朝鮮半島から由来の神道
次に韓半島から由来した、神社の問題を考えてみたい。金達寿は日本国内の朝鮮半島起源の文物を現地調査して報告しており、それらは『日本の中の朝鮮文化』(講談社)シリーズで報告されている。
彼の調査の特徴は、新規の発見や発掘ではないことで、すべて古来から朝鮮半島からの伝来として記録のあるものばかりを追っている(それらの記録とは、『古事記』、『日本書紀』、各種風土記、社寺縁起などを指す)。彼はそれらを丹念に尋ね、再確認している。
その報告を見るにつけ、日本の神社の多くに「大和民族」固有でなく、朝鮮半島から伝来したものがあることをいまさらながらに気付かされる。2、3の例を挙げると、同シリーズの第5巻の中に敦賀の起源がある。
敦賀はもともと角度(つぬが)であり、崇神天皇の世に任那(みまな)の王子の都怒賀阿羅斯等命(ツヌガアラシトのミコト)が気比浦に上陸した。そうして地名を「つぬが」とした。(『日本書紀』、垂仁天皇、第2年の条)
また、仲哀天皇は角鹿を訪れ、笥飯宮(けいいのみや)を建てた。現在の気比神宮である。この気比神宮の祭神は、新羅(しらぎ)の王子の天日矛(アメのヒボコ)であり、神名は伊奢沙別命(イササワケのミコト)であり、若狭一宮である。
言うまでもないことだが、任那も新羅も韓半島に存在した国名である。
もう一例は、能登半島、中島町の久麻加夫都珂良志比古(クマカブトアラシヒコ)神社である。この神社の神体は、朝鮮道服(道教)を纏(まと)って、冠帽をつけた木像といわれている。金達寿は宮司から特別に拝観を許され木像に対面し、その通りであることを発見し感動する。また翌年の祭りの季節に訪れ、祭りの行列の歩き方が朝鮮式のステップであることを発見して感激する。
古記録によると、能登半島の神社の8割が百済(くだら)、新羅よりの渡来とされているが、そのことを金氏は再確認する。さらに越中に移り、富山県の小矢部(おやべ)市史から、同県の栃波(となみ)郡内の神社の祭神はすべて『古事記』『日本書紀』に見える神名に変えられてしまっているが、 なお「・・・ほんらいの姿はあらわれていない・・・古い伝承・・・郡内ではまず異国の神々の存在を忘れてはならない」というところを引用している。
7世紀の百済の滅亡の前後に多くの渡来人が大和朝廷に来たことは歴史に明らかである。通常は朝鮮半島の文化はまず大和朝廷に伝来し、そこからあらためて地方に波及したとされるが、能登半島の場合は、日本海を渡って直接に渡来したと考えるほうが自然であろうと金達寿は言う。
さらに、興味のあることであるが、金氏は読売新聞に載った、東京医科歯科大の島本多喜雄氏の報告について書いている。(新聞の日付はない)
それによると、島本氏は百済の歴史博物館を訪れたところ、鳥居と千木(ちぎ)を備えた建物であるのに驚いた。(千木は神社の屋根の上に部材が逆八の字に立ち上がっている物。神社建築の典型)
実は韓国でもこの建物に対して、これは日本の神宮ではないか、何でこんなものをいまさら建てるのかと非難轟々(ごうごう)であった、と。ところが史実によると、これが百済の王宮の正式の建物であるとのことで、韓国民は納得したという。
この記事を紹介した後で、金氏は鳥居について述べているが、沿海州(シベリアの日本海沿岸地域)のツングース、ギリヤーク族などの習俗の中には、墓地の入り口に鳥居を置くものがある。この「鳥居」には実際に鳥が刻んであったり、または鳥を彫刻したものが吊るしてある。これは韓半島から沿海州にかけての、死者の霊魂は鳥となって飛ぶとされる思想から来ており、鳥居とは、霊魂が鳥となって飛来したときに止まる場所である、と金氏は言う。
同氏は、鳥居が沿海州の葬送の風習の後、一部として始まり、百済(346?〜660年)の王宮の建築に取り入れられ、さらに日本に渡来したと考えている。
なお、百済の滅亡の後、仏教の伝来により鳥居は破壊されたようである。朝鮮は原理主義的な傾向の強い国であり、仏教も排他的性格を帯び、土俗信仰の象徴である鳥居を廃止したようである。日本仏教が、地主神として民間信仰を境内に取り入れて同居させたのとは対照的である。
李王朝はその後、儒教を国教としたが、その時、今度は仏教を迫害した。これを崇儒排仏という。その時、仏教とともに、仏教に関わるものの多くを排斥し、茶の飲用も廃止されたという。日本人の是々非々主義とはかくも大きな違いである。
李氏朝鮮では、人間を7つの階級に分け、最低の第7の部分に旅芸人、遊女、仏僧、被差別民などを入れた。民俗芸能をやる旅芸人は売春も行い、それを仏教寺院が管理するという形が長く続いたようである。韓国には古寺が少しは残っており、日本人の旅行者は韓国の古寺に興味を持っているが、韓国政府としては仏教寺院をあまり観光の目玉として推奨していない。そのような歴史的事情もあるらしい。
日本の神道学者は鳥居については外来説を排し、在来説を取るものがほとんどであり、天岩戸(あめのいわと)において鶏に時を告げさせた、その時に止まらせた木であるとする。10世紀の百科事典の『倭名抄』には「鶏栖」という別名も述べてあるという。
もし金達寿氏の説明が正しいとすれば、鳥居がなぜ「鳥」「居」なのか、ここに説明がつくことになる。
そこで、仮に鳥居が純粋に日本由来のものであり、朝鮮からの渡来ではないとしよう。鳥居の起源は日本国内で、鳥居は日本的なものであるとする。しかしその場合でも、なお日本の鳥居に類似のものが朝鮮半島から沿海州にかけて存在していたという事実は否定できない。
そうすると、神社神道というものが極めて日本的なものであって他国にはなく、神道イデオロギーなるものが古来から近代に至る日本を支配したと絶対的に主張はできなくなる。それは1つの可能性かもしれないが、それと並ぶ有力なライバル仮説が存在することになる。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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