クリスチャンになったなら、自分の重荷を下ろすことができ、生きることに喜びを覚えるようになる、はずである。ところが現実は、クリスチャン生活を送るにつれ、しんどくなったと訴える人は後を絶たない。以前にも増して重荷を背負うようになり、追い込まれるようになったという人は大勢いる。その原因の1つに、「神のために・・・」というセリフがある。「神のために」と言われることで神の命令が重荷となり、追い込まれてしまうのである。
ところが、聖書を詳しく調べてみると、「神のために・・・」という教えはない。あるのは「神に対して・・・」であり、その意味は、神と向き合う中で「神と共に生きる」ということである。このことは、前回のコラムで詳しく説明した(参照:福音の回復(53))。そうであれば、まことに楽しい。「神と共に生きる」だけでよいのなら、神の言葉は重荷にならないからだ。
自分を追い込んでしまうセリフは他にもまだある。それは、「頑張らなければならない」というセリフだ。クリスチャンは神に対し、「頑張らなければならない」と言って自分を追い込んでしまう。ただし、「頑張らなければならない」は、クリスチャンだけのセリフではない。誰もがそう言って、自分を追い込んでいる。このセリフも、先の「神のために・・・」と同様、聖書にはない。聖書が教えていることは、神に対して「頑張れ」ではなく、すなわち「できる限りのことをせよ」ではなく、「自分にできることをせよ」である。そうであれば、自分を追い込む必要もなくなる。
だとしても、この世界では頑張ることが美徳とされ、頑張らなければ愛されない。そのため、神に対して「自分にできること」をすればよいと言われても、「できる限り」のことをしなければと思ってしまう。頑張らなければ神に愛されないのではという不安が、どうしてもやってくる。そこで今回のコラムは、本当に頑張らなくていいことを聖書から学んでみたい。それにより、自らを追い込むセリフを捨てられるようになることを目指す。まずは、神と人との関係から見ていこう。神と人との関係が分かれば、どうして神に対して頑張らなくていいのかが分かる。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【神と人との関係】
(1)アバ、父
前回のコラムで述べたように、聖書には「神のために」という教えはない。あるのは、「神に対して」である。「神に対して」とは、人はいつも神と向き合った中で生きているということであり、「神と共に生きる」ことを意味する。分かりやすく言うなら、支配者と奴隷という関係ではなく、父と子という関係の中で生きなさいということである。そうであるから、私たちは神のことを「アバ、父」と呼ぶ御霊を受けた。
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラテヤ4:6)
すなわち、クリスチャンは何事も父なる神に相談し、神と共に生きればよい。神の奴隷として神に仕えるという関係でも、神の「僕」として「頑張ります」という関係でもない。だからイエスは、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15、新共同訳)と言われたのである。
このように、新約聖書は、神と人との関係を父と子の関係として綴っている。神は天におられる私たちの父であることを教え、「天におられるあなたがたの父を・・・」(マタイ5:16)、さらには、「アバ、父」と呼ぶことを教えている。「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)。実際、神は私たちの「アバ、父」であったからこそ、私たちを罪から救い出すためならと、ご自分の御子さえ惜しまれなかった。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)
そこまで愛されている私たちなのだから、神から愛されようと、頑張る必要などまったくないのである。頑張るというのは、「愛されたい」という願望を満たすための運動であり、そのような運動はまったくもって不必要ということだ。そうしたことが、神と人とは「父と子」であるという新約聖書の教えから見えてくる。
が、しかし、旧約聖書では、神のことが頻繁に「万軍の主」として綴られている。「万軍の主、イスラエルの神よ」(サムエル記下7:27、新共同訳)。神が「万軍の主」であれば、人の立場は主に仕える「僕」であって、「アバ、父」と呼ぶ関係にはならない。旧約聖書の描く神であれば、神と人とは「主人と僕」の関係になる。「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる」(サムエル記下7:8、新共同訳)。そうであれば、人は神のために生きるのであって、神のために頑張らなければならないという話になる。ならば、一体どちらの神が正しいのだろう。神は私たちの「アバ、父」なのか、それとも「万軍の主」なのか、そのことを続けて見てみよう。
(2)2つの世界
新約聖書と旧約聖書では、神の描かれ方がまったく異なる。それは、2つの世界が存在するからそうなる。1つは「死」が支配する「死の世界」であり、もう1つは「神」が支配する「神の国」である。旧約聖書の時代にはまだ「神の国」が来ていなかったので、「死の世界」における神の姿が中心に描かれた。しかし新約時代になると、イエスと共に「神の国」が来たので、「神の国」における神の姿が中心となった。それで神の表現の仕方が異なる。では、「死の世界」における神の姿を見てみよう。
「死の世界」とは、「死」が支配する世界である。「死」とは、永遠なる神との結びつきのない状態を指し、滅び行くことを意味する。神との結びつきがない世界では、人は自らの力で生きるしかなく、その中で体は土に帰り滅びることになる。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。これは人だけではない。被造物自体も滅びの束縛を受ける。「被造物自体も、滅びの束縛から・・・」(ローマ8:21)。こうして「死の世界」では、すべてのものが滅びる運命を背負い、誰もこの運命からは逃れられない。
私たちはそうした「死の世界」で生まれ、暮らしている。そうなると神は永遠なる方なので、そこから見える神は、滅び行く「死の世界」の外に存在する方となる。そこには越えられない淵を覚える。神は「死の世界」の外側にいて、人を滅ぼす恐ろしい方という認識になり、絶対的な力を持った「主」、あるいは「王」ということになる。滅び行く者には近寄ることもできず、ただ服従するしかないという神になる。ゆえに、「死の世界」における神は、絶対的な力を持った「万軍の主」、あるいは「万軍の王」となる。
そうであれば、人は神の僕であり、悪いことをすれば裁かれるしかない。神のために生き、神のために頑張る奴隷でしかない。神との結びつきのない「死の世界」では、どうしても神と人とはそのような関係になってしまう。それが、旧約聖書に描かれている神と人との関係である。しかし、「神の国」においてはまったく事情が異なる。そのことを続けて見てみよう。
「神の国」とは、「神」がすべてを支配する世界である。そのため、そこには「死」はなく、人は神と「疎外」された関係にもない。そこでは、やがて滅びるという「死の恐怖」の奴隷ではなく、神と共に永遠に生きる自由人である。滅びることがないので、神の裁きも存在しない。そうした世界では生きるための争いも生じないので、神と人とは互いに愛し合う関係にしかならない。それは、まさしく父と子の関係である。イエスはこの「神の国」を持って来られたので、イエスを証しする新約聖書では、神が父として描かれている。
このように、2つの世界がある。そのため、それぞれの世界における神の姿が存在する。そこで聖書は、片や「万軍の主」といい、片や「アバ、父」という。大事なのは、「神の国」における神と人との関係である。それこそが、私たちにとっては真実な神との関係になる。それでイエスは、人々に「神の国」のことを教えられた。それはこうであった。
(3)神の国
人々は「死の世界」しか知らなかった。そのせいで、神と人との関係は「主人と僕」だと思い込んでいた。ところがイエスは、それとはまったく異なる「神の国」の存在を明らかにされた。というより、イエスと呼ばれたキリストご自身が「神の国」を携え、この地上に来られたのである。だからイエスは、公の宣教を開始した際、開口一番にこう言われた。
「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1:15、新共同訳)
ここでは「神の国は近づいた」と訳されているが、正しくは、「神の国はすでに来た」である。この箇所の原文は「現在完了形」であり、動作が完了し、その状態が続いていることを表しているので、「神の国はすでに来た」という意味になる。もう少し説明すると、この箇所は、もともとイエスが話されたアラマイ(アラム)語をギリシャ語に訳したもので、アラマイ語で「近づく」という動詞が現在完了形になると、「来た」という意味になる。ゆえに、この箇所は、「神の国はすでに来た」と訳すのが正しい。
つまり、イエスはご自分が来たことで、「神の国はすでに来た」と言われた。だから心を神に向け、その福音を受け取るようにと続けて言われた。それが、「悔い改めて福音を信じなさい」の意味になる。「悔い改めて」と訳された原文の意味は、「悔いて」ではなく、方向を変える、すなわち心を神に向けるという意味である。イエスはここで、心を神に向け、イエスの福音を受け取るなら「神の国」を持つようになると言われたのである(参照:福音の回復(52))。そうであるから、イエスは「神の国」の質問を受けたとき、次のように言われた。
「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです』」(ルカ17:20、21)
イエスは、「神の国」は将来の話ではなく、今現在の話であることを強調された。なぜなら「神の国」は、イエスの福音を受け取った者が持つようになるからだ。それはどういうことかというと、体は「死の世界」で暮らそうとも、魂は神との暮らしを始めるということである。別の言い方をするなら、その人が「神の神殿」となり、そこに御霊が宿るようになるということだ。それが、イエスの福音を受け取り「神の国」を持つということになる。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)
「神の国」を持てば、すでに見たように、神と人との関係は「主人と僕」でも、「王と奴隷」でもない。「父と子」という関係になる。それでイエスは、次のように祈るようにと言われた。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ・・・』」(マタイ6:9)。
このように、イエスを信じる者は「神の国」を持ち、神との暮らしが始まっている。信じる者は、すでに「永遠のいのち」を持っている。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)。そこにおける神は、人を慈しむ「父」なのである。だから以前は神を「王」とし、自分を奴隷として見ていたとしても、今はもうそのような見方をする必要はない。私たちは奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたからだ。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)
従って、私たちは何事も「父なる神」を頼り、助けられていけばよい。それは神に対し、「頑張らなければならない」という思いを抱く必要などないということを意味する。神は父である以上、私たちを無条件で愛される。ゆえに、愛されようと頑張る必要などまったくない。「手」は「手」として、できることをすればよい。では、それで本当に間違いないか、神と人との関係をさらに別の視点からも見てみよう。
(4)神に支えられている
神と人との関係を、イエスは「ぶどうの木」と「枝」に譬(たと)えられた。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)。ということは、人の土台は神ということになる。「その土台とはイエス・キリストです」(Ⅰコリント3:11)。人は、キリストの部分ということになる。「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)。つまり、人は常に神に背負われた中で生きているということだ。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)
人は知らないだけで、人が荒れ野をさまよい苦しんでいるときも、父が子を背負うように、主はいつも私たちを背負っておられる。神と人とは、そうした関係にある。
「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」(申命記1:31、新共同訳)
それゆえ、人は「神のために生きる」という立場にはない。あくまでも、人は神に助けてもらうという立場であり、神なしでは生きられないのが人である。人がどう思おうとも、人は神と向き合った中で生きているので、聖書は「神に対して生きる」ことを教える。
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)
これが神と人との関係であって、それは神に生かしてもらうという関係である。それはまさしく、父が子を養うという関係を意味する。そうである以上、人はどこまででも神に頼り、神の恵みを受け取っていけばよい。神に愛されようと、頑張る必要などまったくない。それはつまり、父なる神を信頼し、いっさいを神に委ねなさいということだ。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)
聖書が教える戒め、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)とは、まさにこのことを言っている。神を信頼し、いっさいを神に委ねることを言っている。「愛せよ」とは「信頼せよ」ということであり、「神のために頑張れ」という意味ではない。
このように、神と人との関係は、神が「ぶどうの木」であって人はその「枝」になる。このことから、人は神に対して頑張る必要はなく、ただ神に委ねればよいという話になる。人は神の恵みを受け取るだけでよく、あとはその恵みに支えられながら自分に「できること」をすればよいという話になる。「できる限り」は必要ない。このことを、今度は実際の出来事で確かめてみよう。
(5)できることをする
これは、イエスが十字架に架かられる前に起きた出来事であった。
「イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」(マルコ14:3)
この女性がしたことを見た何人かの弟子たちは、「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」(マルコ14:4、5)と憤慨し、その女性を責めた。しかし、逆にイエスは感動を覚え、その理由を次のように述べられた。
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)
イエスは感動した理由を、この女性が「自分にできることをした」からだと言われたのである。「できる限りのことをした」からだとは言われなかった。「できることをした」のか、それとも「できる限りのことをした」のかではまったく意味が異なる。「できることをした」とは、頑張ったわけではないことを意味し、「できる限りのことをした」とは、一生懸命頑張ったことを意味するが、イエスはこの女性が頑張らなかったから感動されたのであった。それは、自分が良く思われ、称賛を得ようとする思いなどなかったということだ。愛されたいという思いなど、まったくなかったということだ。
ちなみに、新共同訳はこの箇所を、「この人はできるかぎりのことをした」と訳している。これだと、女性が頑張ったからイエスは感動された、ということになる。しかし原文を見ると、「持った(もので)、した」、あるいは「できた、した」としか書かれていない。それを、「できる限りの事をした」と訳せば、原文に意味を付け加えたことになり、脚色したという非難は避けられない。原文を意味の通じるように訳すなら、「自分にできることをした」となる。新改訳聖書は原文の意味を踏まえた訳になっている(参照:福音の回復(11))。
このように、人は神に対し「できることをする」だけでよい。頑張らなくてよい。逆に、「頑張らなければならない」という思いは、愛されたいという思いを喚起させ、無条件で愛するという神の愛を拒絶させてしまうので良くない。イエスはそのことを、この香油を塗った女性を通して明確に教えられた。
ここでは神と人との関係から、神に対し、「頑張らなければならない」という思いは不要であることを見てきたが、今度は「罪」という視点から見てみよう。実は、「頑張らなければならない」という思いには罪が潜んでしまう。そのため、神はその思いを拒まれる。
【「頑張る」に潜む罪】
(1)罪の実体
人は「頑張る」必要などない。ただし、「頑張る」必要がないというのは、怠けてよいということを言っているのではない。何もしなくてもよいということではない。神は、人にできることは人に任せて助けることなどされないので、人の側は自分にできることをしなければ、すべて自分に返ってくる。だから、自分にできることを熱心にするのは当然となる。
つまり、ここでいう「頑張る」必要などないというのは、「頑張らなければならない」という思いを抱く必要はないということを言っている。では、なぜそのような思いを抱く必要がないのか。結論から言うと、その思いには罪が潜んでしまうからだ。そのことは、罪の実体を知れば分かる。罪とは神の思いに逆らうことであり、御言葉をふさぐ働きをするが、その実体を知れば容易に分かる。そこで、イエスが教えた罪の実体を見てみよう。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
イエスは御言葉をふさぐ働きをする罪の実体として、「心づかい」を筆頭に挙げられた。ここでいう「心づかい」とは、イエスがマルタに言われた、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」(ルカ10:41)の「気を使っています」を指す。こちらは動詞であり、先の「心づかい」は名詞であって、どちらも同じ語源を持つからだ。従って、イエスの言われた「心づかい」とは、マルタがしたと同じ人への気づかいを指す。それが御言葉をふさぐ罪の実体であると、イエスは言われたのである。
一体誰が、人に対する気づかいを罪だと思うだろう。誰も思わない。むしろ良いことだと思ってしまう。しかし、その思いは神のことではなく人のことを思わせ、そのことで御言葉をふさいでしまうので、イエスはそれを罪の実体の筆頭に挙げられた。イエスは、かつてペテロにもこう言っておられる。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
イエスは、ペテロが「心づかい」のせいで神のことを思わず、人のことを思ってしまったので、「下がれ。サタン」と言われた。無論、「下がれ。サタン」とは、最も良くない思いを抱いていることを教えるための隠喩である。この隠喩からも、罪の筆頭は「心づかい」であることが分かる(参照:福音の回復(4)(32)(48))。
そこで考えてみてほしい。自分が良く思われ愛されようとする「心づかい」を実行するには、一体何が必要かを。それは、相手の期待に応えようとする努力なので、「頑張らなければならない」という思いを抱く必要がある。すなわち、「頑張らなければならない」という思いを抱くとき、そこには御言葉をふさぐ「心づかい」という罪が潜んでいる。先に挙げた香油を塗った女性は、そうした「心づかい」をしなかったので、イエスは「この女は、自分にできることをしたのです」(マルコ14:8)と言い、感動されたのである。
このように、罪の実体が「心づかい」だと知れば、「頑張る」ということは罪を助長させてしまうことが分かるだろう。それは神のことを思わせないで、御言葉をふさいでしまうのである。「頑張る」は、自分が愛されようとする努力であり、神の律法、「愛せよ」とは真逆の方向に進ませる。ゆえに神は、「頑張らなければならない」という思いを拒まれる。ならば、どうして人は「心づかい」に生きるのか。この罪の源流を探ってみよう。
(2)罪の源流
人はどうして「心づかい」をするのだろう。それは人から良く思われ、「愛されたい」からであり、他の理由などない。そのことは、自分の胸に手を置いてみれば誰でも分かるはずだ。私たちを突き動かしているのは、紛れもなく「愛されたい」という欲求であり、それが「心づかい」を生んでいる。
この「愛されたい」という欲求を心理学では「承認欲求」といい、これをイエスは罪とされた。そして、この欲求は人が神との結びつきを失ったことで、すなわち神と「疎外」された関係になったことで生じるようになった。この出来事を「死」というが、悪魔の仕業で人に「死」が入り込んだことで「承認欲求」は始まった。その経緯はこうである。
悪魔の仕業によりアダムとエバは罪を犯し、人は神との結びつきを失ってしまった。それが「死」であり、人は神との結びつきを失えば、神に愛されている自分が見えなくなるので「不安」になる。そうなると、人は必死になって愛される自分になろうとする。少しでも良く思われるもので自分をおおい隠し、愛されようとする。これが「承認欲求」の始まりであり、そうしたことをするようになったアダムとエバの様子を、聖書は次のように綴っている。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)
つまり、アダムとエバは神との結びつきを失ったことで自分の姿しか意識できなくなり、「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」、その姿が裸であったことに「恐れ」を覚えたのである。それで神の声を聞いたとき、裸の姿を見られたら恥ずかしいと思って隠れてしまった。「それで私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世記3:10)。この行動こそ、良く思われようとする「承認欲求」にほかならない。実際、それが「承認欲求」であったことは、このあとの2人の行動が証ししている。その行動はこうであった。
アダムとエバは、このあと神から自分たちが犯した罪の指摘を受ける。ところがアダムは、それをエバのせいにした。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創世記3:12)。またエバは、それを蛇のせいにした。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」(創世記3:13)。2人とも神に、自分は悪くないと主張したのである。これこそが良く思われようとする「承認欲求」の典型的な行動であり、人はすでに愛されたいという欲求に突き動かされ、行動していたことを物語っている。まさしく「承認欲求」は、人が神との結びつきを失った「死」から始まった。
そして、始まってしまった「承認欲求」は、人から良く思われ愛されようとする思いなので、そのまま今日の「心づかい」へと発展した。「心づかい」に発展すれば、人から良く思われようとする競争が勃発する。互いを比べ、どちらが良く思われるかの競い合いが始まる。この競い合いに勝つには、兎にも角にも頑張らなければならない。こうして「承認欲求」は「心づかい」となり、「頑張らなければならない」という思いを人に抱かせることになった。
イエスは、これが御言葉をふさぐ罪の頂点に君臨すると言われたのである。愛されたいという「承認欲求」は、神の律法の頂点に君臨する「愛せよ」とは対立するからだ。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)。こうした対立する思いを「肉の思い」という。
このように、イエスが言われた「心づかい」という罪の源流を探っていくと、そこには「愛されたい」という「承認欲求」があり、それを生み出したのは「死」であることが分かる。人の罪は、「死のとげ」であったことが分かる。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。すなわち、人の中に神との結びつきを失う「死」が入り込んだことで、人の中に罪が君臨するようになった。「それは、罪が死によって支配したように・・・」(ローマ5:21)。「死」のせいで、人は愛されたいという願望を抱くようになり、「心づかい」を目指すようになった。そこから、「頑張らなければならない」という思いが始まった。
どうだろう。「頑張ります」と言うと美しく聞こえるが、そこには罪が潜んでいることが分かっただろうか。そうであるから、神は「頑張らなければならない」という思いを拒まれる。今度は、「頑張ります」と言うとき、具体的にどのような御言葉がふさがれるのかを見てみよう。
(3)人はキリストの各器官
親は子どもに偉い人の話をし、あなたも頑張って偉い人のようになりなさいと言う。学校は学校で立派な人の話をし、頑張って立派な人になるよう教える。会社に勤めれば勤めたで、成績の良い人は称賛され、お前たちも頑張れと檄が飛ぶ。こうして、誰もが「お前のままであってはならない」と言われ続け、「頑張れ」コールの嵐の中で、人から良く思われる自分になろうとした。人は理想とする人物を思い描き、自分もそのような人物になろうと一生懸命頑張るようになった。そのことで周りから良く思われ、愛されようとした。これは古今東西、まったく変わらない。
私たちはこうした世界で暮らしているために、「頑張ります」と言うとき、自分を否定し、人から良く思われる人物になろうとする思いがそこには存在する。それが御言葉をふさぐ。なぜなら、聖書は次のように教えているからだ。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12:27)
この御言葉は、人はキリストの各器官であることを教えている。ということは、人それぞれがキリストにとって必要な存在であるということになる。たとえ見た目には劣っているように見えても、それは必要な器官であり、キリストにはなくてはならないということを意味する。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Ⅰコリント12:22)。そうであるなら、「手」としての器官は「手」であって、「足」になってはいけないということだ。だが、「頑張ります」と言うとき、これらの御言葉がふさがれてしまい、「手」は「足」になろうとする。互いを比べさせ、より見栄えの良い愛される器官になろうとしている。
しかし、そのような自分を目指すとどうなるだろう。それは自分ではない自分になることなので、自らを追い込んでしまう。それだけではない。頑張った分だけ称賛してもらいたくなるので、称賛されれば喜ぶが、されなければ怒りを覚えるようになる。あるいは、自分よりも称賛される者を見ると嫉妬するようになる。これではますます人を愛せなくなり、「愛せよ」という神の律法に逆らってしまう。「頑張ります」は、こうして御言葉をふさいでいく。
ならば「頑張ります」を排除し、「手」は「手」としての自分を受け入れ、「手」としての働きに専念するとどうだろう。それは「自分にできることをする」だけなので、実に楽しい。「なすべきことをしただけです」となるので、何の負担にもならない。ゆえにイエスは、弟子たちに対して次のように言われた。
「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)
愛されようと必死になって頑張る弟子たちに、イエスは、「なすべきことをしただけです」と言いなさいと言われた。それは、「手」は「手」として生きなさいということである。
このように、「頑張ります」と言うと美しく聞こえるが、それは人がキリストの各器官であるという御言葉をふさぎ、さらには「愛せよ」という御言葉もふさいでしまう。そこには、そうした罪が潜んでいる。ゆえに神は、神に対して「頑張ります」と言うことを拒まれる。ならば、どうすれば「頑張ります」という生き方とは縁を切り、自分にできることをするようになれるのだろう。加えて言うなら、神に対しては「頑張ります」ではなく、「自分にできることをすればいい」というのであれば、一体何を目指して生きればよいのだろう。最後に、そうしたことを見てみよう。
【何を目指せばよいか】
(1)神の愛を受け取る
イエスは埋葬の用意にと、前もって油を塗ってくれた女性を見て感動された。その感動の理由は、「この女は、自分にできることをしたのです」(マルコ14:8)であった。この女性は、「頑張らなければならない」という思いを抱くこともなく、ただ自分にできることをしたのでイエスは感動された。ならばこの女性は、どうしてそのような生き方ができるようになったのだろう。その経緯を追ってみよう。
この女性は、かつてイエスが涙されるほどの不信仰の罪を犯したマリヤであった。ある時、マリヤは兄弟のラザロが病気になったので、イエスに助けを求めた。ところが、イエスはラザロが死んでから来られたので、いくら何でも手遅れだと激しくつぶやいた。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:32)。イエスはそのつぶやきに対して涙を流されたが、そのあと、何とラザロをよみがえらせたのである。
それを目の当たりにしたマリヤは、自らの不信仰に気付いた。それで魂が叫んだ。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と。するとイエスは、マリヤをはじめそこにいた人たちに、よみがえったラザロに巻かれていた布をほどいてやりなさいと優しく声を掛けられた。つぶやいたマリヤを責めることなく、そのことはなかったかのように接せられたのである。
このことを通してマリヤは知った。イエスが涙されるほどの罪を犯したにもかかわらず、それでも愛されていることを。マリヤは、この神の「全き愛」を素直に受け取った。そうなると、もう「神のために」頑張って愛されようとすることなどできなくなった。ただただ神に感謝したいという思いしか持てなくなった。それでマリヤは、イエスに香油を塗ったのである。「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった」(ヨハネ12:3)。イエスはそのことに感動され、「この女は、自分にできることをしたのです」となった(参照:福音の回復(33))。
このように、この女性が「頑張ります」という生き方と縁を切ることができたのは、自らが罪人であることに気付き、魂が神にあわれみを乞うたからである。そして、こんな罪人であっても、罪を赦し愛するという神の「全き愛」を素直に受け取ったからである。すなわち、神の前に罪を言い表し、罪が赦される「全き愛」を受け取ればよいのである。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
罪に気付くたびにこれを繰り返し、多くの罪が赦される体験をしていけば、人は多く神を信頼し愛するようになっていく。感謝の思いしか持てなくなり、「頑張ります」という生き方とは縁を切ることができる。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
つまり、私たちが目指すべきは自分の罪に気付き、罪が無条件で赦される神の「全き愛」を受け取ることに尽きる。このことを、今度は人の「つらさ」という視点から見てみよう。
(2)人をつらくさせるもの
人をつらくさせるものは何だろうか。それは、自分をそのままで受け入れられないことである。別の言い方をするなら、不完全で罪深い現実の自分を「愛せない」ことが人をつらくさせている。それだけではない。自分を「愛せない」から周りの人も「愛せない」。そのことが「つらさ」に拍車を掛ける。人は神に似せて造られ、人の本質が「愛する」ことを欲するので、「愛せない」ことが人をつらくさせてしまう。
無論、人は「つらさ」を覚えれば、そこから逃れようとする。それは、何としても自分を愛せるようになることを意味するので、人は必死になって自分を受け入れようとする。自らが思い描く自分を目指し、それでもって自らを受け入れ愛そうとする。自らが思い描く自分とは、人から愛される自分を指すので、ここに「頑張らなければならない」という思いが生まれる。「頑張る」とは、まさしく自らの行いでもって別の自分になり、その自分を受け入れようとする試みにほかならない。
しかし、こうした試みはすべて失敗する。ならば、どうすれば自分を受け入れられるようになるのか。それには、先に受け入れられている自分を知るしかない。神に無条件で受け入れられている自分を知り、それを受容することでしか自らを受け入れられる術はない。それでイエスは、神は罪人を無条件で受け入れることを「放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)え」で教えられた。自分の罪深さに気付き、自分を受け入れることなどできなかった放蕩息子に対し、そうであっても無条件で受け入れる神の愛を教えられた。
すなわち、私たちが自分を愛せるようになる術は、神の「全き愛」を受け取ることしかないのである。罪人であっても愛するという、神の「全き愛」を受け取るしかない。この愛を受け取り自分を愛せるようになれば、その程度に応じて隣人も愛せるようになり、愛せないことで生じていた「つらさ」からも解放されていく。これを罪がきよめられるといい、罪が癒やされるという。イエスは「放蕩息子の譬え」で、そうしたことを教えようとされた(参照:福音の回復(49)後編、(52))。
このように、人の「つらさ」という視点から見ても、私たちが目指すべきは、「神のために頑張る」ではなく、無条件で愛すると言われる神の恵みを受け取ることだと分かる。神が罪人であっても受け入れてくださっている自分を、自らも受け入れるのである。それが、神と人を愛する愛を回復させ、「愛せよ」に集約された神の律法を成就することにつながる。イエスはそのことを教えるために、神と人との関係を、病人と医者にも譬えられた。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)
病人は医者から受け取るだけの立場であり、医者のために何かするという立場にはない。病人が目指すのは、どこまででも治療である。人も同様に、神に対しては、神の治療を受けることを目指せばよい。では最後に、それを目指すことで間違いないか、パウロの生き方を通して確かめてみよう。
(3)パウロが目指したもの
パウロを見ると、命懸けで福音を語り、神のために頑張って生きていたように思える。たが、パウロは神のために頑張ったのではなく、神の恵みを受け取ろうとしたのである。
「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」(Ⅰコリント9:23)
パウロは、なぜ自分は福音を伝えるのか、それは神のためではなく、「私も福音の恵みをともに受ける者となるため」だと言った。その福音とは、神が無条件で人を愛するという「全き愛」である。パウロは、自分はもっと「全き愛」の恵みを受け取りたいから、すべてのことを福音のためにすると言ったのである。パウロは、まさに神の治療を熱心に求めた生涯であった。自らは罪人であっても神に受け入れられている自分をさらに知り、自らを愛せるようになることを目指したのである。ゆえにパウロは、こう告白している。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)
パウロは、まことに「手」としての自分の姿を受け入れ、「手」としての姿で生きようとした。その「手」の姿は、神の律法も守ろうとするが、罪の律法にも従ってしまうというものであった。そうであっても、神に無条件で愛されていることを知り、ありのままの自分を愛することを目指した。そのために、「私はすべてのことを、福音のためにしています」と言った。それはこういうことである。
すべてのことを福音のためにするというのは、いつの時代も最も困難なチャレンジである。それは命懸けの仕事である。しかし、最も困難なことに挑めば、「手」は自分の限界を知ることができる。自分の罪深さも知ることができる。それは、自分の「弱さ」を知ることを意味する。そうなれば、その「弱さ」に働く、神の「全き愛」という恵みを切実に求められるようになる。喉が渇けば水を欲するように、神の恵みを求めるようになる。つまり、パウロはすべてのことを福音のためにすることで自分の「弱さ」を知り、神の恵みを受け取ることを目指したのである。だからパウロは、自らの体験を次のように語っている。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
このパウロの証しからも、必要なのは頑張ることではなく、自分の「弱さ」に気付き、神から恵みを受け取る「勇気」であることが分かる。イエスはそのことを、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と叫んだ取税人が義とされ、「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:12)と、一生懸命頑張ったパリサイ人は義とされなかったという譬えで教えられた。まさしく神と人との関係は「ぶどうの木」と「枝」であり、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)、神から恵みを受け取ることを人は目指すだけでよい。
このように、人は神に対し、「頑張らなければならない」という思いを抱く必要などない。神に対しては、ただ神の恵みを受け取っていけばよい。私たちは神の「枝」であって、いつも神と一緒に生きている。何があろうとも神に受け入れられていて、神に愛されている。この事実を知り、罪深い自分を受け入れるなら、「頑張らなければならない」という思いから解放され自由になる。自らを追い込むこともなく、できることをする自分に変わっていく。神は、そうした人の姿を望んでおられる。
賛美グループノアが作った曲に、「がんばらなくっていいのさ」というのがあるが、まさに人は頑張らなくてよい。ただ、いつも共におられるイエス・キリストと一緒に生きていくだけでよい(参照:http://www.noah-music.tv/cd_inori4.htm)。
「がんばらなくっていいのさ」 作詞作曲:ノア
このままの私を イエス様は好きだから
点数稼ぎなんて意味がない イエス様の前では
がんばらなくっていいのさ イエス様と笑って生きよう
罪赦し 新しく変えてくれた イエス様に感謝しよう
イエス様が私に与えてる賜物を 生かして生きてゆこう
イエス様が助けてくれるから
がんばらなくっていいのさ イエス様と笑って生きよう
いつだって微笑んで見守っている イエス様を愛していこう
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