なぜこのような狂的な現象が起こったのだろうか。1つの理由はキリスト教国による圧迫に対抗して、日本という国家を維持するため、何かの精神的支柱が必要であり、そのためには「天皇現人神」説しかなかった、ということであろう。
日本国の社会は、中世より一貫して無神論的な性格を帯びてきたことは先に述べた通りである。信長による比叡山の焼き打ちと秀吉による石山寺の破壊以来、宗教は常に政治によって操作され、政治の道具として扱われてきた。こうして他国とは異なり、日本では16世紀以後は宗教が政治の上位に立つことはなく、宗教は常に政治という舞台の「小道具」として扱われ、その立場に甘んじてきた。
であるから、日本では近世以後には日本的な宗教イデオロギーから起こった戦争は原則的には不在であった。信長以来、日本では、宗教は政治権力を持たず、領地を所有しなかった。寺社が荘園を保有する体制は比叡山の焼き打ちとともに終焉(しゅうえん)を告げたのである。
江戸時代にあらためて社寺領の寄進があったが、それは寺院が地主となり、そこから上がる収穫を供物として受け取ったというにすぎず、社寺領という政治的単位ではなかった。戦国時代にあったような砦を備え、武士を擁し、政治的実力を持った寺領とは異なるのである。もはや社寺が領地に政治的支配を行う、ということはなかった。
近代日本と天皇
開国前後に欧米を視察して来た日本の高官たちが異口同音に述べたことの中に、欧米の「先進国」における宗教の強力さということがあった。そうしてこれに対抗するためには、日本では天皇をもって精神的な中心としていくより他にない、という認識が生じたのであった。しかし、前述のごとく1935(昭和10)年に至るまでは、天皇機関説が公式見解とされ、天皇は象徴的なものとして理解されていた。
室町時代のこと、天皇家は窮乏し1501年に後土御門(ごつちみかど)天皇の死去にあたり葬儀の費用を幕府は出し渋り、そのため抗議も含めて、天皇の遺骸が棺に入れたまま40日間も放置された例がある。
この時、天皇家は住居も転々とし、この公家の筆頭の葬式のために、誰も金を出す有力者がいなかった。天皇家には政治的にも利用価値がなかったことが分かる。この時、西には大内氏、四国には細川氏があり、有力者に不足はなかった。仮に天皇家に政治的な利用価値があれば、喜んで金を出した実力者はいたであろうが、その価値は誰も認めていなかった、ということらしい。
時しも応仁の乱より25年後であり、混乱は治まっていたが、室町幕府の衰亡の時代でもあり、幕府といっても近畿の一ローカル政権の観を呈していた。
日本の天皇には確かに神話との関連がある。しかし、古代から続く王制に神話的な背景や色付けがあるのは日本だけのことでなく、別にそれは珍しいことではない。しかも天皇に関する神話的背景は、中世から近世にかけてすでに「非神話化」されていたのであって、そのことはこの事件からも窺(うかが)える。
徳川幕府の発足にあたって、家康は「禁中並公家諸法度」を作り、その第1条には「天子御芸能之事、第一御学問也」として、天皇家が政治に介入することを禁じ、天皇は学問に精を出すこと、と決めた。ついで諸大名が天皇に会うことも禁止した。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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