蓮如は、各地に道場を作らせた。これは有力者の自宅のこともあり、または10〜12坪の独立した簡単な建物を作ることもあった。信徒はここにしばしば集まって、信心について話し合うように命じた。僧の存在なしに信徒が集まって、自分たちの信仰体験を話し合い、蓮如の手紙を読み、学ぶのであった。蓮如はこれら道場のために、平易なカナ書きの手紙を多く書いた。道場が一番盛んであったのは加賀であった。
蓮如の「道場」は日本の宗教の歴史の中で唯一ともいえる教会的な形態でないかと思われる。筆者はこの道場について、特に組織的な読書をしていないが、現在の印象では、蓮如の道場を扱った研究書はあまりないような気がしている。もちろん、キリスト教側からの研究はないようである。
明治以後に、蓮如の道場は住職を持つ普通の寺院となってしまったものが多い。また道場としては、寂れて無くなったものも多いようである。現在まで道場として残っているものが石川県に2カ所あり、2002年の夏に調査のため、この片野道場と下谷蓮如堂の2つを訪れた。
加賀市片野町の道場は、公民館の2階の仏間であり、30畳くらいの板間で、正面4間が仏壇となっている。ここはカギを預かっている老人が村にいて(1年交代の当番のようであった)、毎朝仏壇を開けてお勤めをしているが、それだけで、お祭りや寄り合いは全然行われてないということであった(そのように公民館の主事から聞いた)。当番の人のお宅に電話をしたが、外出のようで会えなかった。
公民館の場所を教えてくれた中年の男性は「そちらに行くと女の人たちが集まっていますよ」と言ってくれたが、それは違っていた。最近までは、そういう念仏講のような定期的な寄り集まりがあったので、そういう記憶が村の男の人の間には残存しているのだろうと思った。
もう一つ金沢市のはずれ、山中町下谷の蓮如堂は白山神社という小さな社の境内にあり、下谷町会館となっていた。当番の人が来てくれて話を聞いた。
20畳敷くらいの座敷で正面に1間の仏壇があり、開けてもらうと掛け軸が3本、中央が釈迦の絵像、左右が名号であった。横に家庭用くらいの仏壇があり、これには蓮如の絵像があった。いずれも前に香の壇があり、かなり質素なものであった。
数年前までは、この道場の周囲の24軒ほどが交代で当番をし、毎日壇を開け、花を供えお勤めをし、夕方に閉めていた。ところが老人が滅っていき、次の世代は受け継いでくれず(若い者は会社勤めで、時間がない)、今は年に一度の蓮如忌に集まるだけになっているとのことだった。
当番の当面の責任は訪ねてくる人があればカギを開けて説明をすることである。京都から年に一度観光バスで来る団体があるが、あとは訪れる人は年に1人あるかないかである、とのことであった。
雨の中をバイクでずぶ濡れで行ったのであるが、やがて集落の人々が集まってきて小生と多摩ナンバーのバイクとをしっかり観察されてしまった。遠くから来てくれたというので、うれしそうでもあった。
(北陸9日間の2千キロの旅は、毎日雨だった。長期のツーリングには、事前にじっくり天気図を見るのが習慣であるが、北陸の旅にはそれは不要だった。すべてが水浸しで、ラジオも地図もノートもダメになった。ダメにならなかったのは首から下げていった水中用カメラであった。これは雨が降っていても首から下げたままで走れ、路傍の寺院なども立ち止まってすぐ写せる。)
このように集落の人に会え、話を聞けたが、寺院側からの支配がゆるやかで、自発的な念仏信仰が民間で生きて、その講を中心にして共同体が維持されてきた。そういうことを感じた。この最後の蓮如堂も、それを支えてきた共同体もあと10年とは持たないだろうと思いながら辞した。
蓮如道場の意味するもの
戦国時代の末期には蓮如の指導により、加賀の一向一揆と称される約100年間にわたる独立国としての営みがあった。これは「百姓のもちたるが如き国」と呼ばれたが、「侍が威張っていたのを斥け、自分たちの国となったはずが、本願寺の坊主たちに威張られる。こんなはずではなかった」という嘆きもあったようである。
一揆の歴史をたどると、本願寺派はまったく戦争好きである。読んでいるうちにいやになる。しかし、これは戦国時代のことである。生き抜くためには、やむを得なかった営みだったのだろう。
この「道場」は蓮如が意識してレイマン・ムーヴメントを行ったのであると思われる。これら道場で使用されるテキストは、経文ではない。あくまで蓮如の「御文(おふみ)」であった。「御文」とは蓮如が農民に与えた、多数の平易な手紙である。内容は、まさに日本人の宗教的な発想で、それを日本語で分かりやすく伝えようとした。
加賀の一向一揆にあっては、「道場」が大きな役割を持ったと思われる。これによって曲がりなりにも、約100年間の自治が可能だったようである。
今後の研究を進めていきたいと願っているが、日本社会における教会建設の分析をしようとする者にとって、見過ごしにできない歴史の一こまのように思っている。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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