明治政府と神道
国家神道を論ずるには、どうしても明治維新を論じなければならない。明治維新と国家神道を切り離すことはできないからである。そもそも明治維新とは何だったのかを把握することは簡単なことではない。だから、小生のごとく専門でもない者が、首を突っ込むことは無謀にも見えるであろう。
しかし、ここでも繰り返すが、日本宣教を志す者にとって、宣教学の視点からする明治維新の分析と把握は避けて通れぬものである。クリスチャンで幕末・維新を専攻する人に出会いたい、そうして教えを乞いたい、筆者の切なる願いである。
しかし、いまは乱暴であっても、資料が限られていても、21世紀に生きるクリスチャンとして、日本宣教という見地からの分析を試みなければならない。これなしには日本宣教研究はカラ回りしてしまうように思うのである。
明治政府は幕府から政権を受け継ぐに当たり、鎖国時代の230年間にわたって保護され惰眠をむさぼってきた仏教をアッサリ捨てた。キリスト教国からの侵略は、もう鎖国と仏教によっては防ぎ切れなくなっていたのである。蒸気機関の発達により欧州や米国の軍艦がアジアに来ており、アジアの中に基地を持っていた。日本はいやでも門戸を開かねばならず、開国に至った。
開国の瞬間からさらに大きな課題が政府の肩にかかった。それは外国の攻撃と侵略からどうやって日本を守るかという課題であった。キリスト教国からの侵略を防ぐためには、日本は軍備ばかりでなく、キリスト教に対抗できる宗教を持つべきである。鎖国中は仏教によって防いだが、開国に当たって仏教はまったく役に立たない。そこで政府は230年間にわたり日本の国教とされていた仏教を一夜にして捨てた。
この辺りを見ると、日本の精神史の伝統の、宗教が政治の「小道具」にすぎず、政治は常に宗教の上位にある、という面が如実に現れていることが分かる。つまり、日本の歴史において宗教は政治の道具であったが、それも大道具ではなくて、あくまで小道具にすぎなかった。
こうして仏教を捨てるのは日本の古くからの伝統に従って行われた。宗教は国家目的のために操作され、管理されるのである。不要になった仏教は特権を失い、一夜にして捨てられた。
仏教の代わりに明治政府は「復古神道」をもって国教としようとした。既成の宗教では対抗できない、そこで1つ新しい宗教を考案しようというわけである。天皇家の神道祭儀と、それまで一握りの学者の頭の中にあっただけの宗教哲学とを合一させて実際的な宗教に仕上げようとした。
このように、明治政府は新しい宗教を製造し、普及させようとしたのである。まさに日本的伝統の面目躍如というところである。そこで政府は神祗官を置き、復古神道に宗教としての体裁を与え、宗教哲学に諸儀式の衣装を着せることになり、神道の葬儀を布告し、今後は神道で葬式をせよと命じた時期もあったが、神葬はやがて廃止された。
維新と神社神道
鎖国を続けていた日本に米国を主とする西欧からの軍事的圧力が加えられ、日本は開国した。総督ペリーは、当時の世界でも最新鋭の戦艦をもって日本に来た。彼は平和の使いなどではなく、戦いに訴えると言って脅迫し、大砲を発射した。当時の国際法で定められた距離を破って東京湾の奥深く入り込み、また無断で測量をした。
このような開国から始まった維新が成功するには、3つの要素が必要であった。
1つ目は、開国後は外国からの脅威を直接に受けるのであるから、戦力の増強を行わねばならない。
2つ目には、西欧と交際し通商を行うために、国家や社会の概念、法、制度などを西欧のそれらとコンパチブルにする必要があった。つまり、日本の社会の諸制度を西欧のそれらと接続可能、比較可能、コミュニケーション可能な形態に変えるのである。
第3の要素は、日本国が全体として一致してこれに当たる、ということである。
歴史を見ると、第3世界のすべてがこの3つの要素の達成に困難を経験しているといえる。 まず1つ目は、開国しても国力が弱いために西欧の奴隷の状態に落ちる。2つ目は、開国したが、文化的な懸隔(けんかく)が大きすぎて有効に通商が成立しない。気が付くと、そこのところをうまく立ち回られて搾取されることになってしまっており、その構造をなかなか変えられない。
3つ目には、開国などの大きな変化に際して、それまで潜在していた国内の矛盾が顕在化して内戦状態になる。西欧側の「死の商人」たちに武器を供給されて、戦乱のドロ沼に落ちるというパターン。それは第3世界ばかりの問題ではない。現在、ソビエト・ブロックの瓦解(がかい)後の旧衛星国の情勢についてもいえることである。
これら3つの障害をクリアして前進している国は少数である。明治維新はこれらに成功し、近代化の革命としては世界でも最も流血の少ない経過をたどった。国内で軍事的な実力を持つ者が有無を言わせず周囲を屈伏させる、という形にはならなかった。
明治維新の1つの特長は、開国という現実に際して日本人は、新しいイデオロギーを共同で見つけよう、新しい日本の自己理解を共有しようと努力した、ということである。つまり、維新の動きの中心に、その共通理解を得ようとする流れが強力に存在していた。だから、維新史は単なる国内の抗争史ではない。これはまたイデオロギー史でもある。
そのために日本全国が論じ合い、動き回り、小競り合いをし、また重ねて論じ合い、軌道修正をしながら進んでいったのが維新であった。
幕末から維新にかけての歴史を見ると、日本人は動く前に論じ合ったことが分かる。「日本」というものが何であるのか、民族と国家の意味とは何か。それらを確かめ合い、お互いの理解を知り合おうとする、そのようなエネルギーに満ちていた。方々に私塾ができて、国の進むべき方向を考え合い、論じ合った。
長州は維新において最も活躍したが、初期には「長州者は論ばかりで行動せず、腰抜けである」と評された。つまり、幕府を倒したあとの国政について、長州は最も論に長けているとされた。幕府を持たない日本について、それがどんな形態で、どんな意味を持つのか、長州は伝統的にそのことを論じ、追究した。それで実行力がない、口先だけであると言われたのである。
なぜそのような国民の総意といったものが形成されたのか。日本人は総意の形成がないと不安であり、まずそれを求める。そうして、いったんそれが形成されると安心して従う。
皆がやっているから私もやる、というのは日本人である、とよく言われるのだが、実はその前に総意の形成のための努力がある。まず、皆が何を考えているのかを知りたいという熱意がある。そういうパターンをなぜ日本人は取ろうとするのだろうか。1つには、日本が単一言語の国家であったことが挙げられる。また、初等教育が普及しており、17世紀には、都市では事実上文盲が不在であった。
はるかにさかのぼってみて、『万葉集』編纂(へんさん)の事業を考えても、これは6世紀から200年かけて全国から詩歌を集めて編集されたアンソロジーである。農民、兵士から宮廷人に至るまでの詩歌が集められ、月を見ても花鳥を見ても、日本人としての共通の感慨が表現されている。すでにその頃から、日本人というもののアイデンティティーが情感的なレベルでは成立していたといえるのである。
また、そこにあるのは、国家を大切にするという伝統、地方や藩などを越えた「日本」というものの意識である。こうして維新も共通の意識、全国民的な総意のようなものが形成されながら進行したのであった。そういう日本人のクセのようなものが見えるのである。
さらに、文書によって自分の思想を述べる訓練が、下級の武士や庶民に至るまで成立していたことも挙げられる。多量の文書や書簡によって自分の思想を述べ、それによって国家の全体としての方向を何百年も左右するような動きというものは、すでに鎌倉時代に日蓮や蓮如がやっていることであった。
さて、維新の最初の段階は、まず外国に対するアレルギーの形を取った。これは 「尊皇攘夷」であるが、ただちに変化して「倒幕運動」となった。その次に来る段階は「天皇親政」と「祭政一致」である。そうして、仏教を清算し神仏分離を行い、新しい国教としての神道の成立をはかった。ただ、このことには紆余(うよ)曲折があり、決して一筋縄ではなかった。
次に順次、その概略を述べたい。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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