第2章近代科学の魔力と哲学の逆襲をめぐって
今回は第2章について応答します。最初に2章のタイトル。「近代科学の魔力と哲学の逆襲」と、私にとっては何か重々しい響きのあるものです。このタイトルで意を引くのは、近代と科学が結び付いている点です。その事実の重みを「魔力」との表現で表していると見ます。
タイトル前半で「近代科学の魔力」と近代の特徴を提示するのに対して、後半では、1)「科学」に対する「哲学」と、2)「魔力」に対する「逆襲」と二重に鋭く対比し、この2人の優れた論者が一般的な近代理解や一方的な科学の絶対化に対して鋭く問題を提起していく事実を示唆していると、私は受け止めました。それで、重々しい響きのある表題を「科学と哲学」と私なりに要約して、分に応じて受け止めやすくしたいのです。
第2章は16の項目、それもかなり専門的で一見して歯が立ちそうもないものや、反対にいかにも好奇心を引きつけるものなど、多様で盛りだくさんです。私は、最初の2つの項目で参りました。
・複雑系と目的因
・複雑系の意味
そうです、「複雑系」との表現は、私にとって初見、困惑しました。さらに、「複雑系と目的因」の項目の最初に、稲垣先生が「二〇〇四年に私は『宗教と公共哲学』(東京大学出版会)という本を出版し、その冒頭部分に複雑系の入門的な話を書きました」(114ページ)と記されている文章を読み、稲垣先生との対話が、キリスト教学園時代や沖縄時代に比較して、この10年前後は密でなかった事実をあらためて実感しました。今回の機会を契機に以前のように、いや以前に増して深く豊かな対話へと導かれたら幸いと願わされたのです。
しかし、すべてを将来の学びに委ねるのではなく、限界を認めつつもその中で、本書に提示されている思索を手探りしながらでも理解し、確認をなしたいのです。正直、最初の2項目に記さている内容の理解は、現在の私にはちょっと歯が立ちません。しかしその中で、わずかでも理解の手掛かりとなるのではと期待を持たされる一つの言葉に目が留まりました。
そうです、最初の項目「複雑系と目的因」にある「目的」です。この「目的」が第4番目の項目「人間原理は目的論を正当化するか」の中でも重要な役割を果たしていると判断します。さらに、2章の最後に並ぶ人間の本質に迫る項目、「人間の信頼は神の像を描くか?」や「人間らしさと美」の直前、つまり最後から4番目の項目「科学に目的は必要ないか?」は、2章のタイトルとの関連からも注目に値します。
2章の構成全体の中で、「目的」の位置・役割を確認しつつ、2人の論者が「目的」について語っている言葉に聞きたいのです。まず、「人間が目的をもって生きていることは認めざるをえない気がします」(124ページ)、この一見素朴な稲垣先生の表現に私は手掛かりを覚えます。さらに、「まさに宇宙の歴史に目的がある」(181ページ)かと議論は広がります。
この目的という現象が人間の豊かさと深く関わり、具体的には人間関係における信頼と結び付くことを覚えます。この一連の大切な関わりを「客観的に見ても、人間の人間らしさの一番はやはり社会性なのです」(184ページ)と要約されている大澤氏の言葉を私は重視します。これはまさに「他の動物の社会と人間の社会との違いといえば、やはり『目的』ではないですか」(185ページ)との稲垣先生の指摘にも通じ、響き合うのを見ます。
「目的」、つまり意味があるかどうかその事実が、人間が人間らしくあることと深く関わる。人と人の日常的な関わりの根本である信頼と不可分である。この素朴な点こそ、「哲学の逆襲」との言葉で2人の論者が展開している議論の中核ではないかと受け止めるのです。
そうです。科学が一辺倒であってはならない。哲学の位置と役割がある。近代科学の魔力がすべてではない。哲学の逆襲がある。これらの主張を、人間には、宇宙には「目的」、意味がある事実から確認できると、本書を通して励まされるのです。
■ 大澤真幸、稲垣久和著『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社、2018年4月)
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