「闇の中に光を見た」
~闇となった~
誰もが いつ訪れるか分からない死に「不安」を覚えている
誰もが 自分は愛されるだろうかと「不安」を覚えている
誰もが 自分の罪が裁かれはしないかと「不安」を覚えている
── こうして 「不安」は人々の自由を奪った
誰もが 自分を愛せずに「つらさ」を覚えている
誰もが 人を愛せずに「つらさ」を覚えている
誰もが 自分の運命を愛せずに「つらさ」を覚えている
── こうして 「つらさ」は人々の自由を奪った
誰もが 自分がどう思われるかと「恐れ」を抱く
誰もが 将来どうなるかと「恐れ」を抱く
誰もが 一歩踏み出せるかと「恐れ」を抱く
── こうして 「恐れ」は人々の自由を奪った
誰もが 体の「制約」に苦しむ
誰もが 能力の「制約」に苦しむ
誰もが 環境の「制約」に苦しむ
── こうして 「制約」は人々の自由を奪った
誰もが 「不完全」な自分に絶望していく
誰もが 「不完全」な家族に絶望していく
誰もが 「不完全」な社会に絶望していく
── こうして 「不完全」であることが人々の自由を奪った
誰もが 自由を奪われてしまった
誰もが 思い描く自分とは違った
誰もが 朽ち果てていく自分を見守るしかなかった
── こうして 世界は「闇」となった
~人の自由~
しかし 驚くことに それでも自由があった
誰もが 自由を持っていた
それは 「ことば」であった
誰もが 永遠に生きる自分を「ことば」で描けた
誰もが なりたい自分を「ことば」で描けた
誰もが 愛に満ちた世界を「ことば」で描けた
──「ことば」には 恐ろしいほどの自由があった
誰もが 自由を奪う家族に「ことば」で反抗した
誰もが 自由を奪う相手に「ことば」で抗議した
誰もが 自由を得ようと「ことば」で戦った
──「ことば」には 恐ろしいほどの希望があった
それでも 人々は自由を手にできなかった
それでも 人々は死の陰を歩きつづけた
それでも 人々は「闇」の中から抜け出せなかった
── こうして 誰もが「自由」を待望するようになった
~大きな光を見た~
「闇」の中を歩んでいた民は 大きな光を見た
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:2)
民は見た 人を自由に愛し 敵さえも愛する方を
民は見た 恐れを平安に変え 運命を希望に変える方を
民は見た 肉体の死をも乗り越え よみがえられた方を
この方は 誰もが待望した「自由」であった
この方は 誰もが持っていた「ことば」であった
この方は 誰もが待ち望んだ「神」であった
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)
民は知った 自分の中にあった「ことば」はこの方だったと
民は知った 自分はこの方によって造られていたのだと
民は知った すべてのものはこの方によって造られていたと
「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハネ1:2、3)
まことに この方には「いのち」があった
この「いのち」こそ 自由を与える「光」であった
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1:4)
この「光」が 「闇」の中に輝いた
「闇」はもはや この「光」には打ち勝てなかった
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)
その「光」は イエス・キリストと呼ばれた
「人の闇」
人は神に似せて造られました。そのいのちは、神のいのちを吹き込まれて造られました。「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)。そのため、人には本来、神と同じ自由があります。死に拘束されないで永遠に生きられる自由、見えるものに拘束されないで誰のことも愛せる自由があります。神は、誰であれ無条件で受け入れてくださるように、人にも、誰であれ無条件で受け入れることのできる自由があります。人はそのような者として造られました。人の「ことば」は、そうした自由を表現するものでした。
ところが、私たちの現状はどうなっているでしょう。永遠に生きることもできなければ、人を無条件に受容することもできません。本来人が持っていた自由が、そこにはまったくありません。あるのは自由を失った「肉の姿」です。まことに自由を表現するはずの「ことば」は、有名無実になっています。それどころか、自由を表現するはずの「ことば」が、自由を失った「肉の姿」を表現するために使われています。「自分なんか何の価値もない」とか、「お前なんか嫌いだ」とか、無条件で人を受け入れられなくなったことを口にしています。これが、私たちの現状です。
それでも、人が神に似せて造られた「良き者」であることに何ら変わりはないので、神からの自由を表現する「ことば」は働いています。人は自由を失っても、「ことば」で自由な自分を思い描くことができます。ただそのせいで、現実の自分と思い描く自分とがあまりに掛け離れていることに、人は苦しむようになりました。
中でも人を苦しめているのが、人を愛したくても愛せなくなったことです。愛しているという「ことば」を、自分にも家族にも、周りの人にも、心から言えなくなったことです。無条件で愛せる自由を制約され、人を愛せなくなってしまったことが人を最も苦しめています。自分を受け入れたくても自分を愛せない、自分を愛せないから人も愛せない、これこそが人を苦しめる「闇」です。
人は、やがて訪れる「死」が最大の苦しみだと思っていますが、実際はそうではありません。考えてみてください。仮に死がなく、永遠に生きられたとしましょう。しかしそうなると、人を愛せないという苦しみが解決していなければ、その苦しみが永遠に続くということになります。人に嫉妬し、人を憎み、人を愛せないという地獄のような苦しみが終わらないということになります。それなら、その苦しみを終わらせてくれる死は歓迎すべきものになります。
つまり、やがて訪れる「死」が人の苦しみの頂点ではないということです。自由に人を愛せないことこそ、そう、愛する自由を失ったことこそが、人を苦しめている頂点の「闇」なのです。その「闇」は、次のような経緯で誕生しました。
「闇の誕生」
人の中心には神の「いのち」があります。神の「いのち」は、何ものにも制約されない「自由」です。ところが、その昔、悪魔の仕業によりアダムは罪を犯してしまい、それ以降、人は神との結びつきを失ってしまいました。その結果、神からの「自由」は後ろ盾を失い、実現不可能なものになってしまいました。人の体には死に拘束されない「自由」があったのに、朽ち果てる姿になり、心には誰でも愛せる「自由」があったのに、神の愛が見えなくなったことで愛する力を失ってしまいました。
こうして、人の「自由」には信じがたいほどの制限が掛かってしまいました。その姿は、「ことば」で思い描く「自由」な姿とは掛け離れ、限られたことしかできない、まことに「不完全」なものでした。この違いに、人は言いようもない「不安」を覚え、自分をまったく愛せなくなってしまったのです。
そこで人は、自分を愛せなくなった「不安」から逃れようと、自分の描く「完全」な自分を目指すようになりました。必死になって良い行いを目指し、自分の能力を育て、自分の外側を美しくし、周りの期待に応えようとしました。そのことで「完全」な自分になり、自分を愛そうとしました。
しかし、どんなに頑張っても体は衰えていき、どんなに頑張っても能力も美しさも枯れていき、周りの期待にはとても応えられませんでした。思い描く自分はますます遠のき、そこに待っていたのは、さらに受け入れられなくなった「不完全」な自分でした。
それだけではありません。「完全」な自分を目指せば目指すだけ人の「不完全」さも気になり、人も愛せなくなりました。さらには、「完全」な自分を目指せば目指すだけ人の目も気になり、何をするにしても人の目に怯(おび)えるようになりました。
このことで、人の中心にあった愛する「自由」はさらに力を失い、何をしようと自分も人も愛せない、みじめな者になってしまいました。それに加え、人は周りの目を自分の主人とし、それに仕える熱心な奴隷になってしまいました。自分が良く思われることに熱心になり、周りの目が恐怖となりました。人を苦しめる「闇」は、こうして誕生したのです。
誰もがこの「闇」のせいで、こんな「不完全」な自分は、もう誰にも愛されないと思うようになり、堅い殻に閉じこもっています。誰もが「不完全」な自分に絶望し、そんな自分を受け入れられないまま苦しんでいます。ところが、そんな「不完全」な自分を受け入れてくださる方が現れました。その方により、人は愛せないという「闇」に打ち勝つことができるようになりました。
「闇に打ち勝った」
その方とは、イエスと呼ばれたキリストです。その方は、罪人であっても、そのままで愛してくださり、罪人のために、いのちさえも惜しまれませんでした。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
イエスは、誰もが愛される価値などないと言って見下げる「不完全」な者を、心から愛されました。人の「不完全」さを裁くことなく、むしろ無条件で受容されました。そのことで、人を苦しみの闇から救い出し、こう言われました。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
人はイエスを見て、ようやく気付きました。この方こそ、待ち望んでいた救い主キリストであったと。人に自由を思い描かせる「ことば」となって、昔から人を背負い、人を愛してこられた方であったと。人が苦しむときには、一緒に苦しんでこられた方であったと。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)
キリストは、まさしく人の思い描いてきた「自由」、すなわち「ことば」の源泉でした。キリストが「ことば」であり、その上に人は建てられていました。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:1~3)
人はキリストの上に建てられていたので、何があろうとも見捨てられません。キリストは、最後まで味方になってくださいます。その証しが、キリストの十字架でした。それは、私たちの罪を背負い、それを癒やすための十字架でした(参照:福音の回復(49))。
キリストの十字架を見上げるとき、人は自分を「不完全」なままで受け入れてくださっている「全き愛」を知ることができます。それを知れば、キリストに受け入れられている自分を受け取る勇気が得られます。キリストに愛されている「不完全」な自分を、自らも受け入れられる勇気が湧いてきます。自分だけではなく、「不完全」な人も受け入れられる勇気がこみ上げてきます。この勇気が、今まで愛したくても愛せなかった苦しみの「闇」に打ち勝たせてくれます。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)とは、そういう意味です。このことを証しした、パウロという人がいました。
「パウロの証し」
パウロは、良い行いができる自分を目指しました。「完全」な自分を目指し、そのことで自分を受け入れようとしました。「完全」な自分になることで、神にも受け入れてもらえると信じ、頑張りました。ところが、「完全」な自分を目指し、神の律法に従おうとすればするだけ、それができないみじめな自分と出会うようになりました。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)
彼は、自分に絶望しました。しかし、その時、大きな光が差し込んできました。こんな罪人であっても、行いとは関係なく自分を愛してくださる方がいることを天から教えられたのです。その方はイエス・キリストであり、自分のためにいのちさえ惜しまなかったことを知りました。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
パウロは、神の恵みは「不完全」な者を受け入れる愛であり、「弱さ」のうちに働くことを知りました。自分が排除しようとしてきた「弱さ」(不完全さ)こそ、自分の誇りであったことを知り、自分を「弱さ」のままで受け入れられるようになりました。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
パウロは、「弱さ」を抱えた自分を受け入れることができたとき、人の目が気にならなくなって「強く」なる自分を知りました。それで彼は、自分の「弱さ」を知ることができる、侮辱、苦痛、迫害、困難にも甘んじることができるようになりました。
「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:10)
こうしてパウロは、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えてしまうような「不完全」な自分であっても、その「弱さ」のまま自分を受け入れられるようになり、そのことを神に感謝したのです。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:24、25)
パウロは「不完全」な自分を受け入れることができたことで、周りの人の「不完全」さも受け入れられるようになり、愛せないという「闇」から解放されました。本来、持っていた愛する「自由」を取り戻すことができ、そのことの喜びを声高らかに証ししました。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)
パウロの証しを聞いた人々は、イエス・キリストの「全き愛」を知り、その十字架に目を向けました。すると、彼らも「不完全」な自分を受け入れられるようになり、愛する自由を取り戻すようになりました。こうしてパウロの証しは、まことに良き知らせとなり、瞬く間に世界を駆け巡りました。ここから、クリスマスが始まっていきます。
「クリスマスの始まり」
世界を駆け巡った良き知らせにより、人々は、昔から「ことば」で思い描いてきた「自由」な自分がキリストによって実現されることを知りました。闇の中に輝く光を、人々は見たのです。闇はもう、この光に打ち勝つことなどできなくなりました。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)
キリストは世界中で闇に輝く「光」となりました。そしてキリストは、今もこう呼び掛けておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
キリストが言われる重荷は、まさしく「完全であれ」という思いです。「完全」であろうとするから、自分も人も愛せません。「完全」であろうとするから、「不完全」な自分も人も赦(ゆる)せなくなり、憎しみを覚えてしまいます。自分を嫌い、人を嫌うようになります。こうして、人は愛する自由を失い、苦しみのどん底に落ちていき、キリストが言われた「疲れた人」になります。だとしても、心が「完全であれ」と叫んでしまう重荷を、自力で下ろすことなどできません。
そこでキリストは、「不完全」な罪人のために十字架に架かられました。ご自分が「不完全」な人を受け入れ愛するからと十字架に架かられ、わたしが十字架で受け入れたあなたを、あなたはただ受け取ればよいと言われます。それにより、長年の重荷となっていた、「完全であれ」という不可能な叫びを下ろすことができます。
実際、数え切れない人たちが、十字架に架かられたキリストの打ち傷により、自らの重荷を下ろすことができました。自分を愛し、人を愛せるようになりました。彼らはそのことの喜びからキリストに感謝し、キリストの誕生を祝うようになりました。それが、クリスマスの始まりです。それは、「不完全」な自分が、キリストに愛されていることを知ったことへの感謝なのです。
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