御霊信仰
神道の起源の第三のものは、怨霊(おんりょう)信仰であり、これは御霊(ごりょう)信仰ともいう。
御霊とは、死者の霊の敬称であるが、怨念を持って死んだもの、また個性や実力に富んだものの死霊を指して言った。そうして災害や疫病はこれらの御霊の崇(たた)りであるとし、祭りによって霊を鎮め、災害を避けようとした。
そうして、菅原道真、平将門などをはじめとする、無念の死を遂げた人々の怨霊の鎮魂のために御霊会(ごりょうえ)が催されるようになった。
特に道真の死後、彼を貶(おとし)めた人たちが変死し、度重なる地震、洪水、大火、落雷、疫病の流行などがあった。そこで皆は道真が天雷を支配すると信じ、道真に「天満大自在天神」という称号を贈った。そうして、彼を京都の北野に祭った。平安中期のことである。こうして菅原道真の怨霊鎮魂を起源とする天神社は、全国に1万数千を数えるに至り、最も一般的な神社となったのである。(天満宮、天神さま、菅原神社などの呼称はここから来ている)
さらに、行疫神の主、邪神の筆頭であるとされる素戔鳴尊(スサノオノミコト)は祇園社に祭られた。これは疫神を祭ることによって味方につけ、福神とするという考え方である。なお、その時に素戔鳴尊でなくて、牛頭天王(ごずてんのう)という名で祭った。
牛頭天王とは、インドの祇園精舎の主の名である。もともと牛頭天王はインドの土着神であったが、仏教に取り入れられ、その辺縁に置かれていた。それが日本神話の中の人物との合一がなされたのである。これは神社信仰が平安初期に仏教との関連で形成されていった1つの過程である。祇園の祭りは歌舞を伴い、密教の修法が重要な役割を果たしたようである。
これは、正式名は八坂神社であるが、インドの祇園舎の牛頭天王になぞらえて素戔鳴尊が祭られ、祭礼は仏教の密教の修法で行われ、祇園社と呼ばれている。ここには仏教とインド土俗信仰により補強されながら、日本の土俗信仰が形を整えられ、仕立てられていくありさまが如実に見られる。
なお、このような町場の祭りは「夏祭り」であって、夏はコレラ、チフスなど悪疫が流行する時期であり、悪霊の退散を願うものである。これに対して、農村の祭りは「秋祭り」で収穫を喜ぶ祭りである。
なお、「神身離脱」ということもあった。気比神宮の縁起には、祭神が夢に現れ、自分は宿業によっていま神であるが、仏法によって神身を離脱して救われたい、と言ったという。つまり「神」も、人間と同じ悩める存在であって、仏法によって初めて成仏するという思想である。神社が、仏教の辺縁に位置することが見られる。
このように御霊信仰の成立は、土俗の素朴な崇りの信仰が仏教によって変容していく過程の1つとして見ることができる。
これまでに神道の起源として、シャーマンを祭司とする素朴な祖先霊の崇拝と、道教の影響を持つ、もう少し洗練された(大陸型の)祖先霊の崇拝、そうして怨霊鎮魂の信仰を見た。これらは、神道の起源の3つの類型である。
さて、これら3つの原型に限って言えば、その中に「日本独自で、他国の影響のない」ものなどないのであって、東アジアの土俗信仰と深く関連していることが見られるのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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