原始神道
神社神道は、明治以後に成立したのであるが、いわゆる「民間信仰」が持っているような迷信的な諸習慣、神憑(つ)き、お告げなどといったものは持っていない。仮にあったとしても、それは信仰や行事の辺縁にすぎない。
例えば、神社神道では、病気の平癒のための祈りを引き受けない。神社神道において巫女(みこ)は神籤(みくじ)を販売し、神官が行う儀式の助手をする。しかし、 巫女本来の意味である降神状態(憑依[ひょうい])になり、倒れて泡を吹き、白目を剥(む)き、お告げを口走るというシャーマンとしての役目は持っていない。
戦時中も、戦後も、神社神道では巫女はそのような機能を持っていない。いわば、巫女は「非神話化」されているのである。ところが、それぞれの神社の縁起、社伝、言い伝えなどを調べると、それら迷信的な諸習慣が神社の起源には多く見られるのである。
「民間信仰」とは、何か官許の正式の宗教でないという意味に使われることもあるが、ここでは「習俗的なもので、民衆の間から自発的に出て、組織された宗教団体とは無関係のもの」としておく。
これらの民間信仰の多くは、やがて組織された宗教に取り入れられていく場合もあるし、地蔵信仰のように、境内に辺縁的なものとして同居させている場合などがある。
神道の古典である『古事記』『日本書紀』などに出てくる姿は、より民間信仰の形に近いものであるといえよう。神社神道は、その成立においてこれら民間信仰的なものから「分離」を経験した。その「分離」については、あらためて後に述べたい。
琉球神道
沖縄には、神社はほとんどない。ユタに代表される民間信仰があるのみである。ユタは霊能者であり、集落の婦人のうち、シャーマンとしての体験を持つものがなり、依頼されて祖先祭儀やその他の祭儀を行う。4月に行われる清明祭(シーミーサイ)という先祖の祭りがあるが、もっぱらユタがこれを執り行う。この先祖の祭りには読経がなく、仏教寺院との関わりはない。さて、このような沖縄の習俗と神道の間には、関連があるのだろうか。
17世紀の初め、関ヶ原の頃、浄土宗の僧侶の袋中(たいちゅう)は明に行こうとしたが、途中で台風に遭い、琉球に漂着した。琉球王は彼の教えに帰依し、袋中は寺院を建立し布教した。この袋中は琉球王の求めに従い、琉球の宗教事情を研究して『琉球神道記』を書いた。
そこで袋中は、ユタのそのような民間信仰を「神道」に入れているのである。袋中のそのような扱いは、日本本土におけるその当時の「神道」も同じような面があったことを示唆している。
ユタは森の中に礼拝所を作る。それを御嶽(ウタキ)と呼ぶ。これはまた杜(モリ)すなわち樹木で囲まれた礼拝所で、ひときわ高い樹木が依代(ヨリシロ)で、そこに神霊が宿る。これは招代(オギシロ)とも言い、神霊が招かれて宿る所である。
これは神霊がそこらじゅう、どこにでも宿ると、耕作ができなくなったり、立ち入り禁止の場所がたくさんできて困るので、依代には人間の側で神霊の宿るところを誘導する、または管理するという面もあるらしい。
御嶽の拝礼はユタをはじめ女人だけで行う。その場所は、祭事のないときでも男子禁制であることが多い。こうして御嶽において祖先の霊の祭りが行われる。
こういった儀式とその意味については、柳田国男の『海南小記』に詳しい。また、折口信夫(おりくちしのぶ)にも詳しい。
このような習俗は、神官や職業的な祭司によらず、建物を持たず、村落の共同体の中で行われる神事である。これは果たして、琉球だけのことなのだろうか。
ニソの森
同様な形で先祖の霊を祭る習俗は、ほぼ同じような形のものが日本全国にあったという。
そのうち、比較的に近来までその痕跡を残しているものとしては、若狭の大島半島のニソの森がある。つい最近まで同半島の先端に杜(もり)とされる箇所が30カ所ほどあったという。霜月23夜、ニジュウソウからニソの杜という呼称が来たらしい。(『講座・日本の民俗学7 神と霊魂の民俗』雄山閣の中の論文、金田久璋「祖霊信仰」に詳しい報告がある)
金田によると、福井県では一般に同族神、屋敷神として祖先の霊を祭るという。これらはニソの杜、モリサン、ダイジョコ、大神宮、地の神、地主神(ジノッサン)、地主荒神などと呼ばれている。越前は浄土真宗の影響により、民俗行事はことごとく排斥されているが、若狭には豊富に残っているという。
また、朝日新聞社発行の「論座」2003年8月号には、岡谷公三の「御嶽の問題・・・韓国の島々から」という報告がある。彼は若狭のニソの杜をはじめ、西石見の荒神の杜、鹿児島のモイドン、山口県蓋井島(ふたおいじま)の森山などを尋ねた。さらに、この習俗の広がりを求めて韓国済州島を尋ねて、そこにほとんど同じ習俗があることを報告している。また彼は、韓国南西部の島々も調査し、閑麗(ハルリョ)水道の蛇梁島(サリャンド)という所に同様の習俗を発見し、巫女による祖霊礼拝という共通要素があることを述べている。
以上、簡単であるが、古神道の1つの形態を見た。
自然崇拝
原始神道の信仰の中には自然崇拝がある。 福岡県宗像市の宗像大社は3つの宮で成立している。総社と呼ばれる一番大きな宮は九州本土にあり、これは辺津宮(へつのみや)と呼ばれている。
筑前大島という海上10キロの島にあるのは中津宮(なかつみや)であり、さらに遠く壱岐との中間の沖ノ島にあるのが沖津宮(おきつみや)である。ご神体とされるのは沖ノ島自体であり、島には小さな拝殿があるのみである。沖ノ島からはさまざまな奉献の品が発掘されており、そのため「海の正倉院」とも呼ばれている。
九州本土にある総社(辺津宮)は、広大な社殿と境内を持っているが、その拝殿の正面の壁は観音開きになっている。それは神体である沖ノ島をはるかに望み見て拝礼するようになっている。沖ノ島のこれらの供物が集中している時期は遣唐使の初期の段階である。
遣唐使ははじめ壱岐、対馬から朝鮮半島に進み、さらに半島の西側に沿って北上、山東半島を回り航行した。沖ノ島は、海が荒れたときの避難所として使われ、また遠く航海に出るに当たって陸地から60キロのこの島が、それからの航海の安全のための礼拝の対象となった。遣唐使は国家事業であり、沖ノ島の祭祀は、その一部であった。
のちの白村江の戦いの後で、日本と新羅の国交が絶えた。そこでこのルートは、663年以後は使用されず、第7回の遣唐使(703年)からは南島路を取り、種子島を経由して唐に向かった。その後、さらに五島列島から直接に東シナ海を突き切り中国大陸へ向かった。
従って、沖ノ島の国家による祭祀は630年から663年に至る約30年間余りのことであり、出土品もそれに対応するという。(小田富士雄編『沖ノ島と古代祭祀』吉川弘文館)
自然崇拝の例は、三輪山を神体とする奈良の大神(おおみわ)神社にも見られる。拝殿の正面の壁はやはり扉となっており、正式な拝礼は、この扉を開いて神体である三輪山をはるかに仰いで行う。
日本の各地に山を神体として礼拝し、そのために山頂の社は粗末で、下社と呼ばれる中腹の社が壮大である例が多くある。相模大山、また駿河の秋葉神社など、多くその例がある。高尾山薬王院もこれを神社として見れば、 同じ構成であって中腹の拝殿が立派で、山頂の社は粗末である。
これは琉球神道にも、御嶽の他に拝所(ウガン)というのがあり、オトオシともいうが、遥拝所で遠く海上の島を拝む。有名なのは、沖縄本島の南端に隣接する久高島を礼拝する。これは首里の王宮から見て東にあり、朝日がこの島から昇るところから祖霊の島とされている。
神社神道の起源には、このような巫女によって執り行われる祖霊の崇拝があり、それと並んで世界霊のような、より普遍的な霊の礼拝のごときものがあり、その対象として自然物、島とか山を礼拝するものがあるといえる。
これらは別個のものでなく、祖霊が合して普遍霊が成立すると考えられる。また、世界霊と祖霊は合して、そこに家族や同族の観念を越えた国家の観念の始まりのようなものを見ることができる。
すなわち、ここに「神道イデオロギー」と後に呼ばれるようなものの萌芽を見ることができよう。古代文化における国家観念の自然な現れとしては珍しいことではないといえよう。
こうして神道の原始的な形態を考えるとき、沖縄のユタの祭祀と共通性があり、また朝鮮半島にも類似の祭祀の存在を報告している人がある。この原始的な形態においては、たぶん日本独自なものはない。むしろ、東アジアに共通する祭祀との類似性が、色濃く見られることが分かる。
すなわち、この段階の神道には「日本的な神道イデオロギー」などはまだ存在していないことが分かる。むしろ、そこに見られるのは、東アジアに共通する祖霊礼拝のパターンである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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