国学の興隆
徳川の中期以降に国学と呼ばれる学問が起こった。
本居宣長(もとおり・のりなが)は国語学者であった。送り仮名についての研究書は優れたものであり、今でも古典として認識されているという。本居は『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを研究していたが、初めの2書(略して記紀)の記述の中の「神」を「人間」と読みかえると、そこには、仏教、儒教、陰陽道などの哲学が中国から入って来る前の時代の日本社会の叙述、およびその価値観があることに気付いた。
江戸時代の日本社会は、極く微弱な儒教倫理が支配していて、日本人のすべての観察には極く薄い儒教的フィルターがかかっていた。本居は、そのような中国哲学の影響(陰陽五行説も)を排除しながら、思想的前提なしに記紀を読もうとした。そうして彼は、自分が発見したこのような古代日本の生活の再構築を「神(かむ)ながらの道」と呼んだ。
平田篤胤(ひらた・あつたね)は本居の死後、その著書を読んで衝撃を受け、本居の学説を彼なりに発展させた。そうして終生、自分は本居の門人であると称した。
平田は本居の論を推し進め、思想的に完成の方向に持っていき、平田神道と呼ばれる体系を試みた。彼は日本古来の神々が真理であり、仏教、キリスト教、儒教などは、その「訛伝(かでん)」であるとした。つまり、真理は日本では正しく把握されたが、それらの国々においては不正確に伝わっている、というのである。そうすると、かなり自由に外来の思想も利用して自分の思想を組み立てることができることになる。
平田が注目したのは、『古事記』の冒頭にある三神の記述であった。それは、「天地のはじめ高天原(たかまがはら)に成りませる神は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみみむすびのかみ)、この三社の神はみなひとり神成りまして、身を隠し給いき・・・」という部分である。これら造化の三神と呼ばれる神体は、『古事記』の冒頭に出てくるのみで、それ以後のページには出てこない。また、日本にはこの三神を祭った神社も存在しない。
平田は、この三神を主神として彼の神道を発展させたという。そのような理論付けにキリスト教の三位一体の教理の影響を見る人もある。
平田神道は、復古神道とも呼ばれるが、「復古」との呼称には、仏教、陰陽道、儒教が入ってくる前の時代に独立した宗教としての神道があり、それを再発見したという前提がある。 平田のこの仮説は、もう行き詰まってしまっていた徳川幕藩体制の下にあって、皆が懸命に代替の政権、代替の政治思想を求めており、そのような時代にマッチした思想だったといえる。
平田のこの「神道」は、学者たちの頭の中に存在しただけで、実際にそのような神社や信徒の群れが存在したわけではなかった。平田は宗教哲学者であって、宗教家ではなかった。
日本人と儒教
幕府体制下の日本社会の倫理は、儒教的色彩を持っていたといわれるが、日本は本格的な儒教社会を構成したことはない。
第一は、科挙の制度を取り入れたことがなかった、ということである。科挙とは、1つのテキスト、または1つの思想体系(儒教)を絶対的なこととして、まず受け入れる。そこから出発する。そうして、それにいかに精通しているかが問われるシステムである。つまり、四書五経についての試験であり、この試験の合格者が国事の担当となるシステムである。これは日本では行われたことはなかった。
日本では、1つのイデオロギーが社会を支配し続けたことはなかった(皇国思想にしても一時は猛威を振るったが、せいぜい7、8年のことだった)。日本人は、ある思想体系に対する絶対的な信奉はしたことがない。
第二は、夫婦別姓を取らなかった。儒教社会では結婚しても女は家に入れない。だから、夫の姓を名乗ることを許さない。死ぬまで、実家の姓で通す。これは中国、朝鮮に共通である。つまり、妻は精神的には永遠に入籍してもらえないのである。
韓国では、他人に自分の妻を紹介するとき、正式には「私の妻です」ではなくて「〇〇の母です」(〇〇は自分の子どもの名前)と言わねばならない。彼女は自分の妻ではなく、自分の子どもの母なのである。それが正式の言い方である。
(これは儒教とは直接の関係はないかもしれないが、朝鮮の習慣として食事の時、女は片ヒザを立てていなければならない。これはゆっくり座っているのでなく、すぐ立って給仕したり台所に立つという姿勢である。中国では女尊男卑の傾向があり、男も積極的に料理に参加する。だから、この食事時の習慣がどこまで儒教の直接の影響であるのかは分からない)。 日本では女の地位は高く、このような人格の無視は存在しなかった。
第三は、労働および商行為の蔑視である。これも日本は取らなかった。士大夫は爪を伸ばす。労働していないという証拠である。小指ばかりでなく全部の指の爪を伸ばすと、もう服を着たり脱いだりもできなくなり、全部召使いにやってもらう。これは儒教徒にとって究極の理想であり、究極の善である。
小生の幼い頃、満州で手の小指の爪を4、5センチ伸ばしている人をよく見かけた。1度だけであるが小指だけでなく、手の10本の爪を全部4、5センチ伸ばしている人が隣家の日本人の盆栽を見に来たことがあった。その人は手の爪が全部キラキラしていた。そういう感じを覚えている。
これに反して、日本では勤勉と労働は最高の善である。李王朝は貨幣を認めず、かなり後期まで木綿布を標準とするバーター経済であった。日本の商人が銀を持っていくと、役に立たない、何にも使えないと言って拒絶し、物々交換を希望し、日本からは銅の地金を得ようとしたという。
もっともこの貨幣の軽視は、果たして儒教の影響なのか朝鮮の国民性なのかは分からない。中国には強力な商業の伝統があり、貨幣を卑しめるなどという傾向は不在である。あるいは、これは朝鮮の原理主義的な面を現しているのだろうか。小中華の自分たちこそ儒教の神髄を実践している、守銭奴的な中国とは違う、という気概の表れだったのかもしれない。
第四は、易姓(えきせい)革命の思想である。これについては先に述べた。
第五は、祖先の祭りで、『礼記(らいき)』に天子七廟、諸侯五廟とあり、朝鮮王朝はこの点でも諸侯扱いされていたことは先に述べた。ついでに士大夫三廟、庶民一廟とあり、下々の人民は先代しか祭れない。ところが、日本では商家であっても平気で10代前の先祖を祭ったりする。儒教にそんな決まりがあるなどと、誰も考えていない。
また、『礼記』には祖霊は男系子孫の供物しか受け付けない、とあり、日本のように娘しかいないから婿を養子にというのは倫理に悖(もと)る、つまりこれは乱倫なのである。
第六とすべきか迷うところで、繰り返しになるが、儒教の持つ原理主義的な傾向を日本は取らなかった。つまり、儒教的な原則というものをまず受け入れてしまう。その後で儒教を真理とし、ひたすらこれを実践することこそが人間の義務であるとする。
次の段階は、その原則を思考と生活に当てはめてようとする。ある原理をまず受け入れ、それから得た規範を社会と個人の生活のすべてに適用しようとする態度である。朝鮮半島においては、特にその傾向が強かったようである。儒教の実践である礼学には、冠礼、婚礼、喪礼、祭礼の4つがあり、そのうち、喪礼が一番重要とされた。
朝鮮の中世のこと、王母が死んだ。継母であったので、王の服喪の期間が1年か、3年であるべきかをめぐって論争が起こり、長く続いた。実母なら皇后であるから王は3年の服喪を必要とするが、継母なら出自はもともと臣下であったのであるから1年でいい。二派に分かれて論争になった。
1年派と3年派が、それぞれ勝ったり負けたりし、そのたびに反対派の官吏が追放され、投獄。中には処刑される者もあり、論争は数百年続いた。
この時、朝鮮においては礼学とは、磨き上げた論理で相手を屈服させることになっており、もはや「礼」というものの根本からは遠くなっていた。論理の暴走に、歯止めはなかった。
このような原理主義的な性格は、儒教の持つ性質と、朝鮮民族の特性が合成して出来上がっているように見える。思想とその実践は、民族の文化と切り離して考えることはできない。その意味で朝鮮の儒教は1つの典型のように思える。
日本人の思考は原理主義にはなじまず、是々非々主義で、カタカナ語ではケース・バイ・ケース主義(これは実は英語ではない)である。1つの原則を採用し、それを社会の全般に適用するというようなことはしたことがない。1つの見方や1つの思想を採用し、すべてをそれに従って理解する、というのもなじまない。
日本社会と比べて、朝鮮半島の社会や文化を「近くて遠い」などと言うが、この点でも当たっているのかもしれない。
日本人は個人でも社会でも、思考に矛盾があっても気にしないで、そのまま放置する。体系を作らない。キチンとした思想体系というものには無縁であり、かえってそこに胡散(うさん)臭さを感じる。理論や体系が先行していると、そのために何か大切なものを切り捨ててしまったのではないか、とすぐ警戒する。透徹した哲学などというものには縁遠く、そういうものを欲しいとも思わないのが日本人である。
仏教も、日本に来てからは哲学的な体系は捨てられた。八宗(はっしゅう)兼学などと誰も言わなくなった。そうして鎌倉新仏教に見られるような「祖師」の崇拝、または「祖師の生き方」の崇拝に変化した。
日本社会は総じて、このような「儒教の習俗」や「儒教の思想的傾向」からは遠いところにあった。日本社会は儒教倫理のほんのわずかな面を受け入れただけである。そもそも儒教的なものを徹底して受け入れる体質は、日本社会にはなかった。
余談であるが、韓国の保守派な長老教会の分派はいまや100を超え、とどまるところを知らないという。これも原理主義的な体質から来ているのだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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