徳川幕府の宗教政策
西欧はキリスト教を使って日本を植民地としようとしている――。幕府は、そのように観察し、キリスト教を恐れた。確かにカトリックの洗礼を受けた改宗者は、その時、ポルトガル王やスペイン王の家来になり、その領地は、これら異邦の王のものとなるのだった。高山右近などのキリシタン大名は、形式上はポルトガル王の家来となっており、それにより彼の領国は形式的にはポルトガル王の領土となっていた。
3代将軍家光の時に鎖国が決行されたのであるが、その直接の切っ掛けとなったのは、鹿児島から日本の農民を乗せた2隻の船が出港し、彼らがマカオで奴隷として売り払われたという事件であった。
仏教を国教とする
このように、宗教によって侵略が謀られたのであるが、それに対して宗教をもって対抗するよりほかはないとして、徳川政権は仏教を唯一の公認宗教とし、それをもってキリスト教に対抗しようとした。
宗門改めがあり、一人一人が檀家として寺院に登録された。宗門改めは毎年やったところもあり、出生、結婚などの家族の変化の時だけしかやらぬところもあり、あまり統一的ではなかったようである。檀那寺請けといって村役人と寺院がそれぞれ確認の上で判を押した。岡山では神道請けが行われたこともあるという。こうして仏教寺院が葬儀と死後儀礼を独占し、これが仏教の主な役目となった。
鎖国において幕府は仏教を国教として指定し、キリスト教と日蓮宗を禁教とし、また仏教以外の宗教が葬儀と死後儀礼を営むことを禁止した。仏教は国家によって管理され、戸籍事務を行い、人別帳をもって生きている者を記録し管理した。独占的に葬儀を行い、葬儀の記録である過去帳に記録することによって死者をも管理したのである。
この時、日本仏教に特有の檀家制度が発足した。檀家制度は仏教に政治的権威と経済的安定をもたらした。しかし、特権と庇護(ひご)は宗教を腐敗させる。こうして鎌倉時代に仏教が有していた、あの生き生きとした生命力、また伝道への意欲などはまったく失(う)せてしまい、仏教は特権に安住し、腐敗した。
こうして鎖国の200年余の間、民間信仰も含めて神道は葬儀を行うことを許されず、仏教以外は「十分な宗教」としての存在を許されなかった。
だいたい、葬儀を行えない宗教とは、宗教として十分な資格を持っているとは言えない。仮に祭祀が整っており、神殿が荘厳であり、威儀を正し、また怨霊の退散に霊験があったとしても、死者を葬送することを許されておらず、それが何百年も続いているとしたら、これはもう宗教としての価値は無いに等しい。
これでは死者の葬送にあたる貧しいユタの方が、はるかに宗教者としての資格を有しているといえる。彼女には、永遠の世界に対する媒介者としての自覚と権威がある。神道の神官にはそれがない。
隠れキリシタンも葬儀、死後儀礼、祖先祭儀は仏教寺院に依頼せねばならなかった。仏教は檀家制度によって経済的な安定を得、その結果として葬式仏教に堕していった。もはや鎌倉仏教が持っていた荒々しいまでの活力は失せた。(日蓮宗は弾圧され地下にもぐり、活力を持ち続けた。現在、仏教系の新興宗教のほとんどが日蓮系であるのは、それと無関係ではないと思われる)
徳川時代の神道
神道がもともと独立した宗教であったか否かは明白でないことは、すでに述べた。また、史実と記録に関する限り、仏教の付属品としての神道しか見えないことも述べた。徳川時代の神道はすべてそうであった。
そもそも仏教は日本に渡来する前から、牛頭天王(ごずてんのう)、鬼子母神(きしもじん)、四天王、帝釈天(たいしゃくてん)、聖天(歓喜天)、夜叉(やしゃ)、金毘羅(こんぴら)、大黒天、ダキニ天(稲荷)、弁財天などというインド土着の神々を教義の辺縁的なものとして取り入れて、それら土俗信仰の神に、その土地の悪神や悪霊から仏教を守護する役目を与えた。
仏教は日本渡来以後も地主神として寺院の境内に祠を作り、あるいは小さな社を作り、地元の神に敬意をささげてきた。奈良時代にも仏教寺院はすでに地主神として、八幡神、稲荷神、天王、熊野、白山などを勧請(かんじょう)した。この中で、ダキニ天はインド土俗神として仏教の周辺にあったところから、分離して神道化して稲荷神となった。(まことに変幻自在で、さすがはお狐(キツネ)さま、というところである)
こうして、もともと韓半島から由来した神社の建築は、日本に来てから日本の寺院建築の影響を受けてさらに発展していったと考えられる。
徳川時代以前から、すべての神社は仏教寺院の監督下にあったが、それは徳川幕府によってさらに徹底させられた。通常、神社は寺院の境内にあって寺に管理されたが、仮に寺とは離れたところに神社があっても、それは寺院の所有地の一部で、寺院の管理下にあった。
離檀といって、神社が寺院の下から離脱して独立し、独自に葬儀を行おうとする動きがあった。これは葬儀を行うことによって宗教は初めて一人前となるのであり、神道の側にその希求があったことを示している。
有名な豊川稲荷も、もともとは禅宗の妙厳寺の地主神である。これが霊験あらたかだというので多くの参詣人が集まるようになり、本来の寺院よりも有名になってしまった。こうして豊川稲荷の妙厳寺からの離檀問題が激しかったという。
九州では宇美、住吉、箱崎宮などの神官が離檀を実行し、独自に葬儀を行ったことがあった。幕府はこれを許さず、これら宮司たちそれぞれに切腹・ 追放・遠島などの罰を与えた。(葦津珍彦著『国家神道とは何だったのか』神社新報社)
なお、幕府の神祇伯(じんぎはく)であった度会(わたらい)家には、神官の葬儀だけは神式で行うことを許されていた。
逆の例として、神宮の境内に設けられた寺院がある。これら神宮寺、宮寺、神護寺、神供寺、神願寺、別当寺は、諸仏が神道の神々を保護するという意味である。伊勢神宮にも神宮寺があった。ところが、やがてこれらも仏僧の方が優位に立ち、神社を支配するようになった。
平安朝の頃から、このような土着の神々と諸仏の関係について理論付けがされるようになった。それらの理論に従って、神道の神には菩薩号が与えられ、伊勢神宮の主神である天照大神(あまてらすおおみかみ)は救世(くぜ)観音であるとされ、春日明神は実は釈迦である、などの主張が起こった。
この思想は、総じて本地垂迹(ほんじすいじゃく)と呼ばれる。つまり、本地(インド)において仏であるものが、日本ではその影または跡(迹)を投影し(垂れ)ており、それが日本の神々として現れているという考え方である。これを仏主神従ともいう。 伊勢神宮の外宮の宮司であった度会氏は、陰陽五行道を主柱として神道の神学を立てたが、伊勢神道とも呼ばれた。
その一派に吉田神道があり、京都の吉田神社に神官の養成所を持ち、徳川時代の神官のほとんどがここで訓練されたという。これは唯一神道とも呼ばれ、神道の神々こそが真の神であり、インドの諸仏は逆にその影であるとし、かく神主仏従を唱えた。
これはなるほど形式的には神主仏従であるが、神道の理論化のため仏教を必要としたという点では、仏主神従と変わることはなかった。
もともと思想的に無内容で、幼稚な信仰の形態であって何にでも染まる神道の特微がここにある。神道はもともと土俗信仰であって、仏教を頼りにしながら教理を整えようとしてきたという説の妥当性を感じるものである。
そうしてこのような仏教の影響を外して考えると、神道独自の哲学というものはどこにも発見することができないというのが定説である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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