TCUの稲垣久和先生と大澤真幸氏の共著『キリスト教と近代の迷宮』を手に取り、稲垣先生との長年の交流を感謝しつつ、久しぶりに稲垣先生の思索に触れ、うれしくなりました。
本書の特徴は、何といっても2人の優れた著者の対談である事実です。その点は本書の以下に見る構成によく示されています。
まえがき 大澤真幸
第1章 キリスト教と近代の迷宮
第2章 近代科学の魔力と哲学の逆襲
第3章 近代の呪縛と現代日本の責任
あとがき 稲垣久和
1970年代から始まる稲垣先生との交流を通して読む機会を与えられた稲垣先生の著作が、先生ご自身の深みのある独唱とすれば、今回のものは見事な二重唱です。
まえがきにおける大澤氏、またあとがきにおける稲垣先生の記述の双方ににじみ出ている相手に対する敬意の思いは、読む者の心によく伝わってきます。この敬意の裏付けがあって初めて、このような対談が展開し得ている事実を覚えます。
しかも、このような対談が成り立った背後に、対談そのものの中では直接な姿を現さない大切な編集者の存在があることを、まえがきには「対談を演出したのは、春秋社の小林公二氏だ」(Ⅳページ)と端的に述べられています。
あとがきには、さらに詳しく経過を明らかにしています。数年前から話のあった対談が実現しないでいた中で、2017年の宗教改革500周年が契機となり、「小林氏の熱心な思いが再燃した。この有能な編集者の情熱がこういう形で実ったことになる。案の定、実に知的刺激に満ちた楽しい対談であった」(327ページ)。
上記に見る本書の構成に自らの意図を明らかにしている編集者の存在をしばしば意識しながら、私は本書を通読しました。お2人だけの対談ではなく、編集者を加えた開かれた対談としての懐の深さが、読者をも対話に招き加わるように機能しているのを実感しました。
今回は、本書の枠組みの特徴に意を注ぎ、次回から内容に触れたいのです。ただ最後に、稲垣先生との長年の交流の一端に触れ、久しぶりに与えられた今回の機会に対する感謝のしるしとします。
1986年4月、沖縄移住に向かう私のために、キリスト教学園の教授会の同僚であった稲垣先生は、当時関係されていたクリスチャン新聞に、毎月コラム「季節の窓」を2年余書き続ける機会を与えてくださいました。これは、私にとって沖縄で生活しつつ書き、書きつつ生活する開かれた機会となりました。
また、説教の整えのため、実践的な論文さえ書く状況ではなく、自分なりの思索は手紙形式で書くしかない制約の中にあった私に対して、「手紙論文・論文手紙」と呼び、励ましてくださった事実を忘れることができません(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ 「聖書・神学」考』356~358ページ)。感謝。
■ 大澤真幸、稲垣久和著『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社、2018年4月)
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