歴史上の「神道」
日本中、至る所に神社がある。そこでは、古式に従って神事が行われており、一般的な印象からすれば、古代からこの形で続いてきたと思われる。しかし問題は、そんなに簡単なものではない。現在の神社の形態は、明治以後のことなのである。それ以前は、神社の形態は非常に異なったものだったのである。
東京の郊外の高尾山に登ると、仏教寺院であるはずなのに鳥居がある。 混淆(こんこう)の名残がある。明治になって法律により神仏の分離が命じられたが、東京には多くの神社・仏閣があり、高尾山は甲州に近い山の上でもあり、監視が行き渡らなかったのだろうか。高尾山薬王院に限らず、このような混合の名残は全国各所に見られる。
実は、明治からさかのぼって千年以上の間、神道は仏教の一部であり、神官は経を読み、仏教の勤行を行っていた。千年間というものは、独立した神道の神社などというものは存在したことがなかった。
「神仏混淆」という用語が問題である。この用語を見ると、もともと神道と仏教は、2つの独立した宗教であった。そうして、それらがいつしか「混合」した。そういう意味が含まれている。
明治になって「神仏判然令」が発布されて両者は分離したのだが、その分離によって「本来の形」に戻った。そういう印象を与えるが、この説明は果たして正しいのだろうか。
実は、そこのところが明白でない。戦時中に鼓吹(こすい)された「国家神道」は、日本に古来からあった伝統的な宗教ではないのである。神としての天皇を中心とする「国家神道」などというものは、明治政府が学者に命じて考案させたものであった。それまでは「国家神道」なるものは、存在していなかったのである。
そもそも純粋な「神道」というものは、どのようなものだったか。また果たして純粋な神道などというものがあったのか、それとも無かったのか。実は、それについての歴史的な資料は欠如しているのである。「純粋な神道」などというものについての文書記録は、存在しないのである。つまり神道に関する記録は、そのすべてが仏教と混合した形の記録であり、いわば仏教信仰の一部、または辺縁としての神道の記録しか存在しない。
神道とは何かという問いに対する答えとしては2つあり、① 土俗のバラバラの神々信仰が多層に仏教に寄生することによって成長し、成立したとするものが1つである。また、② 神道という独立した宗教がまずあった。そうして中世以後、それが仏教と混合した、というのがもう1つの説である。実は、これら2つの可能性のうち、どちらにも証拠はなく、いずれも仮説にすぎない。
① を支持する立場としては、中国で「神道」とは道教のことであり、日本でも最古の「神道」に関する記述は明らかに「道教」のことであるとする(大阪市立大の黒田俊雄、平雅行など)。彼らによれば「神道」は独立した宗教として存在したことはなく、常に仏教の一部だった(平雅行著『日本中世の社会と仏教』塙書房)。
また、黒田俊雄の『王法と仏法』(法蔵館)には、仏教の哲学性、また来世性を補い、現世の祝福を与えるものとして民間の神像礼拝があり、老翁、狩人、行者、童子などを礼拝するものがあった。それらが仏教哲学を補うもの、現世の祝福を担当する部門として発達した。それを神道という。
これに反し、② の考えによると、日本にはもともと神道があったが、やがて仏教が伝来し、両者の混合が行われたとする。この立場にも、証拠は存在せず、仮説にすぎない。また、専門の学者で ② を取る人はほとんどいないようである。
繰り返して言うと、「独立して存在していた神道」とか、「仏教との混合によって変化させられる前の純粋の神道」についての存在の証拠は存在しない。歴史上で知られる限りの神道とは、常に仏教信仰と混合された形で記録されており、仏教信仰の一部を成している。
神道の起源などということについて、小生はこれを論じる資格など到底ないのであるが、なお現代に見られる事物のうちから、神道の起源をうかがわせると思われる2、3の事例、または要素を取り上げ、それらについて考えてみたいと思う。
あえて資格のない者が、神道の起源について論じようとするのはおこがましいのであるが、やはり試みねばならない。なぜならば、日本宣教学はそのことの論議なしでは成立できないのである。また、宣教学の見地からして、ある程度の妥当性を持った議論はできるのではないか、と思うのである。そこで原始神道、朝鮮半島由来の神道、御霊信仰の3つに分けて、神道の起源を考えたい。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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