さて、日本の社会にあっては現在、生涯雇用の慣用が崩れてきている。もしかして、この崩れによって職場の共同体は弱化し、あるいは崩壊していくのであろうか。もし日本社会における「職場の共同体」の基礎が生涯雇用なら、弱体化に向かうだろう。
つまり、まず生涯雇用があり、そのために自分たちが運命共同体であるという自覚が生じ、その自覚が職場の共同体性を形成しているのであろうか。もしこの順序が正しいとすれば、生涯雇用の慣習が崩れれば、自然に「職場」という共同体的エートスは消滅してしまうと考えられる。しかし、もしそうではないとしたらどうか。
もともと日本人とは仕事の場に置かれると、すぐに全体を見渡すクセがある。そうして、まずその全体の中の自分の持ち場を把握しようとする。全体の中の自分の役割を把握したいのである。
日本人は、仕事の場で自分が全体のために有効に任務を果たし、機能するのを好み、そこで喜びを感じる。それが普通である。どうやら後者が、日本人の性質のようである。日本人は自分が所属する集団が向いている方向をまず見極めようとする。その後で、その中の一部分としての自分の位置と機能を確認する。そうしないと落ち着かない。
そうだとすると、職場の共同体の成立が先に来ることになる。まず共同体的なエートスの成立が先にあって、それが基礎となって、生涯雇用も成立したといえる。そのように考えられるだろうか。
生涯雇用の発生
第二次大戦以前には、日本の民間企業では原則として、生涯雇用は存在しなかった。一般はいわゆる日給月給であり、ボーナスも定期昇給も有給休暇もなく、退職後の年金も無縁、長期雇用の保証もなかった。生涯雇用と、それらの諸制度の恩典を受けるのは少数の幹部、つまりサラリーマンだけだった。だから、サラリーマンは役人、職業軍人、教師などと並んで戦前の日本では特権階級だった。
ところが、戦時中に軍需産業は人手不足に悩み、従業員の確保のために生涯雇用を一般の職員にも適用し始め、それが標準となった。このように日本社会の生涯雇用は、まだ半世紀の歴史しか持っていない。それに反して、職場の共同体的なエートスの歴史ははるかに長いのである。
臨時雇用と共同体
一般に自動車メーカーはベルトコンベヤーの上で組み立てを行うが、何らかの不具合いが起こって、そのままでは欠陥車生産につながるという場合にはもちろん、ベルトを停止させる。日本の自動車メーカでは、ベルトを停止させるスイッチのヒモが、すべての工員のそばにあり、不具合を発見した者は誰でもそれを引いてラインを停止できるようになっている。
ラインの組み立て工は、日本でも伝統的に多くが季節工であり、生涯雇用の恩典には関係のない人たちである。もともと自動車組み立てラインは生産の増減が甚だしく、そのために季節工などの臨時雇用に頼るところが大きい。そこでもし職場の共同体的性格が生涯雇用から出てくるのなら、自動車の組み立て現場は、日本社会の中でも共同体的なエートスを最も期待できないところのはずである。
こうして季節工に頼る組み立てラインであるが、誰かが悪戯(いたずら)をしてヒモを引き、生産が停止し、会社に損害を与えた、などというのは聞いたことがない。このように工員のすべてにラインを止める権限を与えているのは何十年来の慣習で、この慣習はずっと続くだろう。
日本においては、生涯雇用のあるなしにかかわらず、まず職場の共同体が成立しており、価値観の共有が先行していることの1つの証拠であるといえよう。アセンブリーラインの臨時工に至るまで、自分たちの協力により、会社が良い製品を造るのだという認識が存在していることが分かる。日本人は臨時工であっても、その職場が目標としているものを把握し、それに協力しようとする気風があり、それに従って行動するのが当たり前なのである。
日本以外の会社では、これは考えられないので、米国においてはベルトコンベヤーの停止は、工場長を含めたごく少人数にだけ与えられた権限である。もし仮に、ラインで働く全員にその権限を渡せばどういうことになるか。面白がってあちこちでヒモを引き、たちまち大混乱に陥り、何日たっても生産は再開しないことだろう。新設の工場でそんなことをすれば、永久に生産は始まらないと思われる。
組み立てラインからの提案
九州松下電器はある時、マレーシアにファクス生産工場を移転した。人件費が日本の約10パーセントで済むからである。ところが、マレーシアヘの移転以後、パナソニック・ファクスのシェアが落ち始めたという。
ファクスは、初期には3カ月に1度は新製品を出さぬとたちまち競争に負けてシェアが落ちるという商品であった。ところがマレーシアに移ってからは、改良と新機種の発表のペースが落ちたという。その原因は、国内の研究所との距離が遠くなったからではなかった。松下が発見したのは、マレーシアに移してからは組み立てラインからの提案がなくなったということだった。
日本では、現場の組み立て工からの提案が普通にあり、それが取り上げられて新製品へと結び付いていく。ところがマレーシアでは、組み立て工は組み立てのために雇われているのであり、提案をするために雇われているのではない。良い提案ができるようにファクスの構造について学習するのは、日本では当然のことであるが、マレーシアでは、それは組み立て工の仕事ではないのである。そうこうしているうちに、松下のファクスのシェアが落ちてしまい、やがて工場はマレーシアを引き揚げ、人件費の高い九州に帰って来た。
もともとファクスは検査ラインが長く、初期の頃は70人以上が流れ作業で検査に当たった。ずらっと70人が並び、完成したファクスがそこを通り、字が逆になっていないか、陰画になっていないか、歪みがないかなどが検査される。多人数による検査が、原価の大きな部分を占めていた。
ところが、のちには検査者は3人ほどに減り、検査項目の減少が価格の低減につながっている。しかも、それがすべて現場からの提案による改善の結果だという。このように現場の工員も、会社を自分のものと考える。製造方法の改善について発言する、これは日本では珍しくない。ただ時間だけの仕事をすればよい、とは誰も考えないのである。
工員は「職場の共同体」に属しており、だから共同体の一員として製品の改良に努めるのは喜びなのである。日本人にとっては、家族の共同体への帰属とともに職場の共同体への帰属は、このように自然なことである。そのため、職場の共同体での自分の評価が重要であり、それは日本の文化の重要な部分を占めている。「職場における人間関係」ということは重要視されるが、これは「仕事の共同体における価値観の共有に努力しているかどうか」を表現している言葉である。
結婚式においては、職場の上司が招待される。披露宴で、筆頭にあいさつをするのは新郎の上司である。通常は、彼が披露宴の正客であり、職場が新家庭の出発を祝福するのは極めて重要なのである。新婦の上司も招待され、その次にあいさつをする。
このようにして、日本人は残業をいとわず、仕事のあとで飲みに行くのは職場の同僚とであり、飲む時の話題は仕事のことという会社人間が出来上がる。西欧のジャーナリズムから見れば、これは奴隷労働に見える。
このような日本の労働者の姿を見て、日本の会社は強圧的な経営者が、鉄拳をもって支配しているのだろうと考える。または、労働者が何かの隠微な心理操作の対象となっているのでないかと考える。それによって労働者個人のものであるはずのプライベートな時間まで、会社のためにささげさせられているに違いない、などと考える。
ところが、これは日本人にとっては自然なことなのである。それは、各人が「職場の共同体」に所属しているからなのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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