B. 第二型・御利益
新興宗教の大部分は、これに入る。このタイプの宗教は個人のニーズに応えようとするものである。冠婚葬祭型宗教は、共同体のニーズに応えるが、個人の問題には応えない。葬儀に当たって仏僧は、葬送儀礼を滞りなく行うが、遺族の悲しみに対しては立ち入ることをしない。神官も型通りに、むしろ無表情に式典を執行するだけで、個人の願いや不安には関わらない。そこで第二型の宗教群は奇跡的な癒やし、手っ取り早いもうけ話、成功などを約束し、提供する。
これは主として、新興宗教の守備範囲である。新興宗教は、世界観や通過儀礼についてはこれを既成宗教に頼り、もっぱら現世の利益に特化する。
もともとこの役目は、寺院に付属した神道が行っていた。ところが神社神道の成立に当たり、政府は迷信、護符、ご祈祷などを禁じたので庶民の行き場がなくなり、新興宗教が現れた。もっとも戦前は神道系の新興宗教は弾圧されたのは、すでに述べた。戦後になって新興宗教は、爆発的に発展を遂げたが、そのような理由による。
もちろん既成の寺院でも、この機能を持っているものがある。成田山、また天神社のうちのあるもの、観音霊場などがその例である。既存の社寺で、このような第二型の機能も持っている例があり、観音霊場も33カ所の中で特に人気の高いものがある。
また在来の仏教寺院の中で、インド系の土俗神を祭る鬼子母神、摩利支天、帝釈天、稲荷、聖天、歓喜仏、毘沙門天、弁天等々は、この現世御利益を担当し、参詣者を集めていることも前に述べた。
一般に新興宗教は「冠婚・葬祭」については、自分たちはこれを執り行わないのを原則とし、ここにもすみ分けが行われている。
この第二型の宗教は仏教系が多く、小谷喜美の霊友会の影響が強い。小谷は、先祖の霊が迷っているから本人に不幸がある。供養して祖先が成仏すれば、自分も幸福になり、病気も治ると教えた。この新しい形の「先祖供養」は、ほとんどすべての新興宗教の基本となった。(森岡清美著『家の変貌と先祖の祭』日本基督教団出版局)(後藤牧人著「福音的祖先祭儀の可能性」羊群所載)
この第二型の宗教も、礼拝者共同体を形成しない。御利益型宗教の特徴として、そこに集まる者の価値観はバラバラのままである。それらを統一するための思想的基盤は存在せず、また価値観の統一に向けての努力もない。
例外としては、立正佼成会がある。この宗教は、出発時においては御利益宗教の側面が強く出ていたが、やがて修養団体として法華経の精神に従って修養を行う、という面が強調されるようになっている。社会的な発言、奉仕活動なども活発に行われている。
このようなわずかの例外を除いて、一般には、この型の宗教には倫理基準は存在せず、従って社会に対する発言などもないのが特徴である。集まる側も「霊験あらたか」を求めて来るだけであって、それが満たされると目的は達せられたとする。信者は移り気であって、すぐ他の宗教に移る。一般に生涯をかけての忠誠など見られないと言ってよい。
C. 第三型・求道
これは真理探求型の宗教であり、ある特定の世界観や形而上学を持っており、実在の総体についての組織的な、または直覚的な解答を与えようとするものである。日本の固有の宗教で、これに相当するものといえば禅宗であろう。それ以外にはない。禅寺の中には、奈良時代よりの伝統に従って檀家を持たず、葬式や死後儀礼を行わないものもある。
では、禅が現代の日本社会に対して提供しようとするものは何か。それは参禅者に、永遠の相の元において自己を凝視する機会を提供する。そうして、そこに「無」または「徹底的な孤独」を見させるということでないか。禅が提供する最大のものは、「孤独」であると思われる。このように孤独を見せるという意味では、禅は日本文化の中心にあり、その最も基底的なものの一つであるともいえよう。参禅者は交わりを得るためでなく、孤独を経験するために集まる。
禅について語るなど、筆者に資格などないのであるが、なおキリスト教宣教学の立場から見て、上述のような観察をすることができると思う。禅においては「不立文字」といって、経典の文字の教え以外に真理があり、それが禅家には伝わっている、という。仏教の伝統的な教義に縛られない。一人の人間が行う自己の観察にも、価値を見いだそうとする。
これは、鎌倉仏教にも見られることであるが、仏典を絶対視しない、また仏教の伝統を絶対視しない、自分の目で人間存在に対する洞察を持ち、それを第一とする。これは日本の思想の特徴かもしれない。偉大な思想があっても平伏しない、思想の組織の巨大さの前にひれ伏さない。いわば傲岸(ごうがん)に、その前に一人で立ちはだかる。そういう特徴が、日本の精神にはある。それだけに、伝統的なキリスト教が持っている虚構、偽善性なども、その気になれば嗅ぎ取るのが素早いかもしれない。
禅は日本人に対して孤独を提供し、日本人にとって納得のいく「解決」を提供する。
第三型宗教には、必然的に「出家」的な傾向が見られる。第一、第二型は俗世間の生活を肯定し、その中における繁栄の手段を提供し、俗世間の生活に対してあえて疑義を提出しようとはしない。
しかし、禅においては仏教の伝統に従い、俗界を「浮き世」と見て、参禅者には、これらからの精神的な脱却を勧める。つまり実際に家庭や職業を捨てないまでも、我執を捨てること、無欲で生きることなどを教え、精神的な出家を勧める。座禅とは、そのような「時間限定の出家」である。禅宗以外の教派でも、一応「浮き世からの脱却」の教義を掲げてはいるが、せいぜい看板にすぎないので、現代ではこれを実践する僧侶も、これを真剣に教える寺院も不在と言ってよい。
また日本の宗教中の唯一の第三型の宗教である禅宗には、社会を否定する虚無的な傾向がある。そうして虚無の立場を通して見るなら、すべての悩みも解決があるとする。いわば死の静寂の世界こそ真の世界であり、この世は仮の世界にすぎないとする。このような否定的、虚無的な人生観では人の心をつかむことは難しく、禅は戦国時代を除いて大きく行われることはなかった。
禅は、現在の日本ではごく一握りの知的エリートのためのものである。首都圏の約3千万の人口のうちで、一般の人々のために参禅の機会を提供している寺院は数十カ所もあるだろうか。そうして参禅者の数は年に1度という程度の人を入れたとしても恐らく2、3千人くらいか、多くても1万人はいないのではないか。クリスチャン人口よりは、ずっと少ないだろう。
第三型の宗教は日本では小数派である。第三型の宗教も礼拝者の共同体を形成しようとはしない。なるほど第一型も第二型においても、寺院や宗団の中心に僧侶たちが形成する共同体はあるが、これは一種の職場の共同体であって、一般の信徒を組織して成立する礼拝者共同体ではない。
第三型の宗教は、日本人が精神的に必要としている「微量の孤独」を与えるものである。それは、必然的に礼拝者共同体を作ろうとはしない。むしろ、反対の方向を取る。
結論的に言えば第一、第二、第三の3つの型は、すべて信徒を共同体に組織しない。すなわち現在の日本の諸宗教には、一般に信徒の共同体である「教会」を組織する方向性や力学は存在しない。
言い替えれば、現在の日本の宗教には、信徒の集団である「教会」を生み出すような契機は存在しない。また社会の側にも、そのような集団を期待してはいないし、一般人にそのようなものを要求する飢渇感のようなものもない。
つまり日本の宗教には、「教会」に相当する礼拝者の共同体は存在しない。だからキリスト教が信者の集まりを形成しようとしたとき、モデルにするものは宗教界には存在しないのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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