4月4日、そうです。1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がテネシー州メンフィスのモーテルで暗殺された日です。
キング牧師の記念日と言えば、1983年に国民の祝日として制定された、1月15日のキング牧師の誕生日(実際の祝日は1月第3月曜)が中心なのは確かです。しかしキング牧師の存在と生涯を記念する適切な方法は、彼の暗殺を視点とする見方と推察します。
1968年4月3日、キング牧師はある教会で説教をする予定があったにもかかわらず、健康がすぐれなかったため、盟友ラルフ・デイビッド・アバーナシーに代理を依頼します。しかし、アバーナシーは満場にあふれる聴衆の様子を見て、「数分でいいから話してくれ」とキング牧師に迎えをやったそうです。キング牧師は急きょやって来ると、原稿もなしで説教します。それが、「I've Been to the Mountaintop(私は山の頂きに立った)」 という最後の説教です。
「メンフィスに着いたとき、人々はわれわれに対する脅迫に言及し、『病的な白人の兄弟たち』が私に何かするかも知れないと言った。何が起るか分らない。まだ困難が控えている。しかし、それは私には問題ではない。私は山の頂きに立ったからだ。誰しもが望むように私も長生きはしたい。しかし今、私にはそれもどうでもいいことだ。私は神の望まれることをするまでだ。神は私に山の頂きへ行くことをお許しになった。そこで、私は約束の地を見た。そこへあなたがたと一緒に行くことはできないだろう。しかし今夜、あなたがたに知っていただきたい。私たちは約束の地へ行けるのだ。だから、私は今夜幸せである。何も心配せず、誰をも恐れていない。私の目は神の栄光ある降臨を見たからだ」
4月4日はモーテルで休養を取り、夕刻、親しい地元の牧師に招かれた夕食に向かう途中、付き添いの方が席を外し、1人になったときに銃撃に遭遇。救急車で病院に運ばれたものの、撃たれて約30分後に39歳の説教者は亡くなりました。しかし彼が宣言した説教は、引き続く困難な状況の中、波紋のように広がり続けていきます。
私はその5年前の1963年8月12日、留学のため横浜を出航しました。2週間の船旅と飛行機でのアメリカ大陸横断の後、ニューイングランドに着き、9月から充実した授業が始まります。それから3カ月がたとうとしていた11月22日金曜日、図書館で本を読んでいたときに、いつも冗談ばかり言って皆を笑わせていた神学生が飛び込んできて、叫んだのです。一瞬、いつもの冗談かと思うやいなや、ジョン・F・ケネディが銃撃され、暗殺されたと言うのです。
帰国後、1967年10月1日から埼玉県寄居の教会で、親子3人の生活を始めました。それからそれほど時間が経過しない中で、1968年4月4日にキング牧師の暗殺、同年6月5日にケネディ大統領の弟、ロバート・ケネディ暗殺の報を聞いたのです。
暗殺、暴力がすべてを押し殺すかに見えたあの時代を思い出し、この時代を直視しながら、この1冊に新しく聞く備えをなしたいのです。そうです、ウィリアム・T・ランドール著『非暴力思想の研究―ガンディーとキング』、この1冊です。
2009年3月22日、私たち夫婦は、普天間バプテスト教会の主日礼拝に出席しました。敬愛するランドール先生がハワイへ移住する前の、沖縄における最後の宣教(説教)の時でした。エレミヤ書18章1〜10節から「火の中を通してみないと」と題し、実に心の奥底に届く宣教でした。
ランドール先生ご夫妻は、ベトナム戦争の時期、沖縄の米軍基地に反対したとして、所属する宣教団から離れざるを得なくなりました。そうした困難な中でも、ご夫妻と沖縄のキリスト者・教会のある方々との絆は固く、主に大学での働きを積極的に続けながら、普天間バプテスト教会での牧会を支えてこられたのです。
私たち夫婦が1986年4月に沖縄移住した直後から、ランドール先生を含めた数人の牧師・宣教師が毎週土曜日か月曜日に首里朝祷会を持ち、御言葉を共に味わいました。なかなか出席者が増えず苦労しました。しかし月に一度は、数人の牧師・宣教師それぞれの説教を必ず聴き、また自分自身も説教をする交わりを通して、相互信頼は確かなものになりました。
その後20年余り、ランドール先生との主にある交わりを通し、静かな励ましを受け続けました。特に私がかなり激しい躁鬱(そううつ)の中で、首里福音教会の牧会、沖縄聖書神学校での授業、それなりの執筆活動を続けているのを知っておられ、また住居が近いこともあって、郵便局などでお会いすると必ず、「宮村先生、元気?」「宮村先生、大丈夫?」と、短い言葉で話し掛けてくださいました。それは、1日の終わりに「今日は、ランドール先生とお会いした」とあらためて覚える、心温まるしみじみとした言葉だったのです。
私たちの沖縄での経験は、勿論、ランドール先生ご夫妻の「火の中を通してみないと」に比較するようなものではありません。しかし私たちの身丈にあった限りの「火の中を通してみないと」ではありました。
特に2006年3月を中心とする3年余の修羅場。それは、小学校下級生の孫のめぐみが「おじいちゃんたち、だれからお金をもらうの」と、小さい胸を痛めることも含むものでした。福音宣教の機会を妨げられただけではない。1986年4月の沖縄移住以降、首里福音教会を中心に語った宣教の記録がホームページから抹殺・消去される事態を含むものでした。
1986年4月の宮村家族の着任に備えて、首里福音教会の会堂建設の計画と協力依頼が教会外へ送付された際、最初の応答者として献金を送金してくださったのは、無教会の高橋三郎先生でした。2006年4月以来、その首里福音教会の講壇から私は説教することができないばかりか、会堂を訪問することもできません。
脳梗塞のための入院から退院に当たり、私たちなりに野垂れ死にをも覚悟する事態の中で、「広い所」への導きの約束は、文字どおり現実となっていきました。
苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。
【主】は、私に答えて、私を広い所に置かれた。(詩篇118篇5節)彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。
だが、【主】は私のささえであった。
主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。
主が私を喜びとされたから。(詩篇18篇18、19節)あなたは私を敵の手に渡さず、
私の足を広い所に立たせてくださいました。(詩篇31篇8節)
ランドール先生ご夫妻とのお別れに当り、心からのはなむけとして、宮村武夫著作集刊行の賛同人の1人となっていただきたいと申し出ました。ランドール先生はとても喜んでくださり、賛同人の1人になってくださいました。金城重明先生とランドール先生お二人が著作集の賛同人になってくださっている事実、私にとりうれしい感謝な恵みの事実なのです。
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