神仏分離
先に述べたように文献と物的証拠だけからすれば、神道は仏教の近縁として発達してきたとしか言えない。また、もし神道が古代に独立した宗教だったことがあるとしても、その直接の証拠は存在していないのである。
神道とはもともと民間信仰であり、それが仏教と出会ってその中に包摂され、半独立の宗教として形成されていった可能性が濃厚である。仏教伝来の前に、神道が独立した宗教として存在していた可能性は皆無ではなく、そう主張する学者もいないわけではない。ただし、平安朝以来の約千年間に限って言えば、神道は仏教寺院に付属する形で、仏教の一部として存在を続けた。
先に述べたように徳川政権は、仏教を国教として指定することによってキリスト教を防ぎ、さらに植民地化を防ごうとした。このように仏教を使うことによって、国を守ろうとした。しかし、開国に当たっては、仏教をもってキリスト教を防げないのは明らかだった。鎖国時代に仏教は安逸を貪(むさぼ)り、形骸化していたからである。残るは神道である。これを使おうとした。
明治政府が発足し、新政府は神仏分離令を出し、神道を明確化しようとした。その時、寺院に対する民衆の反感が強かったので、分離令はおのずと廃仏毀釈(きしゃく)運動に発展し、各地で寺院の焼き打ちが起こった。もともと、政府は仏教の撲滅など意図せず、神道に国教としての地位を与えたかっただけだったが、民衆の側の寺院に対する怨みは強く、寺院の焼き打ちに変化した。これは禁止されたが、仏教寺院は壊滅的な打撃を受けた。
奈良の十津川村では、村内の54の集落にあった54寺のことごとくが破壊され、現在に至るも1寺も復興しておらず、葬儀は神式で行われている。1999年の夏に調査に行ったが、大工、畳屋など村内の2、3人の者が講習を受けて神道教師の資格を得ており、依頼されて葬儀を執行しているとのことであった。
この人たちはその場かぎりの「教師」であり、日常は宗教家とは見られていないようであった。それでは飽き足らず、やはり仏壇が欲しいという人は、和歌山の新宮市まで行って買ってくる。戒名については仏壇屋が寺を紹介してくれて、そこからもらうとのことであった。「十津川念法寺」というのがあって寄ってみたが、これは「念法真教」という新興宗教の集会所であり、既存宗派の仏教寺院ではなかった。
盆踊りは盛んであり、観光客を集めているとのことであった。この村はもともと全村が「玉置神社」という古社の神域であった。村民に聞いたところでは、村で行われている神葬とこの神社との関係はないようだった。鹿児島の串木野市内でも同様のところがあるということを、同市出身の人に聞いたことがある。寺院が明治初年に破壊され、葬儀は仏式で行われていない、ということである。
宗教は政治の道具にすぎないという日本の伝統が、この神仏分離令とその実行とによく現れている。
明治政府は、こうして神道を仏教から抽出した。使用された用語は「神仏分離」または「神仏判然」だが、実際には仏教から神道を「抽出」したのである。明治政府は、こうして復古神道の概念に従って神道を再構成した。平田篤胤(あつたね)の理想の一部は、彼の死後25年ほどのちに、こうして現実となった。
もう1つの分離
さて、神道は仏教から抽出されただけでは成立できなかった。もう1つの分離が必要であった。それは、俗に淫祠(いんし)邪教と呼ばれる要素の排除である。神道は祖霊崇拝の民間信仰から出て、仏教の近縁として発達したことは歴史的事実であるが、そこで神道は仏教に対する補完的な役目を果たした。
もともとは、仏教の教義の根本は無神論哲学である。従って、民間信仰的な要素、迷信的な「御利益信仰」の面に欠けており、そこで毘沙門(びしゃもん)天、帝釈(たいしゃく)天、夜叉、恵比須、弁天、金毘羅(こんぴら)、ダキニ天など、インドの土着神がそれを補う要素としてすでに付随していた。
日本に土着した仏教は、さらに神道を加え、「御利益」的な面を多く担わせ、怨霊を鎮め、崇(たた)りを避け、あるいは逆に呪詛をかけるなどは仏教の一部としての神社の役目となった。
また、男性の生殖器礼拝も盛んであった。神社には必ず男根が祭ってあり、陽石を祭り、金勢神(こんせいじん)、金精神(こんせいしん)、コンセサマなどと称した。陰石を祭ったものもあり、これらは多くは道端の小祠であるが、これら淫祠が神社の境内にある例も多くあり、参詣者を多く集めた。祭礼に当たっては甚だワイセツで怪しいものもお出ましになった、と柳田國男は『遠野物語』に言っている。
明治政府は淫祠邪教の退治をやり、神社からそれらを一掃した。神社神道は、民間信仰からの分離もあって成立した。神社神道の成立について神仏分離を論じる者は多いが、このような生殖器礼拝や、シャーマニズム(神おろし)などの民間信仰との分離を論じているものはあまりないように思う。
しかし、この分離は神社神道の成立にとって、もう1つの重要な要素だった。安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書)が少し触れている。折口信夫は、神社神道は古義神道と連続があるのかと疑問を呈している。
彼によると神社神道とは、いわば宮廷神道の一分派である。政府は宮廷神道の一分派をもって神社神道を成立させようとし、そのため一般の神社の古来からの行事が安易に整理され、切り捨てられた。各神社の旧伝習にも価値のあるものがあるのに、と言って残念がっている(折口信夫全集第20巻中『昭和4年神道講座』中央公論社)。
政府は文明開化を推進するため、旧来の陋習(ろうしゅう)や迷信を一掃しようとし、これらを規制し、法をもって取り締まった。
1908(明治41)年9月21日、内務省令第16の警察処罰令というのがあり、それによると・・・。
16. 虚報流言デ誘惑セシメル
17. 妄ニ吉凶禍福ヲ説キ、又ハ祈祷符睨ヲナシ守札ヲ授与シテ人ヲ惑シタル者
18. 病者ニ対シテ禁厭、祈祷、符睨ヲ為シ又ハ神符、神水等ヲ与ヘテ医療ヲ妨ゲタル者
19. 濫ニ催眠術ヲ施シタル者
これらは30日未満の拘留、または20円未満の科料ということになっている。なお、これらの条文に「妄ニ・・・」「濫ニ・・・」とあるのは、主として民間信仰を禁じようとしており、既成の宗教の場合(仏教諸派、キリスト教諸派、教派神道など)は、守札、大麻、神籤(みくじ)などを与えてもよいとされている。
このように戦前は、新興宗教を新しくスタートさせることは、なかなか難しかった。事実、たくさんの新興宗教が警察の手入れを受けた。この頃は既成の宗教でなければ病気平癒の祈祷も、お札も神水も授与すれば違法になったのである。
新興宗教の生きる道は、既成の教派神道の一派の「付属教会」という形を取ることで、多くがこの方法を取った。大本教に対する迫害は特にひどく、無期懲役に処せられる者があり、本部の神殿が破壊されたり、とうていキリスト教に対する弾圧の比ではなかった。
大本教は『古事記』『日本書紀』などに対して教祖出口王仁三郎による独自の解釈を持っていた。こういうものを放置すると天皇制の根幹にかかわることにもなり得るのである。記紀の自由な解釈を許すと、天皇家の正統性を揺るがすような解釈も出てくる可能性もある。このように、新興宗教に対する近親憎悪的な圧迫が激しかった。
官幣社、国幣社などの神社神道においては、神官はすべて国家公務員であった。1935(昭和10)年の資料によれば、官国幣社は199、府県社は1061、郷社は3600ほど、さらに村社が4万5千、無格社が6万余で、神職が1万5千となっている。だいたい、村社以下は神職を置かず、祭りは村民が行った。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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