日本宣教学と戦争問題
なぜ宣教学で、戦争責任を扱わねばならないのか。明治の開国後に、日本は矢継ぎ早に戦争を体験せざるを得なかった。これは鎖国時代の250年間にまったく体験しなかった事態であった。それまでは鎖国という消極的な手段で戦争を回避してきたのだが、それでは間に合わなくなったのである。
これらの戦争は、外部の世界と日本の関わりそのものであった。日清、日露、太平洋戦争のそれぞれは、現代の日本が形成される上で避けて通れない過程であった。であるから、日本宣教学で日本とは何かを問うに当たって、戦争を取り上げないわけにはいかない。
もっとも、日本宣教学を構築するに当たって日本とは何かという再定義など求めず、うまく行った、または行かなかった実際例を集めて積み上げていくやり方もあるだろう。そのような、実用的な研究法も重要である。だが同時に、いわば基礎的な分析をやって、日本の体質を探る、というやり方もあり得るだろう。そのような研究法を取ることになれば、日本が関わった戦争は避けて通れないことになる。
日本宣教学の構築に当たっては、先輩である西欧のキリスト教諸国の日本観があるが、それらを鵜呑(うの)みにするのは生産的ではない。だいたい西欧のキリスト学者たちの意見は、我々は敬意をもって仰ぎ見るのが普通で、それは自然なことである。だが、これには気を付けねばならない。尊敬はいいが、鵜呑みにすると見当の違った思考に引きずり回されることになるかもしれないのである。
また、やってはいけないことは、先輩のキリスト教国の実際例をそのまま使おうとする態度である。その意味で教会成長見学ツアーのようなものがひところは催されたが、分析的な目で見ないと役に立たない。感心して、やる気を出して帰ってくるが、結局はあまり役に立たない、ということになりやすいのである。
福音メッセージの再確認
宣教学には、もう1つの任務がある。それは、自分たちが伝えようとするメッセージ自体の再検討である。
教会が福音を別個の社会、または文化の違う場所に伝えようとするときに、ある特別のことが起こる。福音宣教のメッセージには、必ず「送り手教会」の文化(日本にとっては欧米のキリスト教文化)が含まれているが、この文化は「受け手社会」の文化とは当然違っている。福音自体は不変であるが、福音を信じて社会に生きるときに必ず自分の文化を纏(まと)う。そのことを考慮に入れて異文化宣教をするとき、自然にメッセージの再検討が行われ、メッセージは再編成される。なぜなら、新たに「受け手社会」の文化を纏い直さねばならないのである。
その時、実は「送り手教会」の文化が明らかになるという副産物が得られる。福音と文化の区別が、この再確認によって明らかにされるのである。「送り手教会」では、何世紀にもわたる教会の伝統の中で「福音と文化」とのけじめが不明瞭になっていることが多い。異文化宣教の祝福の1つがそこにある。
これは、同じ文化の中の若い世代に対する宣教の場合にもいえることであって、大人の文化のすべてを絶対視すれば、若者への宣教が困難なことは明らかである。一例は、礼拝音楽の問題であろう。現代の若者の好む音楽は、伝統的な教会音楽とは違う。そこでフォーク調やロック調、またJポップみたいな音楽は、礼拝では使わないとしよう。
その教会は、クラシック音楽を基調とする伝統的な賛美が、キリスト教信仰の基本的な一部分であると主張していることになる(もちろん、そう「感じ」ているだけかもしれない。音楽に対する生理的な反応だったり、拒絶感であって、分析を伴わないものであることが多いだろう)。そうすると、一般の日本人がクリスチャンになる前に、クラシック音楽の「洗礼」が必要となる。これでは、礼拝音楽が伝道を邪魔することになる。
他方で、礼拝にフォーク、ロックなどを積極的に使用している教会があるとする。その教会にとっては、音楽の形式は福音とは本質的な関係がなく、礼拝において民衆の音楽を使用してもいいと考えていることになる。
どちらが正しいか、さまざまな議論があることで、その判断はともかくとして、世代や文化を越えて宣教しようとするとき、音楽をはじめとして、それまでは当たり前だと思っていたことにも、いちいち検討が必要になる。それらを整理するのも、宣教学の役目の1つである。
この論文は、日本の戦争の正当化が目的ではない。また、欧米の悪どさをあばき立てる暴露趣味が目的でもない。この文章の目的は、ひたすら我々の愛する祖国、日本に福音を伝えるとはどういうことなのかを追求するものである。
そのために日本の文化と体質の分析、キリスト教という宗教の体質の解析、体質の根底にあるエートスの発見などが必要となる。それが、21世紀の日本宣教学にとって必要である。そうすることは、我々が何を宣教しようとしているのか、我々が信じるキリスト教信仰とは何かを見直す努力の一部でもある。
日本という文化に適合する福音宣教を志すということは、これまで我々が信じ、宣教してきたキリスト教信仰の再検討の機会ということでもある。つまり、我々がいま宣教しようとするキリスト教信仰は、その中に侵略的体質、有色人種の文化を見下げるような体質を持っているか、いないのか、それを見極める機会でもある。それは伝統的な西欧キリスト教の残滓(ざんし)を我々が自分たちの内に持っているかどうか、を問うことでもある。
日本で宣教をしようとする我々の中にそのような「伝統的、西欧的なキリスト教」があるか、ないか、その見直しは宣教学のもう1つの目的でもある。日本宣教学とは、単に日本で通用する宣教の方法の追究にとどまらず、単なる伝道法ではなく、伝道のハウツーでもない。それらを越えたものである。
日本における宣教学とは、日本にプロテスタントが入ってきて170余年になるキリスト教を、どうしたらより効果的に伝えられるかということの考究である。そうして、そのためには日本文化の分析が含まれる。
しかしそればかりでなく、日本に持ち込まれた「キリスト教」が一緒に持ってきた文化の分析も含まねばならない。日本に持ち込まれたキリスト教の文化の全体はそのままでいいのか、それとも、その文化の一部は剥がして捨てるべきなのかを考えるのである。そのあとで、日本の文化のうちどれを着せるのか、またどれは着せてはいけないのか、などについても考えることが含まれる。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇