神社神道の成立
こうして、曲折を経て成立した神社神道であった。政府は、主要な神社を官営とし、運営費と人件費のすべてを公費で負担した。これらは大・中・小の官幣社と国幣社である。さらに、県社、郡社、村社など、地方行政が負担するものがあった。
神社の教えや行事の基準は、これらを内務省が定め、布告した。その教えや思想内容は、小・中学の教科書をもって一般に教えることとした。これは「神社神道」と呼ばれた。神社を拠点としており、特別の教義を持たず、信徒を結集せず、会員制を取らないところからである。これに対して、純然たる宗教である黒住教、天理教、金光教、富士講、白山信仰などは「教派神道」と呼ばれた。
仏教はあっさりと、国教としては廃棄処分になった。神道は昇格させられた。企業の人事のようである。人事ではなく、さしずめ昇格「神」事であった。神道は、ついでに自分の中身も作ってもらった。日本的な宗教政策の面目躍如というところである。
このあたりのいきさつを見ると、日本の文化や風土が持っている無神論的な傾向というものが強く感じられる。日本ではこのように政府というものは1つの宗教を採用したり、捨てたり、また既成の宗教の中から一部を引き離し、それをもって別個の宗教を構成し、思想内容も準備して与えることができる。それは当然と思ってきたのである。
政治が宗教イデオロギーを自由に創作、操作し、廃棄し、また新規に採用したりしたのは、前述したように短期間であるがナチス・ドイツがある。それ以外には、どうやら文明国では例はないのかもしれない。ここで文明国と言ったのは、文書記録や付随する哲学論議が残っているという意味である。
日本人は欧州の先進国を見学して、そこに宗教の強力な力を見た。このキリスト教という邪教は、強力なエネルギーを持っており、これを信じると、外国にどんどん出て行く意欲が出てくる。手段を選ばず、殺戮(さつりく)も自由にやるようになる、神の御心だと信じれば、良心の呵責(かしゃく)も消える(良心の呵責などあったとしての話であるが)。非常に便利である。そうやって海外で活躍して巨額の富を国にもたらす。欧州はこの宗教のお陰で潤っている。アジアやアフリカから、良心の咎めなしに富を強奪できるからである。
日本は、この宗教の犠牲になってはならない。この邪教に対抗する必要がある。またこの邪教に倣って、同じような発展力をもって外部に出て行くようになるのだ。キリスト教のような、自国に多くの富を強奪してくるような人物を多く出せる、そういう宗教を日本も必要としている!
それには、新しい宗教を作るのだ。もちろん、それによってキリスト教の侵入も防がねばならない。欧米のキリスト教諸国がアジアにもたらした災厄を考えると、これは緊急のことである。許しがたい残虐行為の基礎となったキリスト教というものは、表面の教えは愛などを説くが、道徳性は極めて低劣なものであるらしい。
ともかく、この新しい「神道」で対抗するのだ・・・新しく作ればよい。何であってもよい、キリスト教ほど道徳性の低いものにはならない・・・と考えたのだった。
伊藤博文は、アジアでの英国の残虐さがあまりにひどいので、もし欧州のどれか1国と同盟を結ぶのならロシアにしたいと言って、周囲を慌てさせた。伊藤の臣下は欧州におけるロシアの残虐さを挙げて、翻意させたとのことである。日本から見ると、キリスト教国の政策は残虐で、口先では愛や平等などと言うが、その行動は恫喝(どうかつ)と強奪で、鬼畜そのものだった。
日本の政治家は、等しく欧米の侵略を恐怖し、その原動力となったキリスト教を恐怖していた。日本も座して便々と日を過ごすなら、アジアの他の国々のように、また米国内の有色人種(黒人とインディアン)のように、奴隷の状態に落とされるに違いない。そのような危機感が国中に溢れていた。
キリスト教は、日本が見聞きしてきた宗教のうち、最も道徳的に低級な宗教であった。日本は、その道徳的低劣さと残虐性を、17世紀の鎖国に当たり見ていた。2世紀半後の開国に当たって、それを再確認したのである。キリスト教の悪どさは、日本が鎖国していた間に変化してなかった。
日本の新しい宗教も、キリスト教にならい他国を侵略し、植民地とし、搾取するための原動力とするのだ。欧米は、侵略するとすぐ教会堂を建てる。それに倣って、日本も行った先々で神社を作る、そういう方針も立てた。
日本は過去には鎖国という消極的平和政策を取り、他国との争いを避けて、2世紀半というもの他国と戦わず、他国を侵略しなかった。徳川政府は、常備軍を持たず、軍事力が必要な場合には他藩の兵を使った。そういう中央政府は世界史上でも他に例を見ない。その体制が、250年の間続いたのである。
江戸時代は平和を第一にし、人命は重んじられ、文盲は姿を消し、豊かな社会が生み出された。幕藩体制にさまざまな問題があったのはもちろんであるが、その基本的な倫理的態度は立派なものであった。
日本の社会は、キリスト教を邪教とした。その観察は、誤解ではなかった。むしろ正確な把握であった。
国家と宗教の関係
国家と宗教の関係は微妙なものがあり、一概にどれが正しく、どれが間違っているなどと決めることはできない。もちろん日本のように、「政府が関係するものはすべて『無神論的』であるべし」と決めるのも問題がある。一見して、中立で公平のように見えるが違うのである。なぜなら「無神論」も、1つの主義である。これは宗教思想より上位にある、などとは言えない。
「無神論」が中立で公平な立場であるなどとは、到底言えない。首相が靖国神社に参拝してはいけないと言うなら、クリスチャンが首相になったら礼拝に出てはいけないことになる。信仰は個人的なことであるが、公人が出席することがその宗教にとって著しく有利な場合は、憲法違反だそうである。クリスチャン首相が礼拝に出れば、それはキリスト教にとって著しく有利であろう。これは実は「政教分離」という誤訳から出ている混乱なのであるが、そのことはあとの方で論ずる。
ローマ・カトリック国であるスペインの例では、現在でも国家の行事は、すべて伝統的なカトリック信仰に従って行われることになっている。国家によって行われるミサに出席するとき、カトリック信仰は強要されないが、出席の義務がある。出席を拒否するときには、その時々の政権によって迫害があったり、なかったりしている。個人の信仰は禁じられていないが、その時々の政権によって圧迫されたり(フランコ政権)、自由だったりしている。
ローマ法王庁は、昭和の初期に日本の信徒の神社参拝を容認した。日本における神社神道の現状と、カトリック教国における国家的行事としてのミサの参列との間に大きな差はないと認識したようである。もっともこの状況は、1940(昭和15)年以後は大幅に変化したことは先に述べた。
英国でも国家の行事は、英国国教会(チャーチ・オブ・イングランド)によって行われる。エリザベス女王の戴冠の時、教会において挙行される戴冠式に労働党は参加しないと表明したが、歴史上初めてのことであった。
英国は、世界各地の植民地に英国国教会の会堂を建て、国家的行事、祭典はそこで行った。現地人の主だった者たちは、そこに参列させられた。参列を拒否した者たちへの処遇は、その時の政治的情勢によった。英国に対するレジスタンスとの関連がある者は厳しく処断された。
便宜受洗も多かった。20世紀後半に、英国が植民地を放棄し、旧植民地は独立したが、そうすると英国国教会は寂れてしまった。便宜受洗した人たちをはじめ、相次いで教会から人が去ったのである。オクスフオード大学の宣教学研究所の雰囲気には、そのような歴史的事情への反省がある。英国国教会は、200年の間何をしてきたのか、ということである。
神社神道という宗教を新しく作り、その祭りを国民の祭儀と決め、全国民を参拝させ、また植民地にも参拝を強制する。いま考えると、いかにも乱暴で、滑稽にも見えるのであるが、第二次大戦以前の世界の宗教事情を見ると、日本の社会に神社神道が存在した状況というものは、そんなに特殊なものでなかったのではないか。
とくに1900(明治33)年に神社局が作られるまでの経過、また1935(昭和10)年まで天皇機関説が公式見解として採用されていたことなども併せて考えると、その感は強い。
軍国主義体制の10年間
1935(昭和10)年の「国体明徴」事件以後、終戦に至るまでの軍国主義の10年間をどう見るか、という問題が残る。
これは神道イデオロギーから出た、おぞましい歴史の醜悪な結末とするのが通常である。中には神道の持つサタン的な力があり、これが平安時代から延々と日本の歴史の底流にあり、昭和の悲劇を巻き起こしたが、その悪魔的な勢力は今も払拭されておらず、復活を狙っているのだとする者もある。
これは西欧列強と米国、さらにロシアからの侵略の脅威に対抗するためのギリギリの選択であった、と考えられるのではないか。これについては、すでに縷々(るる)述べてきたところであるが、これをどう見るかによって我々の「日本宣教」の前提、方法論のすべてが変わると言ってもよい。
水戸藩を中心とする勤皇文書
天皇の神的な権威を認め、天皇を政治の中心に置くべきであるとする文書が水戸藩を中心として江戸時代に書かれている。また岡山の池田藩にも、そのような論旨で書かれたものがある。
天皇制を論ずるときに、これらの文書は必ず引用され、このように日本の精神的な伝統として天皇を神とする思想があり、それが脈々と続いてきたのであるとして、その証拠とされることが多い。しかし、これらの文書に論じられている「神道」の神社がその地方に存在したわけでなく、そのような政権の確立のための運動が継続的にあったわけでもない。
これらが書かれたのは、徳川政権の末期である。徳川幕藩体制はなるほど250年にわたる平和を保持し、他国の侵略から国を守り、富の蓄積を果たし、繁栄する社会を実現した優れたシステムで、世界史的に見ても大変な成功であった。しかし、この優れた体制も250年を経過し、制度疲労を起こしていたのである。
鎖国は、それまではうまく機能し効果を上げていたが、外界の軍事技術の変化が押し寄せてきており、鹿島灘にはロシアの軍艦が度々現れて上陸を試みたりし、水戸藩は海岸に砲台を築き、これらの動きに敏感であった。水戸藩では、当時ロシアの新聞を取り寄せで読んでいたとのことである(あるいはオランダの商人を通して入手していたのだろうか)。水戸藩の世界情勢の把握の緊迫感に比して、幕府のそれは遅れており、幕府体制に対する不満と不安感は水戸藩に限らず日本中に漲(みなぎ)っていた。
そのような中で書かれた勤皇文書であることを、覚えておく必要がある。鎖国と幕藩体制というものが、破綻しようとするときであった。人々がそのさなかで、他の選択肢を模索していた、そのただ中の証言としての勤皇文書である。これをもって天皇を神とする思想、天皇が政治の実権を持つべし、とする思想が日本に継続的に存在したと結論付けるのは性急に過ぎるのである。
日本はアジアで最初に憲法を採択し、初めて立憲君主制を樹立したのであるが、伊藤博文は帝国議会ではっきりと、「憲法によって天皇の権力を制限するもの・・・」と答弁している。
アジアで初めて憲法を採択したのは日本ではない、トルコであるとする意見もある。これについては、トルコ大使館に問い合わせたところ、「わが国は欧州の一部であり、アジアではない」との回答があったという。ローマ帝国とは、すなわちトルコのことであった時期が長いことを考えれば、十分にうなずける見解である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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