日本の歴史においては、天皇が実権を持った期間はほとんどなかったのは周知のことである。摂政としての藤原氏、鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、徳川幕府などが天皇を補佐する形をとった。そうしてこれら補佐役は、藤原氏をはじめとして世襲であって、事実上の王朝を形成していた。
鎌倉幕府は源氏が将軍だったが、補佐役の北条執権(執権とは、もとは政所の別当の別称)が事実上の将軍となった。大化の改新と呼ばれる天皇家のクーデターが企てられたことがあったが、これも事実上は、藤原氏の政治勢力の確定を招来したにすぎなかった。
このように徳川時代も、それ以前にも天皇が直接実権を握った時期はほとんどなかったことは常識とされている。なお、補佐役が実権を握るということは、どの国においても見られることだが、日本の特徴は、それが世襲だったことである。
天皇機関説
明治憲法のもとでも、実際の運用は重臣と呼ばれる人々が総理になる人を選定し、天皇はそれを任命するのみであった。天皇には、総理候補を選ぶ権限は与えられていなかった。
西郷隆盛は時々、明治天皇に「あまり我が侭(まま)が過ぎると、またもとに戻してしまうぞ」と脅かしたそうである。ほんの数年前まで、天皇家は京都の公家の筆頭でしかなく、その存在はほとんどの人に知られていなかったのであった。
陸・海軍の統帥権にしても、軍部が選ぶ軍人を陸・海軍大臣として天皇が任命した。陸・海軍大臣は、天皇より与えられた統帥権により総理大臣を通さず、独立して二軍を指揮するとある。しかしこれとても、陸軍・海軍大臣候補を選ぶ権限、候補を指名する権限は天皇にはなかった。
このように、天皇には独自の権限はなかった。そうして天皇とは、1つの「機関」であり、政治上の仕掛けであるという理解が公式のものとして成立していた。
天皇機関説とは、国家は法人としてそれ自体が主権を持っており、天皇はその主権を国家を代表する最高機関としてのみ行使するというものである。1935(昭和10)年までの高等文官試験(上級職国家公務員試験にほぼ相当)の天皇に関する出題の模範答案もその線に沿っていた。
大正天皇の死去の際のことであるが、永井荷風は自分の日記『摘録 断腸亭日乗 上下』(磯田光一編、岩波文庫)に、日本の社会には天皇に対する敬意がない、と言って慨嘆している。荷風はその中で、毎日の新聞が天皇の病状を報道して、今日は尿が何グラム、大便が何グラムなどと書き立てていて、そのことを下女や車夫など下層の者までもが口にしている、と言って嘆いている。
荷風によれば、そもそも日本には王家に対する尊敬がない。せめて西欧の王室が社会から受けている尊崇の念が日本にもあってほしいものだ、と言う。つまり西欧の王家の方が、ずっと国民に恭しくしてもらっているというのである。
荷風の父親はアメリカで教育を受け、日本郵船の支店長をしていた人物である。荷風自身も、1903(明治36)年から5年間にわたり米国、フランスで生活し、のちに慶応の教授となった。戦前にあって西欧的な感覚を身に付けた、数少ない日本人の1人であり、この証言は貴重である。
このように昭和初期までは、天皇の神格化はまだ本格化してなかったことが分かる。古代には世界各地で王制が神話的な背景を持っており、それは日本の天皇制にもみられる。しかし、そう言ったものは、日本ではとうに忘れられていた。
ところが、そのような神話的性格が昭和になってから復活し、天皇制として前面に押し出され、強行されるようになったのである。それはなぜか。
天皇の神格化が本格化したのは、天皇機関説が斥(しりぞ)けられた時期からのことである。1935(昭和10)年に、それまで政府の公式見解であった天皇機関説は天皇を冒涜(ぼうとく)するものであるとして、軍部が国会で攻撃するようになった。大学の教授たちの中で辞職に追い込まれるものが出るに至り、こうして天皇を神とする神話的な説が採用されるようになった。
さらに5年後の1940(昭和15)年に政党はすべて解散させられ「大政翼賛会」なる御用政党に統一的に所属させられた。もはや自由な意見の発表はなくなり、この時の国会で内務省の外郭団体として神祇院が設立された。神祇院とはまさに祭政一致、すなわち政治とは神を祭ることであるという、明治維新の大原則を実現する機構である。それが実に維新の72年後に初めて設置されたのだった。
この時から終戦に至る間が文字通りの天皇の神格化が強行された時期である。1945(昭和20)年8月15日の敗戦に至るまで、この「天皇現人神(あらひとがみ)」説なるものが公式の見解として行われたが、たかだか5年間のことにすぎなかった。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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