アラブ社会と福音
アラブ世界(西アジアも入れて)の福音宣教は困難で、この地域は最も伝道が難しい所とされている。アラブ社会は「西欧的キリスト教」を拒否しており、ほとんど教会を形成するに至っていないとも言われている。
しかし、聖書そのものを色付けなしに見れば、中近東の人間像と聖書中の人間像との間には親近性があるので、それは学者でなくても、専門家でなくても、誰でも実に簡単に発見できることのはずである。
ただし、伝統的なキリスト教信仰は、西欧社会のために「組み替えられ」ている。そのために、中近東の社会に生きている者にとっては、これには拒否感がある。
言い換えれば、中近東のアラブ社会(西アジアも入れて)は、世界でも文化的に最も聖書の社会に近いので、アラブ社会はほとんど聖書の舞台そのものか、またはほんのご近所である。だから、アラブ社会とアラブ文化は聖書の福音に対して一番親近性を持っているはずである。ところが、現実はそれと違って、中近東が福音伝道の一番困難な場所とされている。理由はもちろん、西欧社会の価値観向きにキリスト教信仰とその実践が組み替えられているからである。
これはコンピューターのソフトの例で言うと、次のようになる。プログラム(福音)自体は同一なのであるが、顧客(カスタマー)の使い勝手が良いように手直しがされている。資材管理担当が使うのか、営業担当のためなのか、あるいは研究所向きか、などによって手直し(カスタマイズ)され、使い勝手が変わっている。他部門の人はどこをどう押していいか分からず、使えなくなっている。ソフトの本体は同一だが、使い手のためにディスプレイに出ているアイコンは違っている。そういうのと似ているかもしれない。
福音は中近東が舞台であるので、もともとは中近東向けのバージョンだった。ところが、西欧向けにカスタマイズされてプロテスタント・キリスト教が成立し、そのためにアラブ世界にとっては、違和感が生じているのである。
聖書にあるままの最初の形に直せば、それだけでアラブ世界に通用し受け入れられるのでないか。部族重視、男女は不平等、入信においては個人の決断でなくて家長の決断による。そういう慣行のキリスト教に戻すのである。
くどいようだが繰り返すと、聖書信仰は、いわば原石は中近東産である。それを研磨しカットし直して、西欧世界向きの宝飾品に仕上げた。そのために、もう中近東には通用しないので、むしろ原石のままの聖書信仰をアラブ世界に教えれば、受け入れられるに違いない。
ところが、実践の場に限って言えば、換骨奪胎して西欧向きに作り変えられた物、それがプロテスタント・キリスト教である。それを一生懸命に伝えようとする。そのためにアラブ世界は受け入れてくれず、最も伝道の難しい場所になってしまっている。
中近東の社会に適合していたものを西欧の近代社会のまったく異なった価値体系に合致させたのがプロテスタント・キリスト教である。もちろん、そのプロセスをいけないと言っているのではない。それは、西欧に伝えるためには正当な操作であった。しかし、それはあくまで西欧社会向けの福音浸透のための操作であった。ところが、今度はそれが一人歩きし、西欧的なものを絶対化している。そこから問題が起こっている。
アラブ世界に伝道するときにも、プロテスタント・キリスト教は男女平等、一夫一婦制、民主的社会などの西欧的価値観を押し立てていく。福音も伝えるが、まず野蛮なアラブ社会をどうにかしなければいけない。民主的な社会に変えようとする。これはアラブ社会の従来の秩序の破壊である。伝道する方にとってみれば、後進的な国を近代化させるので、これは正義である。絶大なる自信を持って指導しようとする。
本来、福音は中近東の社会という容器に入っていた。それを苦労して、西欧的なデザインのパッケージに入れた。それがプロテスタント・キリスト教である。またはユーラメリカン・キリスト教である。
ところが現在は、そのヨーロッパ的な容器が絶対であり、便宜的だったはずの西欧的なパッケージも真理性を獲得してしまった。そのパッケージに入っていないとニセモノで、本当の福音でないかのようになっている。そういうキリスト教が、中近東の社会に浸透しないのは当然である。
近頃、アジアのイスラム教徒の間に、新しいアプローチでの伝道が進んでいて、何十万もの受洗者が与えられている。一村全体の父親たちが集まり、部族の首長の決断に従って改宗する。そこで父親たちが洗礼を受ける(女は出席していない)。
イスラム世界では、部族の家長たちが一致して行動するのが伝統である。洗礼を受けた父親は家に帰って、直ちに自分の家族(女・子ども)に洗礼を授ける。複数の妻を持っていれば、彼女たちに洗礼を授ける。イエスをメシヤと信じたあと、彼らはライフスタイルを変えない。その必要はないのである。
これはもう、旧約聖書にあるような家族像とほとんど違わぬ状況である。その中で福音が伝えられ、多数の人々がそれを受け入れている。そのようなことが行われ始めている。
それがどこの国の話なのか、場所はどこか、指導者は、などの詳細について、事情があって差し控える。でないと、大規模な虐殺につながる可能性がある。その運動の中心にいるのは、筆者の畏友である。何世紀かの後には、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンと並んで評価を受けるようになる人物である。
西欧的な倫理と価値判断よりすれば、個人の決断によらず、部族の決断による信仰などまったく問題にならず、無価値であろう。しかし、旧約聖書の社会でも、アラブ世界でも、集団的な決断こそ価値がある。実は、そのような社会が21世紀の世界にも存在している。
今までのプロテスタント宣教は、そのような社会を否定してきた。これからの宣教は、そのような社会も正当に認識し、これを尊重し、その社会の価値判断を有効と認めて進むより他にない。つまり、聖書の社会にも市民権を与えるということである。
ここに、おこがましくも16世紀宗教改革を宣教学的に見て、その業績を評価すると同時に、現在のプロテスタンティズムに内在する問題を指摘した。筆者は、もともと聖書学が専攻であるが、ここ30年ほどは宣教学に没頭している。組織神学や宗教哲学には不案内であり、教会史についても素人である。
それがルターやカルヴァンの大事業に口を差し挟むとは厚顔無知もはなはだしいので、それは百も承知している。しかし、宣教学の見地から、宗教改革を再評価しようとするのは意味のないことではあるまい。あえて蛮勇をふるって、試みる次第である。
繰り返して言うが、16世紀宗教改革は、宣教学的な見地からすると啓蒙主義の産んだ「自律的な小市民」(プチ・ブルジョア)としての人間像に福音を「文化的適合」(コンテクスチュアライズ)した、ということである。そうして改革者たちは、聖書の中にその適合を許容する思想を発見したということである。
その発見は、なるほど16世紀にあっては衝撃的であり、新鮮であった。そのために聖書から離れていた教会が、プロテスタンティズム宗教改革によって、いまや完全に聖書に立ち返ったというような印象を与えてしまった。
ところが、啓蒙時代の「政治的に自律的な人間像」は、旧約の人間観でも、新約の人間観でもない。そこで、この「文化適合」をするためには、文化面では聖書から大幅な切り捨てをし、西欧的な人間像に合致するキリスト教信仰と実践を再構成した。
このように16世紀の宗教改革は、中世の西欧社会から見れば、まさに革命的であった。が、よく見れば、そこには旧新約の社会の価値観の代わりに西欧的な個人主義的な価値観が鎮座ましましているのである。
改革者が我々に教えていることは、その「大胆な文化適合の手法」である。そこに、改革者の事業のもう1つの中心がある。
16世紀の宗教改革は、キリスト教会が「聖書に帰った」事業であったと同時に、教会が「西欧近代社会のための組み替え」を発見したときでもあった。
以上のような、プロテスタント宗教改革の理解によれば、プロテスタント信仰そのままでは、アジア人が信従するには無理があることが分かる。福音は、聖書そのままで変化はないが、実践の場において問題が多々あることになる。
西欧的な人間観や西欧的な社会の価値観が基準とされており、集団の中の個人の在り方、個人が何かを決断しようとするときに周囲をどれだけ意識するのか、などにおいて文化的に違和感が残るのである。だから、結果として忠実なクリスチャンであろうとすると、自分の社会からしばしば浮き上がることになる。それを真理のための戦いであるとして考えるのは勘違いであって、生産的ではない。
福音信仰を西欧の近代社会に適合させたのは、あくまで正しいことだった。プロテスタント宗教改革の意義はそこにある。それがなければ、キリスト教は近代の西欧社会のものとはなれなかったであろう。
しかし、西欧以外の地域に宣教するには、再度その地域のための組み替えをする必要がある。中近東社会に伝えるには、組み替えは不必要なので、聖書のナマの姿に戻せばいいのである。
繰り返すが、西欧的な文化に適合させたものはなるほど大成功を収めたが、決して、そこで独占的な真理性が生じたわけではない。だから、21世紀になってアジア的な文化にキリスト教信仰を適合させようとする努力があるときは、これを温かく見守るべきである。かりそめにも、その過程を妨害したり、嘲笑することは許されないはずである。
ところが現実には、西欧社会に適合させたもの(プロテスタント・キリスト教)のみが真理であるとして押し立て、これこそ普遍的な真理であると主張する傾向が大勢を占めているのが日本の現状である。このように西欧文化の優越性を受け入れ、西欧文化と福音の結び付きを必然とするのは、結局、人間理性を聖書の上に置くことであり、それでは祝福はない。
我々が明治以来受け継いできている日本のプロテスタント・キリスト教は、旧約聖書の中の「中近東的な文化」を邪魔扱いし、いわば切り捨ててきた。つまり、中近東的な習俗は廃棄物扱いされている。中近東的な文化は、産廃ならぬ宗教文化的廃棄物として扱われている。
キリスト教は欧州で受け入れられるために、その衣装を替えた。その時に部族的なもの、旧約聖書的なものを切り落とした。それは宗教改革によって固定化された。こうしてキリスト教は、キリステ教になった!
民主主義は人類の宝、だが・・・
民主主義というものが、たぶん最上の政治形態であることは万人の認めるところである。日本のキリスト教会も、民主主義の普及と個人の尊厳の確立のために大いに努力すべきである。これは「教会の社会に対する奉仕」として貴重な業である。
この点において、キリスト教会は大きな、また独自な貢献を西欧社会に与えてきた。日本社会に対しても、大きな奉仕と貢献をするであろう。それは日本社会から評価され、キリスト教会の存在感とそのインパクトを感じさせることだろう。
日本社会の民主化に対しても、まさにキリスト教会しか提供できないさまざまの貴重な貢献があるだろう。それは疑いもない。しかし、誤解してはならないことが1つある。日本のキリスト教会の第一の目標は福音宣教であって、民主主義の普及ではないということである。
日本社会の民主化と改善は、大切な事業である。しかし、それらは教会の第一の目標ではないし、それらが福音宣教という第一の目標を邪魔してはならない。民主化の努力をいくらやっても、それは福音宣教の代わりにならない。また民主化のための努力は、実は福音宣教を助けるわけでもない。
日本社会の民主化のために努力するのは貴重な奉仕であるが、それは福音宣教ではない。なるほどそれは、社会のための貴重な奉仕だが「福音宣教」ではないし、またその一部分でもない。それは福音宣教のための地ならし(プレ・エバンジェリズム)でもない。
困窮者のための社会奉仕は大切な任務であり、ある教会が、それに重荷を持ち、福音を伝えることより、地域に仕えることを第一にする。それはその教会に与えられた賜物であろう。だが、もし大多数の教会がそれをやり、福音を伝えることがおろそかになっていれば、それは問題である。金の卵を生むガチョウではないが、福音を伝えるのをおろそかにしていると教会が痩せてくる。また新しい人が来ないと、老齢化してしまうではないか。
同様に日本社会の民主化のために、ある1つの教会が重荷を負い、説教でしばしばそれに言及することは、その教会の賜物であろう。しかし、日本人としてのライフスタイルを変えよと説教することは、一般の人を遠ざける危険がある。しかし、特に重荷を持っている教会が、一般の人を遠ざける危険を冒してまでも、そのような説教をすることは貴重な奉仕だろう。
もし大多数の教会がそれをやり、多くの一般の人々を教会から遠ざけていたらどうか。宣教は衰退する一方である。
福音宣教は、社会をあるがままの姿で受容し、その上で宣教するのである。ある社会をまず文化的に改造し、改造がある程度できたら次に福音を伝える、というのではない。福音を伝える前に、まず文化的に改変するようにとは聖書は教えていない。次にもう1つの事例を挙げたい。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇