祭神論争
1879(明治12)年に、日比谷の神宮遥拝所の祭神のことで出雲大社の関係者たちから、造化の三神と天照大神に大国主命(おおくにぬしのみこと、出雲大社の祭神)も加えて五神とするようにとの要求があり、反対者との間に大論争が起こった。幽冥界の神である大国主命を入れ、来世観を加えてこそ宗教の形態が整い真の安心立命もある、という主張であり、まさに正論であった。来世観のない宗教では、いかにも粗末である。
結局、明治天皇の裁定により、神社神道においては、造化の三神は省くことになった。そうして神社神道とは、皇室の先祖である天照大神を主神として祭るものである、ということになった。造化の三神を祭る、ということは宇宙的な神を認めることであり、それには浄土真宗からの反発も大きかった。
「神道とは皇室の先祖を祭り、これに敬愛の念を表す」ものにすぎないのなら、真宗にも納得がいった。神社神道の成立の事情には、このように各方面からの圧力があった。明治政府は、それらの対策に腐心しつつ妥協しながらこの新しい宗教を「製造」していった。こうして来世観はなし、宇宙論もなし、葬儀もなしという宗教としてはお粗末な内容で神社神道は成立した。宗教として豊かな内容のものを作ろうとしても、日本の社会がそれを許さなかった。
こうして神社神道の思想的貧困は余計に暴露され、神道関係者には宗教としてやっていくことの不安感が増した。もう神社神道の残る道は、政府の保護のもとに祭祀を行い、「非宗教の習俗」としていくより他にないとする意見が多くなっていった。
自分は1941(昭和16)年、小学校2年の時、『古事記』を読み、そこで造化の三神のことを読み、聖書を読むのと同じ感覚でこの最初に出ている神様こそ、天照大神より偉いはずではないのか、と教師に質問したが、ムニャムニャと何かごまかされてしまい、ともかくアマテラスオオミカミが偉いのだ、という回答でそれ以上はよく分からなかった。3年になって担任が変わったので、また質問したが、やはりはっきりした答えはなかった。
こうして80歳を前にして、そういういきさつがあったのか、とやっと分かった次第で、初めて腑に落ちたのである。
<明治政府の神社政策>
神社行政
政府は、神祇事務局を太政官の下に置いたが、翌年1969(明治2)年の版籍奉還に際して祭政一致の原則に従い神祇官を設け、太政官と並んで置いた。この時、国政のための総理大臣と並んで祭儀のための総理大臣を置いたのである。しかも宮中の着座の順位では神祇官が最右翼であり、形式的には太政大臣より上位ということになった。これは古代官制にならったのであり、平田派の学者が登用された。復古神道の国教化がはかられ、神社神道の輝きに満ちた出発があった。
ところが、驚くべきことに2年たって、1871(明治4)年の廃藩置県に際し、神祇官は廃止されてしまったのである。神道の祭りこそが、国政の最重要項目であるという、その滑稽な方針は捨てられた。神祇省が作られ、太政官の下の一省となった。神社はその神祇省の管轄となった。
初めは、明治政府とは神祇官が率いる役所と太政官(だじょうかん、総理大臣)の担当する役所の2つで構成されており、形式的には、神祇官のほうが上位であった。
ところが、2年たたぬうちに、このように神祇官は廃止されてしまい、そうして政府は一本化されて、太政官が率いる役所のみとなった。その太政官の下に、神祇省が置かれることになった。このように2年足らずのうちに、明治政府の政治機構は再編成され、「祭政一致」などというものは捨てられてしまったことが分かる。
さらに驚くことには、翌年の1972(明治5)年に、その神祇省も廃止され、教部省が置かれることになった。これは要するに妖教(キリスト教)対策として神・儒・仏による教導職を置き、三者で反キリスト教宣伝を行うという省であった。ところが、儒者といってもそもそも少数であり、事実上は神・仏の宗教家が当たった。せっかく神・仏の分離をやったのにまた共同して反キリスト教の宣伝をするのであった。この教部省の設置とはもはや「祭政一致」などというものが遠くなってしまったことを示している。おまけに教部省が重用したのは神職ではなくて僧侶たちであった。
初期には教部省は、芝の増上寺に大教院というものを置き、各宗派の代表をもって構成しようとした。ここには造化3神と天照大神の4柱を祭ったが、西本願寺派は「神祇不拝」を宗規としており、これには不満で大教院から脱退した。各府県に中教院、各地方に小教院を置いたが、小教院には神社と寺院が使われ、神祇の布教に当たらせた。しかし、民衆に対して語り掛ける実力を持つものは仏僧しかなく、急速に形骸化した。
なお、村上重良『国家神道』によれば、当時文部省の年間予算が133万円であったのに対して教部省の予算は年間7万円にすぎなかったという。教部省とは、要するに「祭政一致」を捨てているのを隠すための煙幕にすぎなかったようである。幕末の1両は20万円に相当するようであるが、明治初年の1円が1両と同じ(そんなハズはないのであるが)なら、文部省の年間予算が21世紀初めの通貨にして260億円で、教部省のそれは14億円ということになる。なお、明治初年の人口は3千万ほど、21世紀初頭の日本の人口の4分の1ほどになる。それに合わせて4倍すれば、千億余円と60億円ということになる。
キリシタン禁制の高札は、1873(明治6)年に撤去された。理由は「一般熟知ノ事ニ付向後取除キ可申事」というので、つまりもうよく知れ渡っているので、取り除いてもいいというのが理由となった。
浄土真宗は教部省の大教院から1874(明治7)年に脱退したが、1877(明治10)年には今度は教部省そのものが廃止となった。神社は、内務省社寺局の管轄になった。神社神道は国教のつもりであるのに、寺院と同じ部局に置かれ、抵抗があったが、明治政府はそれを無視した。「祭政一致」すなわち「神社神道の祭りが、すなわち日本国の政治である」とは維新の大原則の1つのはずだったが、 明治政府はそんなものを守る気はまったくなかったことが分かる。
1869(明治2年)に神祇官を置いて発足した政府であったが、3年後には祭政一致を捨て、教部省という無内容のものを置いてお茶を濁し、さらに1877(明治10)年に神社は内務省社寺局の管轄下に置かれることになった。
国会の中には、「祭政一致」を尊重せよという声もあり、それで1900(明治33)年に内務省に神社局を置くことになった。神社以外の宗教の監督のためには別に宗教局を置くこととなった。この時、1872(明治5)年以後、初めて神社が仏教とは別の扱いをしてもらえるようになった。
だから、「国家神道」の発足は、この年からと言えるが、神祇省が置かれたのでなく、内務省内に神社局が置かれただけだった。維新からこの時までに、すでに30年余が経過していた。維新の一大原則であったはずの「祭政一致」であるが、これは明治政府にとっては、余分な重荷であったことが分かる。なお、1913(大正2)年に、宗教局の方は文部省に移った。
新設された神社局の実体はどうだったかというと、局長として勅任官を置いたが、その他に高等官は置かず、判任官を10人ほど置いたのみであった(ちなみに海軍の位で言えば、勅任官は中将と少将が相当。奏任官はそれ以下の将校で、両者をあわせて高等官という。判任官は下士官相当)。つまり、神社局に局長は置いたが、あとは部、課は置かず、係長以下のみで10人余という役所、「何にもせん局」と言われた。明治政府が神社神道に、いかに消極的であったかが分かる。
このように国家神道の成立は、形式的には1900(明治33)年、内務省に神社局が設置されたときであると考えられる。維新の中心的イデオロギーの1つであったはずの祭政一致であるが、法律的に体裁を整えるまでに30年余がかかったことになる。しかもこの形ばかりの「祭政一致」も1935(昭和10)年までは「天皇機関説」によって、いわば骨抜きにされていた。
それらを合わせて考えると、1935(昭和10)年、すなわち、議会において天皇機関説が公式に排撃され、否定されたときが1つのけじめであろう。この時、すでに維新から50年が経過していた。そうして「祭政一致」が本格的に行われるようになったのは前述したように1940(昭和15)年、翼賛国会で神祇院が内務省の外院として置かれたときであろう。これは敗戦まで、せいぜい5年の命だった。
祭政一致とは、維新の原動力の1つに見えたが、事実は脆弱(ぜいじゃく)性を内包しており、日本の近代化に対する重荷であった。明治以後の歴代の政府はこれを骨抜きにし、捨て去ろうとしており、神社に対する補助金の打ち切りの方針にもそれは窺(うかが)えるのであるが、それについては省略する。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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