これまでに戦争責任、天皇制、神道イデオロギーなどについて簡単に述べてきたが、問題は日本の側だけにあるのではなく、数百年というスパンで考えれば、問題はむしろ欧米のキリスト教国の側に多くあったことを発見した。前述したが、筆者はこの問題を近代のアジア政治史の課題として考えているのではない。これは我々にとって、あくまで宣教学的な課題なのである。
それにしても、キリスト教国によるこれらの侵略と搾取の問題は、たまたま本国の政治家個人、または現地の役人が悪人だったために起こったことなのだろうか。それとも問題は個人にあるのではなく、あくまでその時の本国の社会の意識や思想が問題であり、ひいてはその社会の意識の基底であるキリスト教信仰にあったのだろうか。ごく自然なこととして、そのことが問われねばならない。
17世紀から20世紀初頭にかけて、欧米諸国の社会の価値観を形成した思想はキリスト教であり、それ以外に有力な思想はないのである。この時期は、キリスト教会が大きな権威と影響力を有していた時代である。
そこで我々の課題としてキリスト教思想、またはキリスト教の教義などのどの部分に、それらの植民地主義や搾取の原動力となる要素が潜在していたのか、それを見つけねばならない。我々がその元凶を発見し、それに従ってキリスト教が内包する問題を再検討し始めたとき、そこに日本宣教にわだかまる問題の解決のカギを発見するのではないか。そこに宣教学の持つ、もう1つの使命があると言えるのである。
このように宣教学とは、宣教の技術の追究にとどまらない。それは福音と文化の関連の探求の学でもある。
キリスト教と文化
ここで、先に進む前に確認しておかねばならないことがある。それは「福音と文化」の問題である。そもそもキリスト教という「福音的宗教」は、「福音と文化の複合」である。我々が信じる「福音」とは、基本的なものを短くまとめれば次のようであろう。
神の子イエス・キリストは人として地上に来られた。彼の死と復活により我らは罪を赦(ゆる)され、潔(きよ)められる。地上ではこのお方と交わりをいただき、永遠の世界でもイエスとの交わりに入れていただく。主イエスは世界の終末に雲に乗って再臨し、世界を審(さば)かれ、審判ののちに現出する新天新地では、神の子の集まりである教会は小羊イエスの花嫁となる。
これらの信仰は誤りなく書かれた聖書を通して示され、それを読む者が信仰に至るのは聖霊のお働きによる。
「福音」の定義はさまざまであろうが、最も手短に述べれば以上のようになるであろう。
さて「文化」とは、信者がいま生きている社会の文化である。そうしてその文化は、福音と複合してキリスト教という福音的宗教を形成する。すなわち、「キリスト教」とは福音だけではなく、「福音と文化の複合体」である。この複合体は、1つの「宗教」である。
キリスト教を構成する「文化」は、福音との長い間の接触によって潔められていく。例えば、欧州の文化は、キリスト教との長期間の接触によって潔めを受けてきたのは当然である。しかし、潔めは絶対的なものではなく、不完全であることはすでに述べたところである。
ところがしばしば、あたかも福音と文化は一体であって不離のものであるとされ、またある1つの文化が「キリスト教文化」という特別の呼び名を与えられ、特別の地位を与えられたりすることがある。もちろん、欧州の文化は、歴史的に2千年近くキリスト教世界で発達した文化だから、「キリスト教文化」と俗に呼ばれるのは当然だろう。しかし、これはあくまで俗称であって、絶対的なものではない。
ところが、欧州の「キリスト教文化」が絶対的なものであり、他の文化は違うというような主張がされることが多い。またアジアのキリスト教会とその信者は、よろしく欧州文化を取り入れよ、もはやアジアの文化(インド、中国、日本などの文化や慣習)に従って生きてはいけない、と主張されることもある。しかし、それらはすべて間違っている。欧州の文化は、あたかも福音そのものと同じレベルの権威を有しているような扱いを受けることが多いが、これは大変な間違いである。
さて、ここにキリスト教を福音的「宗教」と呼んで、「福音そのもの」とは呼ばなかった。そのことに反対する方があるかもしれない。自分のキリスト教信仰について、これは「宗教」ではない、福音である、福音とは宗教とは別のレベルであり、真理そのものである、それは「キリストご自身」である、と主張する方もあるだろう。内村鑑三もキリスト教信仰は宗教ではない、キリストご自身である、と言っている。
そういう言葉の陰にあるのは、福音を信じるとは「信仰箇条」を信じるのでなく、教会の「組織に加入」することでもなく、いわんや「行事」に参加することではない。キリストただお1人、キリストだけを信じるという主張である。これは形式に流れやすい信仰生活や、伝道の情熱を失った教会の姿などに対する清々しい一喝である。また地上の組織としての教会や教派の勢力などへの関心が第一になり、主イエスが第二になりそうな中で、キリストこそ中心であることを主張する態度である。
また、これと似たような主張に、「もはや日本も米国もない」とか、「我々は天国の市民である」「クリスチャンは地上の文化を越えている」というような主張もある。
だが、そう主張している人も、自分が置かれた社会の中で生活しており、その社会の価値観の中で暮らしていることは否定できない。つまり、意識していないかもしれぬが、自分は文化の中で暮らして、その文化を受け入れているのである。
家風とか、また会社の社風などというものがある。それは要するに、その所の文化のことであり、そこで行われている価値観のことを指している。エートスという語は、リデル・スコットなどの古典ギリシャ語辞典を見ると語源には動物の巣とか、棲み処(すみか)というような意味がある。つまりエートスとは、それぞれの動物にとって居心地がよくて、ゆっくり眠れるところである。動物の種類によって寝るところは、あるいは横穴であり、木の上、または崖の上だったりする。乾燥した所を好むものがあり、また湿気のある所を好むものがある。
人間のライフスタイルもさまざまであるが、どんな民族も自分の文化とエートスに愛着を持つ。民族の歌を好み、食べ物を好み、その文化に特有の人間関係の中で仕事をし、生きていく。それは彼にとって一番居心地がいいのである。もちろん、例外はあるが、一般的にはそう言える。人間は、自分の文化やエートスから離れて生きることはできない。それは、 福音的信仰の実践においてもそうである。
例えば、「潔め」や「人格の完成」などということも、基準は、やはりその文化の中にある。
米国の社会では、健康な人間とは人格的な独立を持っていて、他人の気持ちに自分を合わせようなどしないものとされる。米国では他人の気持ちを第一に考え、それに合わせようとするのは独立性が少ない、不健康な、病的な態度とされる。
レストランに入ったとき、自分は他人が取るものでいい、それに合わせようなどと言う人は尊敬されない。そういう自分の主張のない人間は、社会ではやっていけないと考えられる(それにしてはあまりウマい物のない国である)。
日本ではどうか。周囲に合わせようと努力する、そのような心遣いをすることが成熟した人格の証拠とされる。他人への影響を考えずに自分で決断し、自分本位に行動するものは幼稚な人格とされる。
このように人間の心理的な健康ということが、日本と米国では反対に評価されることがあり得る。
米国の文化においては、人がどう生きるかはその人の問題である。事業が厳しくなれば、雇用主はすぐクビ切りをする。失職した人や家族がどうなるだろうか、などと考えてあげることは相手に対して非常に失礼で、やってはいけないことなのである。これは、まさに日本とは反対である。
もちろん、日本でもクビは切るが、「仕方がない」「申し訳ない」と思ってやる。「とんでもない時代になった」と社会は考える。米国ではそれは当然であり、社会も何も責めない。
パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように・・・」と言ったのは、そういったことを意味している。それは、相手の文化と価値判断を尊重するということである。それは単に宣教の時に「相手がよく分かり、違和感を持たないような言葉遣いをする」というような、その辺りのレベルのことを言っているのではない。それは「相手が理解しやすい言葉を使う、相手の文化環境に合致した用語や論理を使用する」ということを、はるかに越えたものを指して言っている。
使徒行伝を見ると、福音に伝道地の文化が合して「異邦人キリスト教」が形成されていくのが分かる。ユダヤ的な福音信仰の形でない。そこに新しい「福音的宗教」が形成されていくのである。
このように、それぞれの文化が福音と合することによって潔められ、本来の価値を取り戻すのであり、その時ユダヤ人は、神の選民であることを真に誇り、ギリシャ人も世界の最高の文化を持っていることを本当に誇ることができる。
救いを受けた者たちには、確かに「天の国籍」ができたのであり、それは究極的にはすべてを越える。しかし、本籍は天にあるかもしれないが、地上の住民登録がなくなったわけではない。日本人には、日本の文化の中での住民票が存在する。だから、福音的な信仰者も、自分の社会のエートスに属しているのである。キリスト者は、自分の文化を捨てるようには決して教えられてはいない。地上では、文化という衣を着るのであって、ハダカで暮らすのではない。
神の御心は、キリスト者が自分の文化を福音によって潔め、完成させていくことである。ただ、そこで自分の文化に絶対的な価値を置こうとしたり、そうやって自分の文化に永遠的な意味がある、などと思ってはならない。そうして永遠の世界では、それぞれの文化が神の前に並んでパレードするのである。
他人(例えば、欧州人)が着ている文化の衣装には、永遠的な価値がある、自国の文化は捨てるべきものだ、などと思ってはならない。
パウロは、宣教に当たって相手の文化を修正するな、と教えている。伝えようとする相手の文化を大切にし、ギリシャ人にはギリシャ人のようになって伝える、と言っている。だから、米国人が日本人に宣教するときも、福音だけを伝えるのである。米国文化やその価値観(アメリカン・ヴァリューズ)を伝えるのではない。
外国人から福音を受けた日本人は、福音とともに外国の文化をある程度は受けるだろう。しかし、自分が信仰を伝えるときには、福音のみを伝える。外国文化を伝えないように努力せねばならないのである。日本で福音を宣教しようとする者は、日本の文化を真に尊重するのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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