今回最後に第3章「近代の呪縛と現代日本の責任」を取り上げます。第1章「キリスト教と近代の迷宮」、第2章「近代科学の魔力と哲学の逆襲」において、2人の特徴ある論者が近代の課題を歴史的に取り上げた後で、3章では直接現代、しかも現代日本の責任に焦点を絞ってやはり多様な課題を取り上げ、対話が展開されています。28項目に展開されている内容の多彩さは、「イチローはいかに野球を変えたか」から「北朝鮮を民主化する方法」に至るまで、実に印象的です。
その多様な28の項目の最初の2つ「日本のナショナリズムと靖国神社」「天皇イデオロギーとありえた日本」が明示しているように、現代日本の根本的な課題に視点を定めつつ、現代日本のさまざまな課題に広く視野が開かれた対話は、読む者に新鮮な情報と思索の深まりへの示唆を与えてくれます。
その中で、個人的に最も関心のある課題1つ「沖縄問題の解決に向けて」だけを取り上げて応答致します。わずか5ページと限られた中で繰り広げられている対話は、沖縄で25年間生活し、沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む営みを目指してきた私にとって、深く共鳴するものがあります。
何よりも、「つまり沖縄を一枚岩と思ってはいけないのです」(231ページ)との大澤氏の明快な指摘に、心から同意します。その洞察に立って提唱されている、制約を越えての提唱は、大きな励ましです。
「沖縄自体がまわりの島々と十分連帯しきれないところがある。でも逆にいうと、沖縄や南方の島々が、そういう歴史的な遺恨を乗りこえて連帯できたら凄い力になる・・・南方諸島が自らの連帯を実現したとき、彼らの本土批判もよりいっそう説得力のあるものになる」(231ページ)
上記の提唱に共鳴する私なりの基盤は、以下の通りです。
本土に対して異を唱える沖縄自体に、沖縄本島と先島(離島)の二重構造がある。さらに、離島の1つ石垣についていえば、その周囲の島々によって構成される竹富町の町役場が石垣市にある。こうした連鎖の根本には、極東の島国と位置付けられ、そこからの脱出を目指す脱亜入欧の旗印の下で進められた富国強兵の営みとその結果を見ます。
上記の連鎖からの脱出は、第1章「キリスト教と近代の迷宮」に見る「キリスト教」から、さらに源泉である「聖書」そのものに直接焦点を当てる道にあると私は理解しています。それは、例えば内村鑑三に見るように、日本の地理的位置を摂理的に受け止めて歴史的使命を自覚し、実践する道です。その営みにより、中央と地方とのメンタリティーから解き放たれ、各地域がその特徴にかたく立ち、世界に対する使命を果たす。そのような個と全体の本来の関係が、生き生きと成り立っていくのではないか。
最後に、2章の終わりから3番目の項目「人間の信頼は神の像を描く?」に戻ります。その項目に見る、人間への信頼の強調に心引かれます。「この他者への信頼をもうちょっと抽象的な人格とか、特別なものに投影できれば、神さま的な説明になるのではないでしょうか」(183ページ)と大澤氏は述べておられます。
インターネット世界で、いかにして真の対話が成り立つか、日々考えさせられています。そうした中で、リチャード・ボウカム著『イエスとその目撃者たち―目撃者証言としての福音』を読み、「信頼」の重要性についてあらためて教えられています。
「重要な点は、証言には信頼が欠かせない・・・『他者の言葉に対するわたしたちの信頼こそが、重大な思考活動の根幹にあるのである』」(リチャード・ボウカム著『イエスとその目撃者たち―目撃者証言としての福音』471ページ)
本書自体、まさに「信頼」の重要性を実証していると考えます。私は先に、以下のように記しました。今あらためて同じことを取り上げ、感謝します。
「まえがきにおける大澤氏、またあとがきにおける稲垣先生の記述の双方ににじみ出ている相手に対する敬意の思いは、読む者の心によく伝わってきます。この敬意の裏付けがあって初めて、このような対談が展開し得ている事実を覚えます」
■ 大澤真幸、稲垣久和著『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社、2018年4月)
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