尊皇攘夷
攘夷とは、分かりやすい主題であった。外国から軍事勢力が来て、国を危うくし、平和を乱す。これを撃退せねばならない、というのである。国全体がこれを支持したが、実行したのは長州藩だけである。長州は関門海峡を航行する外国商船の幾つかを砲撃した。それに対して4国艦隊(英・米・ 仏・蘭)が下関を攻撃し、海兵隊が上陸し、下関砲台を破壊した。町は焼かれ、散々にやられ、長州藩の藩論は急速に冷え、攘夷から後退した。
鹿児島も英国の軍艦によって砲撃されたが、これは生麦事件という暴発に対する英国よりの報復であって、薩摩藩は多額の賠償金を支払った。
長州藩の場合は、英国公使が下関に来て賠償金を要求したが、長州藩は自分たちは幕府が出した「攘夷」の命令を守ったにすぎない。賠償金は命令者である幕府に請求せよと言って突っぱね、結局、幕府が支払った。長州が攘夷を引っ込めてしまうと、日本の世論は尊皇攘夷から倒幕に急速に変化した。
長州藩は特異な藩で、徳川時代の歴史の中では例外的に異端的な藩だった。長州は常に徳川なき日本を考えていたのである。この藩の思考は当時にあっては、いわば奇跡であった。
もともと、毛利は西の雄藩であって、信長とも対等であった。徳川は秀吉の家来にすぎず、だから毛利が徳川に頭を下げるいわれはないのである。関ヶ原では、家康が豊臣家の後見人であった立場を使い、東軍の指揮を取った。
西軍の筆頭であった毛利であるが、兵を動かさず、徳川の有利になるように計った。毛利の助力なくしては、東軍の勝利はなかった。ところが関ヶ原の勝利以後、徳川は将軍職につき、毛利は、その所領を4分の1に削られてしまった。このように長州にとっては徳川の天下はまことに不本意な状況だった。
毛利から見ると、徳川は我慢ならない成り上がり者だった。徳川体制の265年間を通じて、毎年正月元旦に萩城の獅子の廊下で、ある行事が繰り返された。それは、有力な家臣が藩主の毛利公の前に集まり、家老が皆を代表して、徳川を討つのは今年ですかと問うのである。それに対して、藩主が今年はやめておく、と答えるのであった。それが江戸時代の全期間にわたって続いた。いわば、とんでもない藩だったのである。
長州の願いは、中国地方に自分たちの勢力範囲を再構築するということだった。これは、必ずしも天下を取るというのでなかった。つまり、関ヶ原以前の時代に戻り、自分たちは中国地方で独立していたかったのであって、これを長州藩では「割拠」とか、「大割拠」と呼んだ。
日本全国が幕府の前に跪(ひざまず)き、その威光に震えていた時代である。ところが、この藩だけは自分たちの独立した政治体制を模索し、徳川による幕藩体制に代わるものについてずっと考え続け、論じ続けてきたのである。長州のこの態度と思考なしでは、維新は恐らく成立しなかったと思われる。少なくとも、根本的に違ったものになっていたであろう。
維新の3年前のこと、幕府は第二次長州征伐を発令した。その時、萩城での会議で「恭順」か「抗戦」かで揉(も)めたが、会議の終わり近くに家老が居ずまいを正し、今日は正月元旦ではないが、と前置きして、「殿よ、徳川をお討ちになるのか」と問うた。すると「討つ」という答えがあり、その瞬間に慎重派も保守派も総立ちになり、倒幕に決し、全藩が結集した。徳川を討つとの260年余にわたる藩是、その成就の時が来たのである。やがて幕府軍は大敗し、これにより徳川の没落が決定的になった。
吉田松陰は、密航が露見して江戸で投獄され、しばらくの間だけ長州に戻され、軟禁状態の1年半の間、萩で叔父のやっていた松下村塾で青年たちを教えたことは有名である。間もなく、江戸に呼び戻され処刑されたが、彼が教えたわずかの期間から多数の人材が育ち、明治政府を担う人物となった。これは、偶然にそれらの人物が生まれたのではなかった。
塾生の1人高杉晋作は長州の藩論をリードした人物であるが、彼は藩内の保守勢力に睨(にら)まれ、度々投獄され、蟄居(ちっきょ)させられた。投獄を避けて他藩に逃亡した期間もあり、彼が自由に活躍できたのは合計してもせいぜい3〜4カ月にすぎなかった。彼は維新の前年に結核で28歳で1人の遊女に看取られて淋(さび)しく死んだ。ところが、彼の打ち出した新基軸は、そのほとんどが明治政府によって実行された。
晋作は、権力も名誉もまったく無縁、ただただ志と洞察の人で、活躍の期間も短かった。同門の後輩の伊藤博文は、長く政府の要職にあり最高の栄誉を得た。しかし、数カ月の活躍の場しかなかった晋作の存在感は、博文と同様またはそれ以上なのである。
関門海峡の外国船砲撃の賠償交渉に当たっては、藩は前の日に牢から晋作を出し、家老の衣服を着けさせ交渉に当たらせた。英公使パークスたちは、その見識と態度に感服した。晋作は賠償金については幕府に掛け合えと言い、下関に英兵を上陸させ軍事占領すると脅すと、高笑いし、水も石炭も出さぬぞ、上海から持ってくるつもりかと揶揄(やゆ)した。彦島を租借したい(香港のごとく)と言うと、断固として断った。
この1日の交渉で重要な線が決まると、藩はさっさと晋作をまた牢に放り込んでしまった。英国側は彼をルシファーと呼び、彼らの思惑は晋作によってほとんど否定されてしまっていたが、彼の鋭さに小気味のよさを覚えて、次の回から晋作が出て来ないと、あの家老は今日は来ないのかと残念がったという。
維新における長州の優れた人物群を見ると奇跡とも見えるが、これは決して偶然ではない。吉田松陰も彼の弟子たちも、三百余年の長州藩の歴史の一部分なのである。吉田松陰の松下村塾は日本史における1つの奇跡である。彼は近所の青年を集めて1年半の間、思想教育をした。そこから明治維新の人材を輩出したのである。伊藤博文は近代の日本を形成した人物であるが、中間(ちゅうげん:武家奉公人)の子であり、集まる青年の中では地位が最も低かった。
吉田松陰は、ただ近所の知り合いの子どもの教育をしただけである。いったいなぜそれが大指導者の群れを生み出すこととなったのか。それは長州藩のこの歴史と関わりがある。つまり、徳川250年余の間、この藩は「徳川なき日本」をシミュレーションし続けていたのである。
全日本の250の藩の中で「徳川なき日本」を考え続けてきた藩であったからこそ、開国後の日本でリーダーシップを取る人間を輩出できたのだった。もし長州がなかったら、日本中の250の藩のすべてが、現実の徳川の枠組みから一歩も出ないで思考を続けていたとしたら、日本の近代化はずいぶん違っていただろう。
諸外国が期待したように、内戦が勃発し、混乱の内に殺し合いが続き、西欧の死の商人たちから買った武器で戦い、国土は荒れ果てていたかもしれない。それは、日本以外のほとんどすべての国家で起こった開国と近代化に伴う悲劇である。現在与えられている枠組み〈パラダイム〉を超えて物を見る・・・難しいことであるが、必要である。
長州は表高は37万石余であったが、干拓と多種の産品、また下開港を利用しての抜け荷(密貿易)などにより多額の貯蓄を持ち、実高100万石といわれた。加賀100万石などというが、実際はそこまで行かぬものである。長州の実高100万石というのは、当時実質上最も富んだ藩であった。
戊辰戦争(1869[明治2]年)に至るまでの戦費のすべてをこの藩が出したので、長州藩の資金がなくては維新はもっと違った形を取ったであろうと思われる。幕末のほとんどの藩が破産状態だった時のことである(もっとも長州藩も藩の表向きの会計だけを見れば破産状態だった。撫育方[ぶいくがた]という産業振興の基金を作り、そこに貯めてあった)。また、下関の豪商白石家は、資金を出し続けて零落した。
戊辰戦争の最後は、新潟から東北に至る奥羽越列藩同盟が孝明天皇の実弟(輪王寺宮、後の北白川能久親王)を立てて東武皇帝とし、政府を樹立しようとしていた。これがこじれたらかなり大変なことになっていたと思われる。
もう1つの雄藩である薩摩は、長州と並ぶ倒幕の立役者である。しかし、薩摩は長い間腰が定まらなかった。薩摩が考えていたのは、徳川家を中心とする同盟で、自藩がその筆頭に立つというものであり、日本全体を考えてのものではなかったように思える。薩摩藩は、第一次長州征伐で幕府側の先頭となって長州を攻撃した。薩摩が諸藩をリ一ドしたこの瞬間は、栄光に輝く一駒であった。つまり、この時、薩摩には倒幕という理念は無かったことが分かる。
維新も落ち着いた1877(明治10)年に、西南戦争が起こった。これは永久に、西郷伝記作者を悩ます問題である。維新の立役者であるはずの西郷が、逆賊となったのである。これは薩摩の思考の原点が、日本全体の改造というよりは、あくまで自藩の栄光だったのだとすれば、理解できなくはない。そう見れば、薩摩が坂本龍馬の斡旋(あっせん)により長州と組むまでの長い迷走ぶりが理解できる。また、西南戦争という暴走も、把握しやすいというものである。
これ以外にも、坂本龍馬など維新の英雄は数多くいる。龍馬の功績は大きい。ただ土佐藩自体は動かず、龍馬個人の動きのみであった。藩として首尾一貫して倒幕に関わったのは長州だけである。ただ人物像を見ると長州人は、常に分析的で全体を把握しようとする。その観察と把握に当たっては、人間的要素を排除しようとする傾向がある。すべてに理屈が通っていることを求める。冷たい印象を免れない。
これに反し、薩摩は直覚的、直情径行で、人間的な思念に基づいて決断する。それだけに大きなミスもある。だが、ずっと人間的魅力に富んでいる。いわゆる大人物が輩出している。長州者は努力の秀才、周囲の者は窮屈になる。それに反して、薩摩は天性ののびのびとした天才の集まりで、くつろがせる。だから薩長で、薩摩が初めに来る。長薩などとは誰も言わない。人気は薩摩である。もちろん、両方が必要だった。
長州藩はまた浄土真宗の盛んなところであり、島地黙雷などの指導者を出した。浄土真宗の信仰は念仏と称名(しょうみょう)を信仰の中心とする。念仏とは「弥陀仏を念ずる」ことである。また、称名とは「南無・阿弥陀・仏」と賛美の言葉を唱える(ナムは賛美の意)ことである。一般には、この瞑想的な面は印象が薄れて、念仏といえば今や称名のことになってしまっている。
この派は、日本の思想には珍しく原理主義的な傾向があり、人間は信じる者と信じない者の2種類しかないとした。だから親鸞は、自分の親が死んでも線香1本上げないと言った。親は生前の自分の信仰によってもう行く先が決まっており、子どもが親のために供養などしても意味がないと言うのである。
普通、日本では見ることのできない割り切れた思考である(浄土信仰についてはのちにも少し触れる)。もちろん、日本のことである、初期の勢いは萎(しぼ)み、先祖供養などすぐ復活したが、原理主義的な傾向は続き、政治権力に対して反抗的なところが残っていた。
徳川時代にも、各地に寺院とは別個の「隠れ念仏」のグループがあり、死をもって罰せられた。自分たちの信仰の内容を述べた文献などはなく、摘発と懲罰の記録しかなく、実体は定かでないが、念仏信仰を純粋に守ろうとする動きだったのだろう。
真宗は維新当時も最大の宗派であり、その思想的な影響は国家神道の成立に当たって無視することができない。長州藩は真宗との関係が深く、第一次長州征伐の時の禁門の変で敗北したとき、長州の残兵は西本願寺に逃げ込み、保護を受けた。長州と本願寺の関係は、このように深かった。
天皇親政と祭政一致
維新は天皇親政が眼目であった。そのため、大化の改新のモデルは取らないことになった。大化の改新は要するに藤原氏(中臣氏から改姓)の勢力を固定させるだけに終わったからである。また、大化の改新は唐の制度・文物を取り入れた改新であり、維新はこれとは違い、日本風に行うということであった。
そこで神武天皇の時代に帰るということになった。これは要するにイメージ先行、掛け声だけであった。神武天皇の時代に、何が具体的に起こっていたのかは誰も知らず、要するに具体的には無規範、無内容ということであった。
そこで自然に「天皇親政」は徳川幕府による政治を排するということ。また、立憲君主制の政府を作るということに移行していった。維新が目指した祭政一致とは、もともとは天皇が神々の祭りを行うことが政治の根幹であるというものであった。その祭りは仏教ではなく、新しく作る神道で行われることになった。こうして宮中から仏具や位牌などのすべては取り去られ、京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)に移され、宮中では神式の祭儀を行うように整備がされた。
新設された神祇官は、天皇の行う祭儀に関わる役職で、これは日本の政治の根幹となるべきはずであった。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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