぼされるか分からない状況である。
首長の一瞬の判断に全体が従って動かねば、全滅するかもしれない。常に戦闘状態で、そのような中では民主主義は成立しない。相談などしているヒマはない。荒天を航海中の船舶のようなものであって、船長に絶対的な権限が与えられており、とっさの判断で進路を変える。それが、滅亡を防ぐ唯一の道である。
だから、イスラエルの存続のためには、敵対する他民族を全滅させる、ということも起こる。その殺戮(さつりく)が神の祝福であるというテーマも存在する。
続く士師の期間は、戦国時代である。イスラエルは、いまや民族となり、パレスチナの全体に分布して定住している。農耕民としての生活も始まっているが、イスラエル部族間のゴタゴタが多い。まだ中央政府は存在していない。ダビデの前半生は、この時期に入る。
ついで古代王国時代がある。ダビデはイスラエルを統一し、法制度を整備し、比較的に落ち着いた市民生活が始まったが、古代の専制君主による政治であり、民主主義などというものではない。
イスラエル民族の存立は安定しており、もはや自分の存続のために相手を全滅させることは必要ではない。殺戮の命令は姿を消し、神の祝福によって敵が全滅するという思想もこの時代にはもうない。
さらに捕囚の時代に入ると、諸帝国の支配下の長い時代になる。国家としてのイスラエルはすでに滅んでおり、人々は異教の政府に統治されて暮らし、それが新約時代まで続く。この時期は、個人がそれぞれの工夫で生きていく時代であり、個人主義的な生き方の時代でもある。
このように、アブラハムから主イエスまでの約2千年のイスラエルの歴史には、さまざまの社会、多様な価値観、多種多様の倫理基準があることが分かる。聖書は決して1つの文化を絶対的なものとして我々に提示していないし、また1つの宗教文化だけを教えているのでもないことが分かる。
ガラテヤ書の理解
ついで新約聖書に目を転ずると、使徒行伝の中には、2つの宗教文化の問題があることが分かる。それはユダヤ人クリスチャンの宗教文化と、異邦人クリスチャンの宗教文化の混在である。
*ユダヤ人クリスチャン・・・割礼を守り、ユダヤ教の文化と慣習を守りながら福音信仰を守る。
*異邦人クリスチャン・・・伝統的なユダヤ人の宗教祭儀とは無縁の信仰生活をし、割礼などの宗教文化とは無関係である。
異邦人に対してパウロは、あなたがたは異邦人のままでよい、割礼などのユダヤ的な宗教文化を取り入れる必要はないと言う。また、異邦人がわざわざ割礼を実行しようとすれば、それはイエスの十字架を無効にすることだと警告する。
異邦人の文化は、もともと偶像と深い関わりがある。そのような文化も、いまは福音的信仰と結ばれるようになったのである。
教会の歴史を見ると、礼拝の音楽も中近東のメロディーを捨てて、長調と短調よりなるギリシャ世界の音楽を採用し、それが発展して現在の教会音楽となっている。
ピタゴラスは、和音と波長に関する理論の論文をロードス島の神殿にささげている。当時、周波数とか波長という概念はないのであるが、笛の吹き口から開口部までの長さと和音の関係を数式で表している。開管振動の場合は半波長に等しいので、これはすなわち波長を論じているとしてよい。または弦の長さでも論じている。これも半波長で同じことである。この和音の理論は偶像にささげられ、偶像を賛美するために使われた。それをキリスト教会はそっくりもらい、使用した。
ユダヤ人社会には21世紀の現在でも、メシヤニック・ジューがいる。メシヤニック・ジューの定義はさまざまであるが、ともかく、割礼を受け、過越の祭りを守り、ラビ・ユダヤ教(パリサイの伝統に立つ)の食物儀礼を守る。豚肉を避け、肉の皿とミルクの食器を同じ桶で洗わないなど、パリサイ的ユダヤ教の食物清浄規定を守りながら福音的な信仰を守っている。
メシヤニック・ジューのグループの中には、異邦人もユダヤ文化の中に包摂しようとする動きがある。例えば、米国人の中にも、自分は信仰的にはユダヤ人である、と主張してユダヤ宗教儀礼を守ろうとする動きがある。これはガラテヤ書の命令の違反であると思う。ガラテヤ書によれば、異邦人は異邦人のままでよいので、ユダヤ人になろうとするのは福音の否定につながる。
ユダヤ人の福音的クリスチャンで、ユダヤ教的な慣習を実践している人たちの中にはメシヤニック・ジューという名称を嫌って、自分たちのことをヘブル・クリスチャンと呼んでいる人たちもある。
イエスをメシヤと信じるユダヤ教徒の中には、旧約聖書注解のデリッチ、新約学のエレミアスなどがいる。
伝統的なプロテスタント聖書解釈によれば、メシヤニック・ジューなどというものの存在は認められていない。伝統的な理解では、ガラテヤ書はすべてのクリスチャンに宛てられたものである。また福音的とは、ユダヤ教的なものをすべて拒否することであると考える。
マルティン・ルターも、ガラテヤ書がすべてのクリスチャンのための書であるとした。彼の視点からは、メシヤニック・ジューという立場はあり得ない。
従来の使徒行伝の理解も、その線に従っている。伝統的な立場によれば、福音は割礼をはじめすべての旧約的な儀式を否定しているとする。であるから、使徒行伝の福音信仰の実践の中にユダヤ教的なタイプと、異邦人的なタイプの2つの宗教文化が並行して存在している、などと考える人はいなかった。
使徒行伝は、あくまで「無割礼キリスト教」の勝利の記録であり、ユダヤ人たちが試みた「割礼キリスト教」は敗退し消滅していくのみとする。これが従来の伝統的な考え方である。
この従来の立場を取ると、使徒行伝の2つの箇所の理解について重大な困難が生じることになる。 1つは、パウロがテモテに割礼を受けさせた箇所である。パウロは、テモテを連れてユダヤ人伝道に出ようとする。その際、テモテが割礼を受けてないことを知って受けさせる。テモテの母はユダヤ人で、父は異邦人(ギリシャ人)である。母系がユダヤ教の基本であって、それによるとテモテはユダヤ人なのである。
日本語聖書は文語訳、口語訳、新改訳、新共同訳ともに「ユダヤ人の手前」と訳している。「だれだれの『手前』こうする」とは、強烈な意向を持っている者がいて、その人のことを考慮して原則や願望を「曲げる」ことである。これらの翻訳によると、パウロは原則を曲げて妥協したことになる(使徒行伝16:3)。
しかし原文は、ギリシャ語「ディア・トウース・ユーダイウース」であって、直訳は単に「ユダヤ人のため」であって、「妥協」は意味していない。なおこの文言は、代表的写本のすべてが支持している。これが果たして、どういう意味なのかを確定するという問題が1つ。
第2の問題箇所は、パウロがエルサレムで長老たちに迫られるところである。「あなたはディアスポラ(離散)のユダヤ人たちに『割礼を施すな、ユダヤの慣例にしたがうな』とモーセの律法にそむくように教えていると聞いているが、それが根も葉もないことであるのを証明してほしい」(使徒21:21)と言われる。
パウロはそれに同意し、神殿にこもっての儀式を行う者たちの費用を出したのであった。(なお「根も葉もない」は、ギリシャ語「ウーデン・エスティン」=強意で、1つもない。「根も葉も」は意訳。この箇所も主要写本がすべて支持している)
ユダヤ的な宗教儀礼は、すべて反福音的であり、福音信仰とは相いれないものであるとする立場を取れば、これらパウロの2つの行動は大きな妥協である。パウロは救霊という大きな目的のためなら、あまり堅いことは言わない、原則を大胆に妥協しても許されると考えた、ということになる。
しかし、これはどうもパウロの日常の言動とは合致しない。また、ガラテヤ書の主張する「割礼を行おうとする者は、イエスの十字架を否定する者である」という、あの強烈な宣言とも合致しない。
繰り返して言うが、従来の解釈によれば福音的クリスチャンは一種類しかおらず、すべてユダヤ教儀式とは無関係であり、ガラテヤ書はすべてのクリスチャンに対して書かれたものである。クリスチャンは皆、これに従うべきである、ということになる。
だから、ユダヤ教の儀式を守りながら、福音信仰を守るなどということはあり得ない。それは律法主義であり、福音とは相いれない、ということになる。この理解からすると、パウロのこれら2つの行動は許せない「妥協」になる。
ここでパウロが妥協した、と取るのは無理がある。ガラテヤ書の中の火を吹くような彼の情熱、確信とはどう見ても違和感が残る。
そうではなく、使徒行伝中の福音信仰の実践の記録には2つの流れがあった、とすればどうか。1つはユダヤ人教会であり、もう1つは異邦人教会である。福音はあくまで1つであるが、信仰の実践の形態、および礼拝の様式は2つ、ヘブル・クリスチャンのそれと、異邦人クリスチャンのそれとがあったということである。
そうすると、ガラテヤ書の宛先は、異邦人クリスチャンということになる。すると、そのテーマは・・・「異邦人は独自の宗教文化、礼拝文化を形成せよ、ユダヤの宗教文化を経由してクリスチャンになろうとするな。 それは十字架の否定につながる」・・・ということになる。だから、異邦人が割礼を受ければ、福音の否定につながる。異邦人は異教文化を取り入れて、新しく自分たちのキリスト教文化を形成する。
一方、ユダヤ人は、古来からの宗教文化のまま福音を信じて、割礼も受け、過越の祭りも守り、誓願のためには神殿にこもり、などしながら福音信仰を守る。ユダヤ人はユダヤの宗教文化をもって生活し、自分たちの信仰を表現し、礼拝し、それを通して成長する。であるから、ガラテヤ書は、ユダヤ人クリスチャン宛ての手紙ではなく、異邦人クリスチャン宛ての文書なのである。
この理解に立てば、使徒行伝のパウロの行動には、何らの問題も存在しないことが分かる。
*ユダヤ人には「割礼キリスト教」
*異邦人には「無割礼キリスト教」
異邦人クリスチャンは、ユダヤ的宗教文化を経由せずに福音によって救われる。異邦人は、ユダヤ的な形式を守る必要がない。異邦人宣教においても、異邦人の文化のままでよいので余計な文化的な摩擦が存在しない。パウロはサンヘドリンでの答弁で、「私はパリサイである。パリサイの子である」(使徒行伝23:6)と現在形(ギリシャ語「エゴー・・・ エイミ」)で言っている。
つまりパウロは、自分がパリサイ「だった」と言っていない。「だった」のだから分かり合えるではないか、などと言って当たりを柔らかくしようとしているのではなく、いわんや「お手柔らかに」と言っているのでもない。
ここで彼は、真実を言っている。だから「パリサイの子(ギリシャ語[フイオス])」とは生物学的な関係を言っているのでなく「弟子、信奉者」の意味で言っている可能性もあることが分かる。
「実は私はパリサイでした、親もパリサイです」とか言って、相手にすり寄ろうとしたのでない。自分はいまパリサイである、その立場で神はすでにメシヤを送ってくださったと信じている、と言明したのである。
このように福音と結び付く文化は単一でない。旧約聖書はそれを証言しており、使徒行伝も明白に、そのことを教える。そう考えると、アブラハムからイエスまでの2千年の「旧約聖書の信仰の歴史」は、倫理面についてもそのままでよいことになる。否定する必要はなく、無視する必要もないことになる。現在の世界においても、旧約的な倫理をそっくり守って信仰を保ち、神の栄光を現す民があり得る。
ついでに書き加えると、黙示録においてキリストを表す象徴が「小羊」であることにも深い意味がある。つまり、黙示録におけるイエスの象徴は「十字架と復活」でなく、「神の小羊」である。小羊とはイエスの来臨までの象徴であり、イエスが来られ、死と復活を遂げられ、メシヤの預言がすべて成就すると、予表的な象徴としての小羊の役目は終わった。そのように取るのが普通である。
ところが黙示録によれば、終末において我々が拝むのは「小羊」であり、教会は小羊の花嫁となる。つまり、異邦人クリスチャンである我々も、終末においてはヘブル・クリスチャンに合流して「小羊」を礼拝することになる。
つまり、ある意味では、終末には我々は皆ヘブル・クリスチャンになる。終末において我々が礼拝するのは、小羊だからである。
そうすると、エゼキエルの終末の預言もつながってくる。エゼキエルでは、終末に神殿が神の栄光の宿る場として出てくる。神殿とは、小羊の奉献のために築かれた場所である。神はイスラエルを捨てず、彼らの礼拝文化は、イエスにおいて成就した後にも捨てられていないことが分かる。
ローマ・カトリック/プロテスタント教会の2千年の歴史は、だいたいがこの使徒行伝のメッセージを誤解して、ただ西欧的なキリスト教、西欧的な価値観だけが真理であるとしてきた。
大航海時代から始まって、ヨーロッパは世界の各地を征服していった。行った先の文化は低劣であるので、これは滅ぼされるべきだった。その時の「滅ぼされる文化」とは、多くの場合、旧約の文化とそっくり同じであった。彼らがそこに見たものは、強い連帯主義、部族への個人の強力な従属・・・などであった。
西欧からの征服者たちは、これらの文化と慣習を野卑なもの、未開なもの、野蛮のものと見た。人類はこのようなものを捨てて進歩せねばならないはずであった。
そこで旧約聖書をどう考えるのか、旧約の中の出来事、人物たちの行動、倫理基準などをどう理解するのかという問題が我々に残る。従来、これらはイエス・キリストを指し示すのみであり、旧約の人物たちの行動そのものは無視すべきものとされ、旧約の倫理基準も捨てられるべきものと考えられた。
イエスが歴史上に出現され、クリスチャンが彼を救い主として受け入れた後には、もう象徴の価値は終わったのである、とされてきた。
クリスチャンにはもうイエスご自身と、彼の御言葉がある。イエスが誕生していなかった時代には、なるほど預言の言葉だけでは不足で予表的な象徴は重要だった。しかし、もうその時代は過ぎた。それが、これまでの解釈だった。
こうして、旧約聖書は軽んじられ、いまやキリスト教は新約聖書だけの宗教となりそうになっている。
言葉の上では「旧約も神の言葉」であると言い、旧約を重んじていると言うが、年間の礼拝説教の中で旧約からの説教は何度あるだろうか。筆者の知っている幾つかの福音派の教会では、年間にせいぜい1、2度というところもある。
おまけに世界的にプロテスタントの間では、マカベア書などの外典書が聖書と一緒に印刷されなくなっており、それらを読む習慣も途絶えている。ほとんどの牧師・伝道者も、これらを手に取って開いたことがない。主イエスは、ご自分を称して「人の子」と言われたが、その呼称の背後には当時の俗信があったので、その辺りのことが外典や偽典を読むと(人の子についてはエノク書など)明白である。こういうものをはじめ、福音書中の事柄で、外典の知識がないと理解できないことが多くある。
イエスの言葉も、真空の中で発せられたのではない。当時の人々の俗信を訂正する形で発せられたものは、その俗信を知らねば理解できない。
現在の日本の教会では、旧約からの説教が大切である。なぜなら、旧約からはアジア的な社会と倫理に通じるものを発見できるからである。日本的な家族の在り方で、旧約が教えていることと共通している面が多くある。いままでは、そこのところが無視されてきた。西欧的な価値観が優先しているのが、キリスト教会だからである。
西欧で発達した伝統的なキリスト教は、西欧社会で広まるために、旧約的なもの、連帯主義的なものを切り捨てた。西欧社会でキリスト教を伝道するためには、それはやむを得なかったし、また当然のことでもあった。聖書がさまざまな価値体系を並記しており、「正しくて唯一の倫理」などを提示していないのは、そのためであろう。それぞれが、自分の文化に一番近いところを取って伝道するように、それによって生きていくようになっているのではないか。
こうして西欧は、自分たちの文化に合致している要素を聖書から取って使った。そのような文化的な操作を他の社会もすべきである。ところが、ある社会で成立したキリスト教文化や倫理を、そっくり他の社会に受け入れさせようとすると問題が起こるが、それは当然である。
日本宣教においても、西欧の伝統を真理として受け取ってしまい、西欧の考え方を無批判に受け入れ、旧約的なもの、反個人主義的なものを排除する、そういう傾向が強くある。だが、これをやっていると、アジア的なものが極めて薄い、わざわざ日本に通用しにくいキリスト教を押し立て、それを日本に伝えようとして苦労することになる。これは、どうにかせねばならない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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