2014年4月からクリスチャントゥデイで実際の働きを始めるに当たって、2つのことを自覚しました。1つは、20代で地域教会の説教牧会に従事すると同時に、神学教育機関で教え始める、表面的には二足の草鞋を履く状態の中で覚悟し決定した道の再確認です。
そうです、教会の講壇で説教しないことは、教育機関の講壇で話さない。授業のすべては、どれほど多様な展開をなしたとしても、その本質は説教。二足の草鞋ではなく、あくまでも説教者として、与えられた教育機関の場でその場にふさわしく研究と教育の使命への応答として説教する。
70代のクリスチャントゥデイの場合も、基本は同じです。寺なし良寛のように、教会なし牧師として、与えられた時と場その講壇で説教牧会を今まで通り継続する。そうです、主が備えてくださった新しい場で編集長としての役割を自覚し、その働きを説教者としての心と修養をもって営む。
ですから、この場合も二足の草鞋ではなく、10代以来の説教者としての一本の道を歩み続ける心意気に生きてきました。専門職である編集長の営みが求める整えのため、素人である私への手引きとして、2冊の本を手にすることができました。
1冊は『取材拒否―権力のシナリオ、プレスの蹉跌』です。クリスチャントゥデイの仕事を始めて驚いたことの1つは、クリスチャントゥデイに対して教会や諸団体が平然と「取材拒否」をする実態です。もちろん、取材拒否という言葉は知っておりました。誰が、誰に対して、何のために取材拒否するのか。
取材拒否といえば、相撲取りに土俵に上がるな。文字通り、相撲にならない。こんな事実が平然とまかり通っている。なんだらかんだらのもっともらしい理由を挙げて。驚きました。この事態の中で、本書が粘り強く取り組んでいる事柄から教えられ、励まされました。
クリスチャントゥデイが直面している取材拒否の課題は、単にクリスチャントゥデイの問題だけではなく、取材拒否をする側の教会性が深く問われている。この単純な大切な事実が、私にははっきり見えるのです。本書の著者と今後も深く内的な対話を続けながら、クリスチャントゥデイでの営みを続けたいと願っています。
もう1冊は、『現代ジャーナリズム事典』です(関連記事:聖書をメガネに ジャーナリストとしての内村鑑三)。私にとっては、かけがえのない教科書です。
この両方の書物で新しく教えられたのが、新聞倫理綱領です。今までその存在を私は知りませんでした。その内容構成は、以下の通りです。
自由と責任
正確と公正
独立と寛容
人権の尊重
品格と節度
これを読みながら、日本国憲法のあの前文や条文を読むときのすがすがしい厳粛さに通ずる思いに満たされました。
今、クリスチャントゥデイが直面している事々にあれやこれやと対応するだけでなく、あの敗戦直後に新たな思いを文字として表現した先輩ジャーナリストたちの心が伝わってきます。そうです、憲法の前文や条文を書き表した人々の背後にある歴史が伝わってくるのと同じです。
今、クリスチャントゥデイにとっては好機です。新聞倫理綱領を熟読したいのです。例えば、「公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである」。
一言でいえば、報道倫理です。いやしくも、文を書き、文を伝える者の心構えと実践、倫理です。私がクリスチャントゥデイに関わった最初から、いやそれ以前から、説教者として生かされてくる中で、父親から学んだ、うそをつかない、その一事です。
あることをないかのようにしない。
ないことをあるかのようにしない。
この一事の上に編集会議の方針と内容を据えていく営みを続けたいのです。単にクリスチャントゥデイのみではなく、報道倫理の確立と実践を求める開かれた公共の場を具体的に求めたいのです。お祈りいただければうれしいです。感謝。
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