日蓮
日蓮は、親鸞とほとんど同時代であった。日蓮の教説は、念仏宗に対する異議申し立ての要素が強いように思われる。彼は法華経の復権をはかり、仏教の正統を守ろうとしたようである。
彼の頃までに200年ほど続いていた念仏信仰は、日蓮にとっては邪道であった。日蓮は仏教信仰の周辺に過ぎない極楽世界信仰を拒絶した。だいたい念仏信者でも、悲惨な死に方をする者がいる。またいくら念仏をしても、臨終に天からの香の匂いなどないし、極楽から花が降ってきたこともないではないか、と日蓮は言っている。
日蓮が嫌ったものは、念仏信仰に伴う無倫理的な傾向だったようである。「本願誇り」といって、その無倫理性を誇示するような言動が当時あったようである。
日蓮は、法華経を信仰の中心に据えた。今の世界は釈迦の化土である娑婆世界であるが、法華経の精神を実践し、皆が菩薩になる修行をすることによって、娑婆世界はやがて変化して寂光土となると教え、念仏宗の逃避主義的な傾向を嫌った。
浄土教のスローガンである「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」(汚れた世界をいとい、極楽を求める)というのは、日蓮の忌むところであった。日蓮は、自分の強烈な個性をもって、社会に正義が行われ、政治が正され、仏法の行われることを求めた。社会正義の希求というテーマは、いまだに日蓮系の信仰の中に特色として残っている。
日蓮は法華教の中にある苦行は、これを退けた。そうして法華経信仰の実践は、唱題にあるとした。つまり「南無・妙法・蓮華経」(蓮華経の教え<妙法>を賛美せよ)と唱えることこそが、最善の「行」であるとしたが、ここに日蓮的な「易行」が成立した。彼は仏教の正統を継ごうとはしたが、難行苦行には帰らなかったのである。また、経文でなくて、彼が書いた多量の手紙がテキストとなっている。
法華経(妙法蓮華経の略称)には終末的歴史観があり、世界観としては念仏信仰よりはるかに本格的であり整備されている。日蓮の日本的仏教も苦行を避け、またヒンズー教的な色彩を捨てた。それは女人救済、信じる者の平等を主張する仏教であった。こうして念仏系と日蓮系とが、それ以後の日本仏教の主流を形成している。
法華経自体は、インドの本流ではないようである。長者とその息子のたとえがあって、これはカーストの強い文化圏で発生した説話であるとは考えがたい、というのが定説のようである(法華経は岩波文庫で3冊、現代文に訳されている)。
法華経は面白い。テレビゲーム感覚と言ったら叱られるかもしれぬが、世界を微細なところまで段階的に観察し、裏技のような脇道がたくさんあり、その様子が描写してある。悩んでいる人など、自分の悩みはどのあたりに相当するのだろう、と探しているうちに、悩みの方は忘れてしまうようなところがある。うまくできている。
日蓮の歴史的認識によると、世界は今や末法の世(終末期)にあるとし、自分は実は末世に派遣された上行菩薩であると認識していたようである。こうして日蓮の神格化が起こり、「祖師」が礼拝の対象となっている。
鎌倉仏教
日蓮も念仏宗も、その出発に当たっては為政者に対して対決姿勢を取り、そのために激しい迫害を受けた。念仏信仰も法華信仰も、大胆に経典を捨象し、それまでの仏教とはまったく違う思想体系を生み出した。男女の救いには差がないとし、社会の階級を打破し、俗世間の生活を肯定した。輪廻を捨て、人間存在の一回性を説いた。
また終末的な歴史観を発展させ、有神論的な性格を帯びるようになった。労働を貴び、商業活動を肯定する日本の伝統はここより来たと思われる。これは他のアジアの仏教国には見られない現象である。
また「教え」の前には権力者もこれに平伏すべきであるとし、日本的な平等の概念を打ち立てた。家康は念仏宗を非常に恐れ、警戒した。家康の家来たちには「仏法」に対する服従こそが重要であって、領主に対する服従はその次に来るとした者が多かったのである。
家康は本願寺の内部抗争を利用し、不満分子に広大な寺域を与え、東本願寺(大谷派)を創設させた。こうして西と東の対立を利用してその勢力の弱化を巧妙にはかった。日蓮宗は「不受不施」と言って、法華信仰に立たない政府からは「何も受けない、祝福は与えない」と言って、絶縁的な態度を取り、弾圧され、徳川時代にはキリスト教と並んで禁教となった。
仏教は、もともとヒンズー教の輪廻の思想の影響から脱していない。現在東南アジアで行われている仏教はそうである。その他に大乗といわれる仏教が、インド以外で発達した。その中心には法華経があり、これが主として日本に伝えられた。法華経の中の「長者と息子の話」は法華経がカースト文化圏外で発生した経典であることを示していることは先に述べた。カーストと輪廻は、切っても切れぬ関係がある。カーストの不在は法華経の思想の根底に有神論的な傾向が、わずかではあるが存在していることを示している。
一方、ヒンズー教には周辺的なものとして持っていた土俗信仰の影響による呪術があった。それを中心とする密教といわれる要素があり、これが空海によって日本にもたらされた。これに対して在来の仏教は、顕教と呼ばれた。この2つの流れは、それぞれが政治と社会に対して影響力を及ぼし、学者たちによって顕・密体制などと呼ばれており、貴族階級の宗教であった。
もともと南都六宗といわれる奈良の大寺の頃は、僧尼令(701年)により民衆に伝道することは禁じられており、もっぱら国家と権力者のために、祈祷は呪術を行う宗教であった。この頃、八宗兼学などと言ったが、これは8つの学派の知識に通じていることを言った。華厳、法相、律などの8つの「宗」は学派を指しており、現在考えられるような宗派ではなかった。
平安中期から念仏信仰がひそかに始まり、やがて鎌倉時代に親鸞と日蓮の2人の天才を得て、「鎌倉新仏教」と呼ばれる時代が始まった。一方、応仁の乱から安土・桃山時代になると、顕・密寺院は寺領や荘園などのほぼすべてを失い、権力者の庇護による寺院の時代は終わった。こうして民衆の支持によって生きる時代となり、やがて鎖国時代となった。
古典的な法華経信仰である天台宗と、日蓮宗の法華経信仰との違いは「易行」にあるが、それに止まらない。一般に釈迦の没後千年(または500年)は正法の時代、次の千年(あるいは500年)は像法(正しい法の影に過ぎない)の時代であり、そして末法(正しい法は姿を消した)の時代が来る。
日蓮自身は、この末法の世に送られた人物であり、上行菩薩であるとした。であるから、法華経の文言よりも、今や末法の世に出現した日蓮の「御書」(手紙)に権威が置かれる。また「妙法蓮華経」の内容を学ぶ一番良い方法は「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることであり、さらに日蓮上人の「御書」を学ぶことによって成就する。日蓮宗は、このような強烈な自己主張を持つ宗祖を崇拝する宗派になった。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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