自己の文化の絶対化
自分が1つの「文化」を着ていることに気付かないと、無意識のうちに自分の文化を絶対化することにつながる。自分のキリスト教信仰の実践に、自国の文化が入っていることに気付かないと、福音が絶対的な価値を持っているために、自分の文化の価値も混同してしまうことになる。
ある人が信仰のみが大切である、文化などというものを持ち出すのは信仰的でないと主張するとしよう。彼は、自分も1つの文化の中に住んでいることを忘れているのである。それをやっていると、必然的に自分のライフスタイルや自分の価値観(文化)を絶対化することに通じる。
文化を考えるのは信仰的でないとする態度は、自分が1つの文化の中にいることを自覚していない。そのため、自分の文化に固執し、自分の文化を絶対視することにつながるのである。
信仰生活や礼拝行為には、文化という衣服がある。それを自覚しないと、自分の文化を押し付けることになる。小生が神学生の時、チャペルの時間で一同が座ったまま賛美を歌っていた。遅れて入ってきた米国人の教師に、起立しないで賛美を歌うとは何事か、と叱責され一同がいたく反省したことがあった。
ところが後年、ドイツ人の宣教師と仕事をしているとき、米国人は聖書の朗読の時に起立しないが、あれはとんでもないことである。ドイツでは起立して御言葉に聞き入る・・・と聞いた。要するに、あれは文化だったのだ、と納得したのである。繰り返すようだが、自分は文化など着ていないので、自分の生活は福音そのものである、などと考えてはならない。誰でも必ず文化を着ているのであり、例外はない。キリスト教は「福音と文化の合体」した福音的宗教である。
そこで、次には福音と文化の二者の接点ということを考えなければならない。いったいそれら二者の間には、必然性があるのだろうか。または、福音がある社会に入っていき、1つの文化と、その時にたまたま出会ったということだけでよいのだろうか。
現実には欧米の「キリスト教文化」を考えると2千年近い歴史があり、これが「絶対」とはされないとしても「標準」である(デ・ファクト・スタンダード:既成事実としての標準)ように扱われることが多いのは当然である。しかし、だからといって西欧文明は特別なのだろうか。
そうではないので、どの文化であっても福音と合してキリスト教という「福音的宗教」を構成できるはずである。そうして世界の多種の文化と合体して、世界にはさまざまなキリスト教群が存在し得るということになる。このことに関しては、パウロの「律法を持たない人には・・・律法のない人のように・・・」(律法とはユダヤ的な宗教慣習)という原則がある。
しかし、現実には、この「文化についてのパウロ原則」は忘れられやすい。確かに日本では「パウロ原則」を実行するには多大の困難が伴う。「パウロ原則」を聖書通りに守ろうとすれば、周囲からは福音信仰を捨てたのか、と思われてしまう可能性もある。あまりにも「パウロ原則」が無視されており、そのため聖書的に行動することがかえって異端的に見えるという現状がある。
福音がある文化と結び付いているとき、そこには必然性があるとするのは原理主義キリスト教の1つの特長でもある。すなわち、ある1つの文化の形態が特別な地位を占め、強調される。
それが、福音そのものと同等の扱いを受けるようになる。その時、本質的なことと、周辺的なこととの間に混同が起こる。信仰は、そもそも個人の内面に起こる事柄であるのに、ある1つのライフスタイルを受け入れ、それに徹底することが信仰の深さの指標になってしまう。そのライフスタイルに徹底することが、「信仰の成長」なのだということになってしまう。
飲食には制限が課せられ、喫煙やアルコール飲料の摂取は健康の問題ではなく、イエス・キリストとの内面の関係を表す外的指標となるのも、その一例である。また、自分たちとは違うライフスタイルを取っているキリスト者の群れを、「本当の信仰ではない」と判断したり、タバコがやめられないからあの人は信仰がダメだと考えることになる。これは悲劇である。
もちろん、タバコは百害あって一利なし、やめるべきである。しかし、喫煙はキリストと個人の内的関係の外的な指標ではない。
思想的な単位としてのキリスト教
キリスト教信仰とは、内部に一点の矛盾もなくキチンと整備され、首尾一貫した組織的な思想なのか。その首尾一貫性はクリスチャンの倫理、または行動の規範や指針にまで及ぶのか。言い換えれば、キリスト教信仰の思想体系と信仰の実践は、論理的に合致すべきものなのだろうか。または今そうでなくても、そのような方向を取るべきもの、そのような形態を理想とするものなのだろうか。
それともキリスト教信仰とは、それを分析すると、倫理や価値観など雑多で民族的なものがあり、それが福音の周囲に混ざり合うようにして存在しているものなのか。つまり、矛盾を含んだ人間存在をそのまま受け入れて、その上で福音と組み合わさっているものなのだろうか。
聖書に、神と信仰者の関係が「父と子たち」という象徴をもって表現されていることを忘れてはならない。これは非常に重要である。つまり、神と人間との関係の中には、家族内の人間関係と相似しているものがあるということである。人間存在も、また人間同士の相互関係も論理的に分析できない部分が多く、愛憎の情もそうである。このように「神の父としての愛」 が、キリスト教信仰の中心にあることは偶然ではない。
つまり、信仰の中に、また信仰者の倫理の実践の中には分析し切れないものが多くあり、そもそも批判的な分析を拒絶する要素がある。また、福音的な信仰自体の中にも、論理的構造を越えるものがあり、論理的な分析を拒むものがある。
もしキリスト教信仰とその倫理とが首尾一貫した構造を持っており、そこには矛盾がないはずだとすればどうか。もしそうなら過去のプロテスタント信仰の実践に問題点があれば、それにつながる信仰もすべてダメということになるのではないか。ボタンを1つかけ違えば、あとは全部違ってくるのと同じ理屈である。
つまり、過去の歴史で、倫理的な問題点を持っている教派や神学は低級でダメで、その教派にいるクリスチャンは救われていなかった、ということになるのだろうか。マルティン・ルターの宗教改革はどうだったのか。ルターは末期にはユダヤ人を迫害し、ユダヤ人の会堂、村落、学校を焼き払い、書籍を焼き、国外追放にしたりした。
(注:ルターの言葉に「がんは人体から注意深く取り除かねばならない。ユダヤ人は欧州のがんであり、同じように注意深く欧州の社会から取り除かねばならない」というのがある。ただし、記憶からの引用で、出典をここに示せない)
ニュールンベルグ裁判においてナチス側は、ユダヤ人を迫害するのがそんなに悪いことなのなら、マルティン・ルター博士もここに連れてきて、一緒に裁いてもらいたい、と主張した。(羽田功『洗礼か死か ルター・十字軍・ユダヤ人』林道舎、1993年)
ルターの場合は、福音的信仰にプラスして「ユダヤ人に対する民族的な偏見」という文化が加わっていたことが分かる。しかし、だからといって、ルーテル教会には救いがない、真理性がない、などとは言えないだろう。
また、米国のピューリタン信仰は、全然ダメなのか。彼らは黒人に対する暴虐を見過ごしにした。また、インディアン絶滅政策に対して声を上げなかった。そのうちにインディアンの人口はかつての数パーセントになってしまった。オランダの植民政策の非道ぶりと悪どさは、同じアジア人として、まさに身の毛もよだつ思いがするのであるが、だからといって当時のオランダ改革派教会の信仰はダメで、真の救いなどなかったのか。そうとは言えない。鎖国時代の日本から見るとキリスト教国の行動は妖教のそれであった。
だから、その時代のキリスト教はすべてダメだったのだろうか。そうではないはずである。倫理面においていかに欠陥があろうとも、彼らは神の子であり、天国の民だった。
かく信仰と文化の出会いと結び付きには、論理的な必然性はないことが分かる。また、そこに論理的な首尾一貫性を求めることもできないのである。文化が持つ罪は、福音がその罪と汚点を潔めるのだが、決して完全ではない。であるから、どんな文化も「純粋なキリスト教文化」と呼ばれることはないし、また他の文化に対して絶対的な優越を持つこともない。
その時代の文化
福音はその時代の文化と合わさって、キリスト教という「宗教」を形成するのであり、そこで形成されたキリスト教信仰の中には、その時代が持っている誤謬(ごびゅう)や弱さが含まれている。これはごく自然なことであり、その弱さはその時代、またその地域に特有である。倫理面での誤謬が存在すれば、その信仰の全体がダメだということにはならない。現在の我々の信仰にも、現代の社会が持っている誤謬が多く入り込んでいるはずである。我々の持っている誤謬は、次の時代になって振り返れば明白であっても、今の時代に生きている者は気付かない。そのことを覚えておかねばならない。
そのようにキリスト教信仰には、雑多なものが入り、時代の制約、時代の誤解、時代の罪を含む。しかもその時は、いくら真剣に信仰生活を送っていても、その雑多さや罪を自覚しないのである。
時代が変わって、次の時代の人が見ると、その時代の誤謬は非常に明らかになる。そこで次の世代は、目に余るものを修正するのである。
現在の21世紀の我々の信仰と行動や倫理基準の中で後世になって痛烈に批判されるものがあるとすれば、環境問題、特に地球資源の乱費ということだろうか。21世紀のクリスチャンたちは実に無神経だった。パンとバターと野菜を買うくらいのことのために、1トン半もの鉄の塊(かたまり)に乗り、炭化水素を燃焼させて移動したが、極めて低い効率で95パーセント以上が熱と有毒ガスになって飛散した。しかもそんなことは気にも止めずにおり、教会はそういう無神経さに対して疑問を差し挟まず抗議もしなかった、などと言って批判されるのだろうか。
または、生命倫理の問題であろうか。自分たちの現在の信仰と倫理の正しさを主張し、自分たちの今の信仰は正しく、行動の規範は厳正である。それはどんな時代の、どの教派のキリスト者に比べても正しい。次世代にも通用すべきものである、などと主張するのは、原理主義の1つの特徴である。
原理主義者は、自分たちの信仰と実践が後世から批判されるようになると思わない。彼らは、自分たちを「究極的な真理の独占的な所有者」であると考え、時代が移っても、その立場は変わらないと考える。
もう1度繰り返すが、過去に米国のクリスチャンが黒人蔑視の文化を持ち、現実に黒人にひどいことをやっていた。また、それらに対して抗議の声を上げなかったとしたら、彼らの信仰は純正ではなく、虚偽の信仰であり、彼らは救われてないのか。
そうではない。確かに倫理面において問題は種々ある。イエスの教えられた「敵をも愛せよ」という教えに反し、敵でもないものを残虐に扱い、殺しまくった。または、そういうことが行われているのを知っていても抗議しなかった。
しかし、倫理はその時代の1つの属性である。時代が変われば倫理も変わる。我々の信仰が神によって有効と認められ、神との交わりが回復され、また「神の子」とさせていただくのは倫理によるのではない、イエスを信じる信仰、イエスの死と復活を信じる信仰によるのである。
時代を隔てて見る、また他の地域や他の文化から見ると、倫理面の誤謬というものは顕著に分かる。だから、ある教派や教団のある時期の倫理面の欠陥は(理論的であると実践面であるとを問わず)、決してその信仰の正当性を損なうものではない。実践面での大きな間違いと、それを生み出した理論的な間違いにもかかわらず、なお人はその信仰によって神の子となり、贖(あがな)われ、永遠の命にあずかるのである。
旧約聖書の中の残虐な箇所も、それを教えている。これらの社会にもかかわらず、神は彼らを救われた。
ここに交わりの尊さがある。孤高を保つ、排他的な信仰は病的である。自己の信仰と実践を唯一の正しいものと見、自分たち以外の者を堕落していると見て、交わる価値などないとする態度は福音から遠い。キリストの名をもって唱えられる、すべてから学ぶ用意と心の広さが必要である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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