日本伝道を考えると、「国家神道イデオロギー」の問題に突き当たる。これをどう扱うかは日本宣教学の根底にわだかまる問題である。日本宣教を志す者が、この問題を無視して通り過ぎるわけにいかないのも当然のことである。無視できないとは、自分の目でこのことについての考えをまとめておかねばならない、ということでもある。
このことについても一般に既成概念がある。それは、日本という国は古代から一貫して「国家神道イデオロギー」によって支配されており、これこそが諸悪の根源であり、日本の歴史を左右してきた、とするものである。また、これこそが、やがて近代になって日本を戦争と破滅に迫いやった、とするのである。
さらに、この神道イデオロギーは、現在の日本社会にあっても天皇制を中心とする日本の古い体質を形成しており、復活を狙っている。この古い体質こそ、日本宣教の障碍(しょうがい)であり、これを抑えることは宣教の重要な一部である。
であるから、日本のクリスチャンの立証の一部は、神道イデオロギーの復活へつながらないように政治を監視する、またデモ行進など社会へのアピー ルに努める、などを含むべきである。以上のような公式見解があるが、これについても検証せねばならない。
戦時中の日本社会
第二次大戦中の日本の社会は、天皇を神とする皇室中心主義の「国家神道イデオロギー」の嵐が吹き荒れたのであって、社会の体制、思想、学校、教育、出版、放送などのすべてがこの天皇を神とし、各地の神社を国の宗教とする体制に組み込まれたのであった。キリスト教会も、この例に洩(も)れず圧迫を受けた。
ただ、これを迫害と呼ぶのには多少のためらいがある。というのは、キリスト教信仰が理由で処刑された者はなかった。治安維持法違反の疑いで起訴された者のうち、有罪判決を受けた者が少数あり、そのうちホーリネス教会では2、3年の刑期で投獄された者があり、その中でも獄中で病死された牧師が数名おられる。他には控訴して無罪となった者がある。
これは明治憲法が信教の自由を明記しており、戦時中であっても、裁判官は忠実に法文を守ったからであった。なお、警察官僚による不当な留置、取り調べ中の暴行、そうして留置期間に病死された例などがないわけではない。
小生の父親は、日本基督教会という教派の牧師で下関市で牧会をしていたが、戦時中に何度かの例外を除き中断することなく日曜礼拝を守り説教を続けた。集まるのは老人と主婦が多かった。これは男子のほとんどが戦争に行くか、または軍需工場に動員され、日曜休業がなかったことによる。
礼拝に先立って宮城遥拝を行った。神棚を設置するように求められていたが、教会堂にも会堂に隣接した牧師館にも、これは置かなかった。これは教会において葬儀を行うからであり、神道が伝統的に死を忌むことを理由とした。
特高(特別高等警察)と呼ばれる思想警察が、開戦時には毎週のように来て話し合っていたが、主として問われたのは外国宣教や外国宣教団体との関係であった。日本基督教会は経済的に独立しており、設立時より外国ミッションの援助は受けず、外国の教団の命令系統の下にもなく、外国教会との関係は希薄であった。それが明らかであり、戦争の中期以後は、ほとんど特高の訪問はなかった。
この日本基督教会の牧師は半数はリベラルな思考があり、終末時の審判についてはこれを信じない者もあり、教理的な追究が厳しくなかったという要素もあった。筆者の父は保守的信仰の持ち主であったが、留置されたり、また警察署に連行されたことはなかった。
学校で行われる宮城遥拝というのは、通常より深くお辞儀をすることであり、頭を下げている時間が普通よりは2秒ほど長いのである。これは「最敬礼」と呼ばれた。これは神道式の拝礼とは明らかに違っていた。遥拝は宗教ではない、文化的慣例であるとする説明に整合させたものであろう。明治憲法にはあくまで信教の自由が謳(うた)われていたのである。
ポリカープは、ローマ皇帝のみに祈祷をささげ、他の神に祈祷をささげないこと、ローマ皇帝のみにささげ物をし、他の神にはささげ物をしないこと、ローマ皇帝のみに礼拝をささげ、他の神には礼拝をささげないことの3つを要求された。これは完全な皇帝礼拝である。ポリカープは、自分はこれまでイエスにのみ祈り、拝み、ささげ物をしてきたのであり、要求されたようにするよりは、死を選ぶと言って殉教した。
しかし、戦時中の「国家神道」は、そのような排他的な要求をしたことはなかった。軍部は国際的な関係を持つ教団、教派に対しては猜疑心(さいぎしん)を持ち、西欧のキリスト教会から資金援助を受けていた団体には、特に厳しく当たった。西欧に対して親和感を持っているのでないか、通敵行為がないか、などが追及の眼目であった。
ホーリネス諸派の創設者であった中田重治は、国際的な視野に富み、教職者の養成機関である東京聖書学校には外人教授を迎えており、欧米からの献金も受け、イスラエルの再建を信条の1つとして掲げ、シオニズム運動を後援していた。そのため、特に特高警察の取り調べの対象となった。終末信仰が問われ、天皇も罪人として審判の対象となるとの主張を堂々と行った牧師も多く、逮捕、拘留が相次ぎ、教会は閉鎖された。
ただ、ホーリネス教会の幹部も、皇居の二重橋前で「遥拝」を実行した。一般にこの「国家神道イデオロギー」と呼ばれる宗教的ナショナリズムは、日本の古くからの体質そのものだったとされている。また、現代に至るまでさまざまに形を変えて根強く残存してきて、戦後の今に至るまで日本の社会を動かしている原理であるとされている。
しかし、もしかしてこの「国家神道イデオロギー」とは、日本の古くからの体質などではなく、たかだか明治以後のしばらくの、数十年間だけの現象だった、という可能性はないだろうか。これを検証する必要がある。言い換えれば、「国家神道イデオロギー」なるものが日本の歴史とともに古く、国家の成立に深く関わり、現代の日本の文化をも規定する悪魔的なものなのか、または近代の産物にすぎないのか、ということでもある。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇