綜合型宗教
日本の宗教のうち、既成宗教と呼ばれるものは、すべてが第一型の要素を持っている。それに加えてある寺社は、特に個人的な願いをかなえる力があるとされている。すなわち、第二型の要素を併せ持ち、「家内安全、商売繁盛、無病息災」などの願いに応える力があるとされる。
キリスト教は、第一から第三に至るすべての機能を有している唯一の宗教である。冠婚葬祭のための諸儀式がそろっており、クリスチャンは教会でそれらに参加する。なお、他宗教による社会儀礼は、クリスチャンには無効であると考えられている。すなわちキリスト教は、第一型の要素において排他的である。
また、個人的なニーズに応えることも重要な役目であり、個人の心の平安が信仰の果実の重要な要素として認識され、礼拝時における説教も、そのような「個人的信仰」の勧めに重点を置いている。
さらに、癒やしと奇跡については、ある教派、ある修道会、またはある単独の教会の単位で強調されている。前面に押し立てていなくても、ほとんどの教派が、現代においても癒やしや奇跡があると信じている。癒やしや奇跡を否定する者は、少数である。イエス自身が、その宣教においてはまず癒やしを行われた。第二型においても、キリスト教は排他的である。
もちろん第三型の世界観、キリスト教的世界理解や宇宙観などについては、2千年間の積み重ねがある。また現代の社会に対し、その生命観について、平和の問題、現代社会が抱える諸問題に対する発言、奉仕なども活発である。もちろん、この第三型の世界観においても排他的である。
1つの宗教が第一から第三の3つの型を、それ自身でそろえて持っているのを、ここで仮に「綜合型宗教」と呼ぶことにする。宗教は自然な発達を遂げれば、綜合型宗教としての道をたどるはずである。東南アジアの仏教は、綜合型宗教である。先に述べたように、結婚式もその他の祝福も行う。
御利益信仰も盛んであるが、同時に仏教的な世界観を積極的に教え、タイやビルマでは、男子は一時期必ず剃髪(ていはつ)し入門する。その間は企業も休暇を出し、クビにできない。綜合型宗教は、政治に対してイデオロギーを提供し、政治を左右しようとする意欲が常に認められる。
日本においては、信長による比叡山の焼き打ち、また石山本願寺の解体以後、政治のイデオロギーは無神論であり、宗教は政治の便利な道具として、その時々に、あるいは利用され、あるいは捨てられてきたことは前に述べた通りである。その過程において、このような3つの要素の明白な分離ができたと思われる。
これは、日本の独特な宗教事情であると思われる。
創価学会
キリスト教のほかにも、総合宗教たることを目指したと思われるものに創価学会がある。戦後の発足当時は、学会独自の輪廻(りんね)的な世界観と政治哲学(第三型)とをもって、奇跡と御利益(第二型)を先頭に立てて布教に努めた。創価学会は、信徒運動であるが、日蓮正宗の寺院側も含んだ運動であって、第一型の要素も持った。
しかしいま創価学会は、その方向を変えたようである。現在、同会は寺門側との関わりが断たれているが、「友人葬」という形で死者儀礼を行っている。これは新興宗教としては、異例である。前に述べたように、新興宗教は冠婚葬祭を既成宗派の領域であるとし、それを侵そうとしないのが普通である。
創価学会は、戦後の一時期には大変な勢いで輪廻信仰を押し立てたが、現在ではその路線から後退している。これは先祖供養との関連であろう。輪廻を突き詰めれば、先祖供養は消滅するからである。こうして創価学会は、第三型の要素を捨てて、第二型に収斂(しゅうれん)しているようである。
(注:厳密な輪廻観によれば、人は死んだら直ちに他のものに生まれ変わっているのであり、その時何になっているか、ゴキブリに成り下がっているのか、またはめでたく王族になっているのか、などは専ら当人の生前の心掛けと修養によるのであって、他人があとで助けるわけにはいかぬのである。
従って先祖の供養ということはない。だいたい先祖はもう他のものに変化しており、先祖としては存在していないのである。だから、輪廻を徹底して信じているヒンズー教においては、火葬ののち散骨して大地に返し、墓というものはない。墓は、輪廻のイデオロギーとは矛盾する。ただし、記念の意味の石碑のようなものは、インドにもあるようである。
タイ仏教では、死後しばらく、半年とか棺を自宅か寺院に安置する。そうして経を読み、回向する。これは輪廻の遅延を図っているらしいのである(森本憲夫宣教師の話による)。なお、バリのヒンズー教でも火葬をずっと後で行う例が報告されている。)
昭和30年代の聖教新聞には、信徒の体験談として「お題目を唱えて布教に励み、来世は玉の輿に・・・」「来世は社長に・・・」などの記事が満載されていた。
今日の聖教新聞には、そのような輪廻説による未来志向はまったく影をひそめている。輪廻的な世界観は捨てたらしい。現今の記事は、「勤行により過去の悪因縁を断ち切り、生命力を頂き、それにより病気が癒やされた・・・倒産の危機を免れた・・・主人の浮気がなおった・・・」などの体験談に入れ代わっている。
創価学会は、こうして第三型の宗教であることを放棄し、世界観としての輪廻を教えなくなった。輪廻は個人的なこととして、「お勤めにより、過去の悪因縁を絶つ」という、御利益のための基本的な教理として使われているにすぎない。つまり、輪廻の教理は第三型の主柱を構成せず、辛うじて第二型の祝福のための理論を提供しているにすぎない。
それと同時に、日蓮が理想としていた「国立戒壇、王仏冥合」などの主張も消え、「友人葬」という不完全な第一型は持ってはいるが、結婚式は聞いたことがなく、目下のところは専ら第二型の「御利益宗教」として存在を続けているように見える。輪廻信仰を推し進めれば、先祖供養はなくなる。そうなると「イエ」の共同体を大切にする日本の社会で、新興宗教としてやっていくのは困難だろう。
先に述べたように、親鸞も個人の信心の重要さを強調して、一人一人が自分の往生に専念すべきで、他人はこれに何の助けもできないとし、自分は親のためには線香1本上げることもしないと教えた。しかし、浄土真宗は親鸞の死後、すぐ先祖供養の宗教に戻った。蓮如による改革においても、やはり先祖供養の否定があったが、蓮如の死後は、また先祖供養の宗教に戻ってしまったことは先に述べた通りである。
なお、日本社会の宗教を3つの類型に分けるのは、小生の発案である。宣教学的に言って、この分類は日本の宗教事情の整理に便利のように思う。このような分類は他に見たことはないのだが、このような分類がすでにあり、小生が知らないだけかもしれない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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