確かにこの4月から編集会議の組織面で、議事録を原則的に公表することを決め、小規模とはいえ陪席者を迎えるなど、目に見える形での進展があります。しかし、なによりも掘り下げ求めたいのは、意識の問題です。倫理の課題です。
この課題に直面するとき、私にとって1つの助け・手引き、そうです、手本があります。それは、十代の最後の日々、戦前に出版された岩波の全集を通して出会った内村鑑三です。
あの時は、教育学のレポートとして「教育者としての内村鑑三」(『宮村武夫著作1―存在の喜びをあなたに 愛の業としての説教』166ページ以下)を書きました。その時の営みとレポートはその後、私の生涯にわたって影響を与え続けてくれました。そして今、70代の最後の日々、内村鑑三は狭い意味でも広い意味でも(関連記事:聖書をメガネに ジャーナリストとしての内村鑑三)、聖書をメガネに万物を見るジャーナリスト、かけがえのない先達として、その姿を現してくれています。
狭い意味とは、鈴木範久先生が、ユニークな著作『内村鑑三日録』のシリーズで「ジャーナリスト時代」と題して一冊を当てている1897年から1900年の歩みです。そこでは「万朝報」の英文欄主筆の目的として、あらゆる態度行動における率直さと正直さを強調。さらに続く「東京独立雑誌」の創刊に当たっては、鈴木先生の的確な抜粋にあるように「吾人の主義は正直なるにあり、確信、有(あり)の儘(まま)を語るにあり、可成丈(なるべくだ)け万人に対して公平無私ならんことを勉むるにあり、人間普通の道を践(ふ)むにあり」(同書2ページ)なのです。
そうです、「率直」「正直」「公平無私」を、御用新聞や政党色の強い新聞、さらには読者に迎合する新聞が乱立する中で、明確な志として挙げています。この志を根底で支えていた基盤が聖書であり、聖書を通して語られる創造者なるお方です。
あらゆる権力の前で、この基盤に立ってたじろがない。その時、どんな小さな者をもあなどらない、真の余裕がにじみ出てきます。たじろぐ者に限ってあなどるのです。内村鑑三の内に、たじろぐこと、そしてあなどることから解き放たれ続ける、あるべきジャーナリストの姿を見、励まされます。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)、この勧めが記事やコラムを通して波紋のように、静かであっても誰も何も止められないように広がっていく、そのようなクリスチャントゥデイの歩みを願います。そのためには、自らと自らの価値判断のすべてを聖書の下に置いて、真にたじろがない者として生き続ける修練が求められます。そこから書かれる記事やコラムを圧迫し、沈黙させようとするなら、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)なのです。
もちろん、私たちは一寸の虫にすぎない者です。しかし同時に「一寸の虫にも五分の魂」です。意識、倫理が聖霊ご自身の忍耐深いお働きで整えられていくように願いつつ、5月の歩みへ向かいます。なぜ今日説教するのか、なぜクリスチャントゥデイの記事をコラムを書き続けるのか、同じです。お祈りいただければうれしいです。
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