日本人は、一般に社交が下手だとされる。業界などのパーティーでも、名刺の交換が終わると、知り合いだけで固まってしまう、などと言われる。初めての人と楽しく会話をすることなど、日本人は不得手である。
日本人は社交集団において、機知に富んだ会話をするのは得意ではない。彼はそこでは落ち着かないのである。もちろん、日本人の男女が楽しくおしゃべりする機会がないわけではない。しかし、日本人がユーモアを発し、盛り上がる機会というのは、骨休みであり、お茶の時間であり、仕事のあとの飲み会である。すなわち、それはあくまで業務集団の周辺の出来事である。
日本人にとっては、自分の職場とは無関係の人の集まりである社交集団は、多分に意識の外にあると言ってよいだろう。そのような社交集団の中で、他人と巧みに会話して、話題が豊富であるということは、その人間の価値とは関係がない、とされる。けだし「巧言令色鮮(すくな)し仁」というわけである。
これは、人間の価値は仕事の上の誠実さにあり、それが言葉でなく仕事に現れる、という思想である。すなわち、言葉は偽ることができるが、行動と業績は偽らないということである。これは、日本が地震国であるということが大きいかもしれない。
つまり、地震が来れば、建築物の設計と施工の良否はたちまち暴露されるので、大地震が来れば、軽くて強靭(きょうじん)な木材を正しく刻んで、巧妙に組み立ててあるかどうかが瞬時に分かる。だから、日本人の伝統的な態度は良い物を作る、という点に集中している。売り込みの上手・下手は、あまり評価されないできた。
このように、業務集団にあっては、人間の価値や魅力はその人の仕事ぶりや業績にあるとされている。日本人は仕事の集団から離れられないのであり、彼の生きる場所は、実にそこにある。
自宅に人を招くということは、一般には都会では住宅事情もあって日本人はあまりやらないが、そういう機会としては、まず冠婚葬祭がそのほとんどであろう。すなわち、家族の通過儀礼の機会である。だから、親戚関係と職場関係である。
また、日本人の男性にとって、普通、社交とは職場の仲間との飲み会であろう。もし家に招くことがあれば、やはり職場の同僚であろう。それが、日本人の社交である。こうして職場と家族という2つの共同体が、日本の社会生活に色濃く影を投げ掛けていることが分かる。
日本人は、これら2つの共同体に支配されており、その影響は社会の生活の隅々までに及ぶ。社交も職場の共同体に付属しており、これら2つの共同体は、その他の共同体、または人間の集団の存在を許さない。教会のような礼拝者共同体の存在のようなものは、これを閉め出してしまう強力なエネルギーを持っているように思われる。井戸垣に限らず、日本のこのような強力な共同体の存在は、教会形成に当たっての敵である、と考えるのはごく自然なことであろう。
留学中のある日曜日であるが、説教を頼まれ、その教会まで片道100キロほどニュージャージーの田舎道を走っていたとき、ふとすれ違った車には農夫の一家が乗り、小学生の男の子も赤い蝶ネクタイをして、また聖書を脇に抱える年長の子もいて、見るからに礼拝に行く姿であった。
この国では、礼拝に行くということが普通一般の人にとっても、こんなに自然なのだ、と祖国を遠く離れて非常にうらやましく思ったことであった。それに引き換え、日本では、人が礼拝に行くに際して差し障りが何と多いことかと思い、これには解決を主より頂かねばならないと心から思ったのであった。
共同体と聖域
これら2つの共同体には、それぞれ聖域がある。これは相互に不可侵である。職場はその勤務時間中は、家族の共同体から見て聖域である。私的なことで、家から電話することは遠慮すべきこととされる。携帯電話の普及で少し形は変わってきているが、やはり職場の聖域性は認識されている。携帯には電話するが、普通の電話は使わないというだけでも。
しかし、家族の中の死、事故、急病で倒れたなどの事件は、家族の共同体の聖域である。であるから、職場に家族から電話があるということは、何か家庭に不幸があったと理解される。家族の葬儀は、職場から見て聖域である。職場を休み葬儀に参列することを、職場は拒否できない。その共同体の尊厳でもある。これは、その共同体にとって絶対的なものであって、少なくとも建前上は、他の共同体の忖度(そんたく)や容喙(ようかい)を許さぬものである。
習い事の半共同体(師弟関係)
日本社会の中には「働くための小宇宙」(職場)と「暮らすための小宇宙」(家族)の2つの共同体があることは、これまでに述べた通りである。では、これ以外に共同体は存在しないのだろうか。
日本社会の中で、これら以外の共同体を探してみると、もう1つ、第3とも言うべきいわば「半共同体」が存在していることが分かる。それは「習い事の共同体」である。これらの半共同体は、美的意識を中心として形成されている。
この第3のものは十分な形ではなく、いわば「半共同体」であり、自分自身の聖域を持たない。その構造は放射線型である。つまり師匠を中心として、成員の一人一人が師匠に結び付いており、成員相互の結び付き、協力関係、組織化は存在しないか、あっても副次的であり、本質ではない。
だから、成員が抜ければ、それは師匠にとっては弟子が1人減ったということであるが、他の成員にとっては、必ずしも損失ではない。人数が減るのはちと寂しいかもしれぬが、それは本質的なものではない。家族と職場の2つの共同体では、その成員の増減は「他人ごと」ではない。増えれば喜びがあり、減れば痛みがある。共同体として、それらの痛みを表現する機会がある。そこが、この半共同体との違いである。
ほとんどすべての日本人は、第1と第2の共同体に属しているが、この第3の共同体に所属しない人は多くある。習い事の共同体は、師匠を中心としてお茶やお花などを学ぶ集団であり、美意識とそれにまつわる価値観を柱として形成されている。
茶道では、伝統的にはメモを取ることもビデオを撮ることも許されなかった。また、そういう出版物を見ながら独習するということも行われていなかった。美に対する感覚の訓練は自習では不可能であり、自分では自分以上に向上することはできない、と考えられているからである。師匠を中心とする集団で、初めて美に対する感覚が磨かれていくのである。
お茶を入れる、花を活(い)ける、などの基礎にあるものは美意識の研磨である。美意識の向上や洗練がなくては、いくら型通りにお茶を入れたとしても付け焼き刃にすぎない。そのような美意識の移転は、師匠を中心とする集団の中でのみ行われると考えられている。
「優雅さ」を身に付けるには、マニュアルやビデオや教科書は役に立たない。フリだけ覚えても、余計にダサいのである。すぐれた師匠の身のこなしの優雅さを見て、その美しさを感じたとき、そこに優雅さの受け渡しがあると考えられる。
こうして茶道であれば、師匠や先輩の所作を観察し、自分もそれを反復するという形において、美的感覚は移転すると考えられる。そのような集団は、不完全ながらも共同体的な性格を持っていると言える。
この半共同体については、次回以降において、さらに詳しく扱う。また、これら3つの共同体の相互の関係、それが日本の教会形成に及ぼす影響などについても後ほど論じたい。
教会も1つの共同体
キリスト教会は超自然的な存在であり、福音信仰に基礎を置く団体である。しかし、社会の中に存在し、社会の影響を受け、また他の共同体から影響を受ける。キリスト教会は、礼拝者共同体である。それは特有の倫理と価値観を持ち、毎週の礼拝説教において、それが説かれる。
教会の責任者である牧師は、信仰者が「成長する」ことを期待し努力する。その「成長」とは、信徒が教会の信仰に基づく価値観をより深く受け入れながら、人格的な成長を遂げることである。
教会は特有の価値観とその体系を有しており、そのため社会に対して異議を申し立てたり、何らかの働き掛けをする。それは証しであり、奉仕活動であり、または社会に対する抗議であったりする。そのような対外的な活動への積極性も、「成長」の指標として見られる。
教会は礼拝者共同体であって、それ自体のエートスを持ち、またエートスの背後には価値観がある。それらの価値観は毎週の会合において、または行事のあるごとに強調される。
信者の個人生活の中での病気、事故、失敗などの危機体験は、その信仰の共同体の価値観をより深く学ぶ機会であるとされ、個人的指導、カウンセリングなどによって、より深い信仰の価値観の把握へと導かれる。危機体験は、それが個人的なものでも、または教会全体に対するものであっても、信仰者はそれを機会として教会の信仰的価値観に従って周りの世界を見直し、自分の人生を見、それに従って行動するように指導される。
こうして、教会において自分たちの信仰に対する知的認識や分析があり、その学習の機会がある。それにより信徒は信仰的な価値観を身に付ける。また、信仰の価値観に合致する形での、行動の規範が示される。これらは「説教」や「勧め」「証し」の形で集会で宣言される。
教会において「教理」や「信条」とされるものが、実践において決断の基準となるものとはかけ離れていて、偽善的となっていることはあり得る。真理に従ってやっているつもりが、実は嫉妬から出ていたりすることもある。パウロも述べている通りである。
しかし、前述の2つの共同体と比較した場合、教会とは、主イエスを中心とする信仰の価値観に基づいて立てられており、成員は、その価値観を受け入れて加入する。その点で、他の2つの共同体とは違う。教会は信仰の価値観の把握が中心である。
キリスト教会とは、その価値観がイデオロギーではなく、経験から出た処世術、道徳訓などでなく、神に対する信仰に基礎を置くものである。ここでは、教会をそのように考える。
教会は、礼拝を通して信仰の立場から自分たちの住む社会の再把握と再分析を継続的に行うのである。それらを通して、永続的な意味で社会にインパクトを与える。
それは、単に宗祖の個人的な影響力だけでは不可能なことである。仏教の諸宗派が、それぞれ偉大な先駆者を持ちながら現在の社会において存在感が少ないのは、このような自分の価値観の把握と分析の継続がない、社会の再分析と再把握を行っていないからかもしれない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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