政治の道具としての宗教
何度か述べてきたことであるが、日本の精神史においては、織田信長による叡山焼き打ちと豊臣秀吉による石山本願寺の破壊以後、新しい伝統が始まったように見える。それは、政治が宗教の上位に立つという原則であって、叡山と石山寺以後、日本では宗教が再び政治の上位に立つことはなく、宗教は政治の手段として利用され続けてきたように見える。
そもそも近畿では、土地の半分が寺領や有名社寺の荘園であって、そのために戦国大名が育たなかったとさえいわれている。寺領のうちには、大名領に匹敵するほど大きいものもあった。前に述べたが、叡山は7万石の寺領があった。それらの寺領は、石山本願寺の破却以後すべて没収された。
当時の大坂とは、要するに石山寺の寺内町のことであった。いわば大坂の町とは石山寺の境内地のことだった。寺は武装し、いわば半独立国であった。秀吉は石山本願寺を滅ぼして信徒を殺戮(さつりく)し、町のすべてを焼いた。その跡に自分が設計して、難波という新しい都市を建設したが、難波は宗教都市ではなく商業都市であった。これは繁栄を極めた。根来寺は寺領1万石、大名に匹敵した。鉄砲の生産で有名であり、小銃で武装した傭兵で有名だった。秀吉はこの寺を落とすのに、10万の兵を使った。
この新しい伝統は、決して日本の社会が変質したのではない。もともと日本は、社会も政治も基本的には無神論的であったのではないか。アジアを通じて日本は一番迷信の少ない社会で、合理的精神に富んだ文化を持っているといえよう。
日本はもともと迷信と宗教的禁忌に左右されることの少ない社会であった。迷信や宗教的禁忌が一番影響力を持つのは、医療、農業、社会階層の3つの分野であろう。これらの面では、迷信が技術的な進歩を邪魔し、社会や制度の変化を阻む。ところが日本社会では、これら3つの領域における技術革新や変化が常にスムーズに行われてきた。むしろ、日本で迷信といえば、過剰医療や農薬の過剰使用といった技術信仰のことかもしれない。
ヒンズー文化では、カーストの呪いから自由になれない。ヒンズー文化のカーストの名残は、東南アジアの仏教に色濃く残存しており、階級感を多く残している。正統的な仏教信仰によれば、女は罪障が深くて救われず、変成男子(へんじょうなんし)の教えがある(女は修養によってまず男に生まれ変わることが必要)。
ところが、日本では男女は平等であり、鎌倉仏教では男女が同じ条件で救われることになった。13世紀に親鸞は、仏教信仰における女性の位置について革命的な提示をして、仏僧の妻帯を公式に認めた。仏典の主張や仏教の伝統よりするならば、女性はその存在そのものが汚れているとする。しかし、親鸞にとっては、仏典や伝統や釈迦の教えよりは、自分の人間洞察の方が優先した。こうして日本仏教は独自の歩みをした。
また、保守的イスラムの性差別は抜きがたいものがある。だいたいにおいて東南アジアのイスラムは進歩的で、中央アジアからアラブにかけては保守的のようである。
いま江戸時代の農学書の復刻出版が行われており、800巻ほどになっているが、それぞれがしっかりした内容で、分析的に農業の現象を見ていることが分かる。このような合理的な精神構造は、もともと日本社会に潜在していたと思われる。
信長・秀吉以後の日本社会にあっては、宗教は常に政治の道具であり、政治の側の都合によって操作された。このように政治が宗教の上位にあることは、日本社会では当然のことのように見られてきた。日本の伝統では、宗教が政治を左右する力を持たず、反対に政治によって道具として利用されてきた。
では、日本政府がキリスト教も1つの宗教であると考えて、これも積極的に利用して日本の政治に利用しようとしたことがあるだろうか。もし、神道イデオロギーが日本という国の根底にあり、その原理がすべてを支配していたのなら、そんなことはまずあり得ないというべきだろう。
しかし、日本という国は政治が上位である。宗教イデオロギーは、政治のしもべである。神道イデオロギーも、結局日本という国の政治によって利用されたにすぎないのである。たとえ、神道とは正反対のキリスト教であっても、もしうまく使えるなら利用するのに吝(やぶさ)かではない。
そういう論理によって、朝鮮総督府がキリスト教を朝鮮統治の道具として使おうとしたことがあった。朝鮮総督府は、欧米諸国が植民地支配の道具としてキリスト教を効果的に使っていると見た。自分たちもそれを試みようとし、日本組合教会に宣教師を朝鮮に送るように依頼した。組合教会は、朝鮮総督府に協力し宣教師を派遣した。そうして宣教師の派遣された地方では抗日運動が少ない、などの報告が総督府から出ている。(事実関係については、大村晴雄『日本プロテスタント小史』いのちのことば社、1993年、および戸村政博、前掲書)
朝鮮総督府による日本宣教師派遣は、やがて廃止された。組合教会の本拠が米国であり、それとの関係の深さがその理由だったと思われる。
前述したように、もし「神道イデオロギー」が古来よりの伝統的な日本の支配原理だったのなら、そんなことはまずあり得なかったであろう。しかし、日本は是々非々の国であり、原理・原則の国ではない。イデオロギーはどうでもいい、役に立つのなら何でも使うのである。
(なお、堤岩里教会堂の虐殺の場合は、英国紙が犠牲者について「天道教徒25名、キリスト教徒10名、全員が男子」と報じている〔杉本幹夫、前掲書〕。天道教徒の存在は、この事件が必ずしもキリスト教迫害ではなかったことを示している)
朝鮮半島におけるキリスト教迫害の間にはこんな一駒があった。迫害のうち、どれだけがキリスト教信仰に対するもので、どれだけが独立運動に対するものだったか。いつか誰かが分析せねばならない。
これはけだし、日本文化の底にある「言挙げせぬ」伝統というものが如実に現れている一例であろう。すなわち、思想について分析をしない、原理的思考をしない、世界観を構築しようとしない、多元的な現象をそのまま受け入れ、矛盾があっても平気であり、調和させようとせず、思考の中の曖昧さを嫌悪せず、不透明を忌避しない態度である。
一般に、これは日本文化の後進性の証拠であるとされている。確かに世界観の構築を求めない日本的な社会では、世界観を持った宗教は歓迎されていない。欧米的な思考であると、矛盾を含めばそれだけで真理性はないとされる。であるから明晰さが追求され、そこにこそ、英知があるとする。
しかし、世界観やイデオロギーがまた大規模な誤謬(ごびゅう)を生み出すことも多く知られていることである。世界観や哲学は、それがどんなに明晰な思想のように見えても、底辺にエートス、民族性、郷土的価値観というような、もともと分析不可能なものが、いわば「公理」のようにして、知的検討や分析を経ることなしに潜り込んでしまっていることが多いのである。
このようなものが前提を形成しており、欧州の民族の血の清浄、白人の優越などが検討不要の所与としてキリスト教思想の根底に入り込んでしまっていたのが現実であろう。だから、その上にいくら緻密に論理が積まれ、上部構造がいくら堅牢(けんろう)に構成されていても、それらが堅牢なほど、なにやら怪しさは増加するだけなのである。
白人の血の清浄が、思想的根底をなし、その上に緻密な世界観が構成されるという例はナチズムであろう。だが、カトリック、プロテスタント諸国によるアジア・アフリ力・南米などの奴隷化は、いわばナチズムの序章である。ナチズムはこれらの奴隷化の最頂点に位置する。ナチズムより粗野でかつ大規模で、数百年間にわたって実行され、目的を完遂してしまったのは、米国におけるインディアンの事実上の絶滅であろう。
それらの忌まわしくも恐ろしい政策を終わらせる第一歩が太平洋戦争だったのではないか。
戦前の日本の軍国主義的な、また国家主義的な体制というものをどう把握するか、どう分析するかが宣教学にとって重要であるのは言うまでもないことである。これは自分がその一部である日本という国を理解し、把握しようとする中で、避けて通れぬ部分である。宣教学的にも、これをどう把握するかによって、宣教の態度、方策などが違ってくるのは当然である。
もし特に日本がサタンに魅入られている国であり、それが「神道イデオロギー」として露呈し、それが諸悪の根源であり、天皇制をも生み出してきたのなら、けだし日本宣教学の緊急の課題は、「神道イデオロギー」の撲滅であり、それなくして、どんな宣教の方策も無益ということになる。
反対に「神道イデオロギー」も、所詮(しょせん)はキリスト教国による侵略と圧迫に対抗して生き抜くための、苦しまぎれの、かなり悲しい工夫だったのだとすれば、問題はむしろ既成キリスト教の側にあるということになる。果たして、どちらなのだろう。
私事であるが、1989年、昭和天皇の死去に際して、日本のプロテスタント・キリスト教会の大部分は大喪の礼に対する反対、天皇制に対する反対の雰囲気が圧倒的であった。筆者は、当時自分が所属していた教派の大会で、そのような雰囲気に反対し、昭和天皇の死は、キリスト教会が天皇制に対して反対を表明する機会ではないはずである。むしろこれはキリスト教のアジア・アフリカに対する過去の侵略的な歴史を告白し、謝罪し、悔い改めを表明する時であり、日本のキリスト教会も、この機会に日本の歴史に対して謝罪するべき時ではないか、と主張した。
筆者の論点は理解されず、後に原稿用紙500枚ほどの文書を準備して、これを教派に提出しようとしたが、なんと提出を拒否された。では、正式に取り上げなくてもいいから、これを牧師と各教会の長老たちに配布したいと願い出たが、それも禁ぜられた。ある1つの委員会にだけ、10部ほど提出を許された。そういう経験がある。
3カ月ほどかけて徹夜続きで書いたものを読んでもらえない。論じ合うことに意味や価値を認めない。そんな体質に失望して、自分が育ったその教派から離脱した。
本連載はその時の500枚の文書を骨格としている。また、「恵みの雨」誌上で「試論 日本伝道学」として30回余の連載をしたが、天皇制他は、牧会上のこともあり、触れなかった。しかし、いまにして思えば、プロテスタンティズムの根幹にも触れそうな問題を提議したのであって、出された方も困っただろう。仮に受けて立てば混乱は大きく、あれで小生の言論を封じたのはギリギリの判断だったのだろうと思うのである。だから、離脱は御心であったと思う。もし妥協して教派内にとどまっても祝福はなかっただろう。
その後は単立の立場で平安のうちに日本の社会を観察、分析、思索を続けることができた。日本社会における教会の形成について時間をかけて考えることができた。
柳田友信の『日本文化史緒論』(日本聖書キリスト教協議会、1965年)は、まず悪魔的な「神道イデオロギー」があり、それが宣教の妨げの根本原因であるという線で日本文化を論じている。この本は、古代日本の神話的概念と現代の軍国主義とを実に無邪気に直結して論じ、連合国司令部の方針で天皇制が温存され、むしろ強化され、それが伝道の障害となっていると論じている。
また、鎖国とは250年間の刑期で、日本社会が独房につながれたのであると断定し、徳川時代の日本社会については紙面をわずかしか割いておらず、日本の社会と文化を論じるのに近世(江戸時代)をほとんど無視している。
この著者には、強烈な思い込みがまずあって、それで終始している。歴史的資料などは見る必要がないので、日本の歴史にはおぞましいものしかないと考えているらしい。これは、いわば昭和30年代(1955~64年)のキリスト教会一般の雰囲気であった。いまどき、これほど単純で無邪気な論法は珍しいとしても、これに類似した論議がキリスト教界にはまだまだ行われている。
中世以後の日本社会では、宗教は常に政治権力に操られてきた。宗教的イデオロギーも政治権力によって作られ、書き換えられてきた。その伝統に従って、神道イデオロギーも政治によって操られてきたといえよう。この点を無視すると、宣教学的に見当外れなことになりはしないか。
まず神道イデオロギーありきで、それが諸悪の根元であり、日本の歴史と国家を動かしてきたとする、このような見方は歴史的な過程に合わぬし、日本の現状の分析にも合致しないと思う。
[付記]なお、2004年の暮れに、瀧井一博の『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ、2003年)が大佛次郎論壇賞を受けた。明治憲法成立についての優れた概括がされており、日本が国際社会の仲間入りをするということは、こういうことだったのかと目を開かされた。なお、宗教政策に関することは、何も触れられていない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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