キリスト者にとっての希望、それは一体何だろう。キリスト者は、何を希望に生きるのだろうか。何がキリスト者の喜びとなるのだろう。新年最初のコラムは、「キリスト者の希望」について語ってみたい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【誤った希望】
(1)天国に行けること?
キリスト者であるクリスチャンに、「あなたの希望は何ですか?」と尋ねれば、決まって「天国に行けること」と答える。それを希望に生きていますと言う。要は死んでも復活し、神と一緒に暮らせるようになることが希望だと言う。しかし、それが本当にキリスト者の希望なのだろうか。今回の話は、この疑問から始まる。
結論から言うと、それは希望ではない。なぜなら、キリストにつぎ合わされたキリスト者は、かつてキリストが十字架の死から復活されたことによって、自分たちも復活できることが保証されてしまったからだ。
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ6:5)
ゆえに、「天国に行けること」はもう現実となった話であって、希望ではない。でなければ、私たちの宣教は実質のないものになり、信仰も実質のないものになってしまう。
「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります」(Ⅰコリント15:14、15)
「天国に行けること」を聖書の言葉で言い表すと、それは「神の国」の実現ということになる。「神の国」とはキリストが王として座し、キリストと共に暮らせる場所である。人々が思い描く天国は、この「神の国」に相当する。昔から人々は、そうした「神の国」の実現に希望を持ち、いつ、どのようにしてそれが実現されるかに心を奪われてきた。その事情は、今も昔も変わらない。かつてイエスは、そうした人々から、「神の国」はいつ来るのかと質問を受けたことがあった。そこでイエスは、次のように答えられた。
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20、21)
イエスは何と、すでに「神の国」は私たちのただ中にあって、実現していると言われたのである。確かに、神の呼び掛けに「応答」しキリスト者となったとき、死んでいたのがキリストにつぎ合わされ、生きる者となった。「魂」は復活し、キリストと共に生きるようになった。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)
それに伴い、私たちの内側はキリストが王として座す「神の神殿」となり、そこに御霊なる神が宿るようになった。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)
すなわち、神の呼び掛けに「応答」してキリスト者となった時点で、「神の国」が実現した。キリスト者の内側には「神の神殿」ができ、神との暮らしが始まっている。人の「魂」は、一足先に「神の国」での暮らしを始めている。それでイエスは、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われたのである。ただそれが見えていないだけであって、この事実に変わりはない。そうである以上、復活して「神の国」へ行き、キリストとの暮らしを始めることがキリスト者の希望になど、到底なり得ない。
このように、「天国に行けること」は希望ではない。すでに「神の国」が実現して神との暮らしが始まったのだから、「神の国」は希望ではなく「感謝」である。このことが希望となるのは、まだキリストの呼び掛けに「応答」していない者たちである。ならば、キリスト者の希望とは何なのだろう。
(2)神から賞を得ること?
キリスト者は言う。私の希望は神のために頑張り、神から賞を受けることだと。神にほめられ、神に愛されることだと。確かにこの世では賞を得ることを希望に頑張る。愛されることを希望に、一生懸命頑張る。しかし、これも私たちの希望ではない。なぜなら、これ以上ない賞をすでに神から与えられていて、私たちに対する神の愛が明らかにされているからだ。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
キリストは、ご自分のいのちを罪人のためにささげてくださった。これ以上ない愛を、私たちに与えてくださった。この愛こそ、人が受けられる最高の賞であり、それを受けることを、「義」とされるという。キリスト者は、この最高の賞をすでに受け取っている。そのことを知るなら、私たちの希望が神のために頑張り、神から賞を受けることには決してならない。しかし、それが希望になってしまうのは、いまだ「義」とされた最高の賞に気付いていないためだ。とはいえ、気付かないのはある程度仕方がない。そのことを説明しよう。
この世界では、「うわべ」で人の価値を判断する。そのため、誰もが完全な「うわべ」を目指し、完全な自分になろうとする。誰もが人生を白か黒かで判断し、少しでも完全になろうとする。そのことで賞を得、愛されようとする。そうした世界で暮らしているため、神と人との関わりも同様に考えてしまう。自分が完全にならなければ、神からの賞も愛も受けられないと思ってしまうのである。そこで神のために頑張り、少しでも神が言われることができる完全な者になろうとする。そのことで神からの賞を得、愛されようとし、それを希望に生きる。こうした人のさまを、イエスはパリサイ人に重ね、彼はこう祈ると言われた。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:11、12)
パリサイ人は祈りの中で、自分がどれだけ周りよりも完全な者であるかをアピールした。そうすれば神から賞が得られると思ったので、それを希望に頑張ったのである。だがイエスは、1人の罪人の祈りを取り上げ、彼はこう祈ったと言われた。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」(ルカ18:13)
この罪人は、逆に自らが「不完全」であることを告白し、神にあわれみを乞うたという。そしてイエスは言われた。神が受け入れるのはこの「不完全」な者であって、自分を高くし「完全」とするパリサイ人ではないと。「義」とされる賞を得たのは、この罪人であったと。
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:14)
ここでイエスは、私たちがキリスト者になれたのは、この罪人と同じ「不完全」な者であったからであり、キリスト者はすでに「義」とされる最高の賞を得ていることを教えられたのである。キリストは、この賞を私たちに与えるためにご自分のいのちをささげられた。ということは、キリスト者はすでに、神が持つすべてのものを与えられているということになる。
残念なことに、キリスト者の多くは、この事実に気付いていない。神が持つすべてのものを、すなわち神のいのちまでもが与えられているという事実をまったく知らない。知らないから、神のものを受け取ろうとしない。神の恵みを拒否してしまう。そうするのは勝手だが、神が持つすべてのものがすでに与えられている以上、神からの賞を期待しても何もない。何もない以上、神からの賞は希望になどなり得ない。そのことは、イエスが言われた「放蕩(ほうとう)息子」の譬(たと)えを見ればよく分かる。その中で、すでに神と共に暮らす兄に対し、つまりキリスト者に対し、神はこう言われた。
「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ』」(ルカ15:31)
なぜこう言われたかというと、この兄は弟が手にした祝福に嫉妬し、自分は弟よりも頑張って働いてきたので、それなりの褒美がほしいと訴えたからである。キリスト者が、自分はこれだけ神のために頑張ったので、何か賞を下さいと言うようなものである。それに対する返答が、「私のものは、全部おまえのものだ」であった。
このように、キリスト者には神のものが全部、すでに惜しげもなく与えられている。「義」とされる最高の賞が与えられている。何があっても見捨てない愛をもって、愛し続けてくださっている。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)。そうであるから、神から何かを得るということは、すなわち神に愛されることはキリスト者の希望になどなり得ない。ならば、キリスト者の希望とは一体何なのだろう。
(3)問題が解決すること?
するとキリスト者は言う。私の希望は、自分の問題が解決することだと。確かに私たちは問題にぶつかると神に祈る。祈るから、解決されることが希望となる。だがそこには、見落としてはならない事がらがある。それは、私たちはすでに、問題の解決を手にしているということだ。望んでいる事がらの保証を、すでに「信仰」で手にできる状態にある。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)
「信仰」で手にする問題の解決、すなわち望んでいる事がらとは、ほかでもない「平安」である。なぜなら、人の問題の核心は困難な出来事にあるのではなく、そこから生じる「不安」にこそあるからだ。故に、問題の解決の核心は、「平安」を得ることでしかない。その「平安」を、イエスは私たちに与えると約束し、それを実行された。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)
イエスが約束された「平安」とは、御霊なる神であり、助け主と呼ばれる聖霊が与えられることであった。イエスはその約束を実行し、キリスト者に聖霊を与えられた。この方が、イエスの語られた言葉を私たちに思い起こさせ、「平安」をもたらしてくださる。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)
そして、キリスト者は聖霊の宮であって、すでに聖霊に捕らえられている。このことにより、キリストの「平安」は実現した。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:19)
すなわち、問題の核心となる「不安」の解決は、すでに与えられているのである。あとは、そのことに気付くだけとなる。この事実に気付かせる働きをするのが「信仰」となる。故に、問題の解決がキリスト者の希望になどなり得ない。すでに解決が与えられているのだから、それは希望ではなく「感謝」である。
となれば、一体何がキリスト者の希望なのだろう。キリスト者は、一体何を希望に生きていけばよいのだろうか。それは、イエス・キリストとの交わりであり、それが唯一の希望となる。私たちに与えられている希望、すなわち私たちにある「可能性」は、イエス・キリストとの交わりしかない。その「可能性」のために、人は造られている。この世で富や名誉を得るためでも、不死身の体となって永遠に生きるためでもない。では、その真の希望について詳しく見てみることにしよう。
【真の希望】
(1)永遠のいのち
人は、神との交わりの中で生きるように造られた。その交わりは、友と呼ばれるような親密な交わりである。故にイエスは、「わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)と言われた。つまり、人の中にある「可能性」は、神との間で友と呼ばれるような親密な交わりができるようになることであり、そこにこそ希望がある。イエス・キリストとの交わりを深めていき、神への信頼を増し加えていくことがキリスト者の希望となる。
この希望のことを、聖書は「永遠のいのち」と言っている。私たちは「永遠のいのち」というと永遠に生きられる命のことを想像するが、聖書が教える「永遠のいのち」とはイエス・キリストご自身を指す。従って、この方に接ぎ木され、イエス・キリストが信じられるようになることを、イエスは「永遠のいのち」を持っていると言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47 新改訳2017)
人はイエス・キリストに接ぎ木されるから永遠に生きられるのであって、永遠に生きられる命のことを「永遠のいのち」と言うのではない。「永遠のいのち」とは、あくまでもイエス・キリストを指し、「永遠のいのち」が与えられるとは、イエス・キリストに接ぎ木されることをいう。その結果、イエス・キリストを深く知ることが可能になる。これが「永遠のいのち」である。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)
従って、キリスト者の希望は「永遠のいのち」であり、それはイエス・キリストを知り、その方と交われるようになることを指す。この希望は、イエス・キリストからしてみれば、ご自分の羊がご自分とつぎ合わされることで「いのち」を得、それを豊かに持つようになることを意味する。だからイエスは、こう言われた。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)
つまり、神の福音が証しするのは「永遠のいのち」であり、それはイエス・キリストである。神の福音は、その方との交わりを伝える。
「このいのち(イエス・キリスト)が現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのち(イエス・キリスト)を、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。・・・私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:2、3 新改訳2017) ※( )は筆者が意味を補足
「永遠のいのち」は、誰であれ求める者には与えられる。だからイエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11:9)と言われた。求める者に、イエスは「永遠のいのち」を与えると言われたのである。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」(ヨハネ10:28)。故に、「永遠のいのち」は神の下さる賜物となる。「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。
この賜物が与えられた者は、イエス・キリストとの交わりが可能になるので、今後は、その方と交わっていくことが希望となる。言い換えれば、「永遠のいのち」であるイエス・キリストに至る(近づく)ことが希望となる。それで聖書は、こう教えている。
「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです」(ローマ6:22)
そもそも人の「魂」は神のいのちを吹き込まれて造られたので、「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)、神との交わりを慕い求めている。「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます」(イザヤ26:9)。故に、「永遠のいのち」であるイエス・キリストに接ぎ木されたなら、その方に行き着く(近づく)ことが「魂」の「希望」となる。
このように、キリスト者の希望は「永遠のいのち」である。キリストとの交わりである。さらに言うと、天国に行けることも、賞が得られることも、問題が解決することも、「永遠のいのち」が与えられたことで現実のものとなり、希望の座から「感謝」の座に移ってしまった。希望の座には、「永遠のいのち」が座るようになった。イエス・キリストとの交わりが、希望の座に君臨するようになった。ならば、イエス・キリストと交わるとは、具体的にはどういうことなのかを考えてみよう。
(2)神との交わり
人と人との交わりは、一般に「言葉のキャッチボール」で行われる。言葉が語られ、それに応答し、また言葉が語られ、再び応答するという形で交わりが進行する。神とキリスト者の場合も、これに習う形で行われる。そして、神に語られた言葉に応答することを、「言葉を食べる」という。では、神との「言葉のキャッチボール」は、どのように行われるのだろうか。
神との「言葉のキャッチボール」は、神の言葉から始まる。その言葉は、聖書に書かれた御言葉による。そして、御言葉の中で一番の重さを持つのが神の「戒め」である。故に、神との交わりは、この「戒め」をもって開始する。その「戒め」は、こうであった。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」(マタイ22:37~39)
キリスト者になれば、この「戒め」からは逃れられない。神と交わるには、この神の言葉に応答しなければならない。それは、この「戒め」を実行することを意味する。そこでキリスト者は、まずは隣人を愛そうとする。自分自身を愛するように愛そうとする。しかし、そうすればするだけ、自分も隣人も愛せないという現実に出会う。神の「戒め」に逆らう罪に気付くようになる。こうして、神の「戒め」が書かれている聖書は、すべての人を罪の下に閉じ込めてしまう。
「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」(ガラテヤ3:22)
つまり、神との交わりは神が語られた「戒め」に応答することで進行するが、応答しようとすればするだけ罪に気付き、神との交わりは足踏み状態になる。故に、神との交わりを進行するには、気付いた罪を取り除くしかない。だとしても、自分の力ではどうすることもできないので、神にこう祈る。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)
実は、これこそが神の言葉を食べたときの「信実」な応答となる。「あなたが言われたことが実行できないので、どうか助けてください」、それが「信実」な応答となる。すると聖霊が働き、言いようもない平安に包まれ、次なる神の言葉が心に響いてくる。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
罪を赦すと言われる神の言葉を、聖霊が食べられるようにしてくださる。それにより罪が取り除かれていき、人を愛せるようになっていく。これが「キリストの恵み」である。まさしく神の「戒め」となる律法は、私たちに罪を気付かせ、罪を取り除く「キリストの恵み」へと導く養育係になる。
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラテヤ3:24)
こうして、足踏み状態にあった神との交わりは再開し、前進していく。このやりとりを繰り返すことで、すなわち律法によって多くの罪に気付き、多くの罪が赦される体験をすることで、神との交わりが深められていく。神への信頼は増し加わり、神を心から愛せるようになっていく。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
以上が、神との「言葉のキャッチボール」の実際であり、神との交わりになる。それは神の言葉で自分の重荷(罪)に気付き、それを下ろさせてくれる神の恵みを受け取るという形で進められる。神の恵みを受け取る働きをするのが「信仰」である。この交わりを、今度は別の視点から見てみよう。
(3)自由を得させる
悪魔の仕業によって、エバもアダムも罪を犯してしまった。そのことで、人の中に神と異なる思いが入り込んだ。その結果、人は神と1つ思いの関係を維持できなくなり、神とは「疎外」された関係になってしまった。それに伴い、土に帰るしかない有限の姿になった。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。エバとアダムが罪を犯したことで生じたこうした変化を、「死」という(参照:福音の回復(48))。
いずれにせよ、人は「死」のせいで、絶えず「不安」を覚えるようになった。神とは「疎外」された関係になったことで神の愛が見えなくなり、「不安」を覚えた。有限な姿となったことで肉体の死を思い描くようになり、「不安」を覚えた(参照:福音の回復(49))。
ただし、人は「不安」を覚えても、その原因までは知り得ない。心の奥底に横たわる「不安」の原因を意識することができない。神と「疎外」された関係になったから「不安」が生じるようになったとは、知る由もなかった。だから人は、自分が「不安」を覚えるのは自分が「不完全」だからだと勝手に思った。そこで、誰もが「完全」な自分を目指すようになった。それは、周りから良く思われる自分になることであり、誰もが周りの期待に応えることを「完全」な自分とした。その結果、周りの期待が「ねばならない」という律法となり、誰もが律法の奴隷になった。
ところが、律法に仕えれば仕えるだけ互いを比べるようになり、誰が周りの期待に応えられる「完全」な者であるかを競い合うようになった。そのことで、ますます「不完全」な自分を知る羽目となり、誰もが「不完全」な自分を赦せなくなった。それに伴い、周りの「不完全」な人も赦せなくなった。つまり、周りの期待に応えようとする律法は怒りを招き、「律法は怒りを招くものであり」(ローマ4:15)、互いを愛せなくさせてしまったのである。故に、周りの期待に応えようとする律法を、「罪の律法」という。
このように、この世界では誰もが「不安」を覚え、「罪の律法」に仕えている。そんな中、私たちは神の恵みにより「永遠のいのち」が与えられ、キリスト者になった。「罪の律法」に仕える中で、神が人に期待する「神の律法」を知るようになった。そうなると、「罪の律法」にも仕え、「神の律法」にも仕え、人からも神からも愛されることを目指すようになる。両方の律法に仕え、より「完全」な自分になろうとする。
しかし、そうすればするだけ、「神の律法」に応えられない自分が顕(あら)わになる。「愛せよ」という「神の律法」に逆らう自分と葛藤するようになる。なぜなら、周りの期待に応えようとする「罪の律法」は互いを競い合わせ、互いに愛せなくさせるからだ。キリスト者は「罪の律法」に仕えることで、「神の律法」に逆らうようになる。そうなると、こんなみじめな自分を誰が救い出してくれるのかと、神に叫ぶしかなくなる。実際、パウロはそう叫んだ。
「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:23、24)
これが、神の言葉に対する人の「信実」な応答である。すると聖霊が働き、十字架の意味を思い出させてくださる。それは、「不完全」な罪人を受け入れてくださる十字架であったことを。神は罪人を愛し、罪人と共に生きてくださる方であったことを。思い出すことで勇気が湧いてくる。今まで拒否し続けてきた「不完全」な自分を、神が受け入れてくださっているのだから、それでも良いと言ってくださっているのだから、神が良しとした「不完全」な自分を自分として受け入れようという勇気がこみ上げてくる。それにより、片方では「神の律法」に仕え、片方では「罪の律法」に仕えてしまう「不完全」な自分を、ようやく受け入れることができ、神に感謝する。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)
「不完全」な自分を受け入れられるようになれば、それに伴い「不完全」な人も愛せるようになる。そうなれば「不安」も緩んでいき、周りの期待に応えようとする「罪の律法」の奴隷からも解放されていき、まことの自由が得られる。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)
以上の経緯が、別の視点から見たイエス・キリストとの交わりだ。それは、神が語られる「神の律法」を通して「不完全」な自分と向き合い、すなわち見ようともしないで避けてきた自分の有り様と向き合い、それでも神に受け入れられていることを知り、その自分を受け入れられるようになっていくことである。そのことが「不安」を取り除き、人を「罪の律法」の奴隷から解放し自由を得させる。
このように、イエス・キリストとの交わりとは、人が自由になることを意味する。そして、この自由が人の「安息」となるので、神は聖書を通して次のように呼び掛けられる。
「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」(ヘブル4:1)
イエス・キリストとの交わりは、まさに自由を得させ「安息」へと導くのである。この「安息」こそ、神がアブラハムに約束された「カナンの全土」(創世記17:7、8)にほかならない。では、今の話をさらに別の視点からも見てみよう。
(4)「殻」から抜け出せる
人は誰であれ「不安」を覚え、そのせいで「不完全」な自分を受け入れるだけの「勇気」がない。とても自力では自分の有り様を受容することなどできない。それどころか周りの目を「恐れ」、人から良く思われる「殻」を身にまとい、その中に本当の自分を隠してしまった。「殻」に閉じこもり、人から良く思われる自分を演じるようになった。そのせいで「殻」が自分を苦しめる重荷となり、「殻」から抜け出せることが人の希望となった。それは、「不完全」である自分を、そのままで受け入れられるようになることを意味する。
そこでキリストは、「不完全」な自分を受け入れられない私たちに対し、わたしが「不完全」なあなたがたを受け入れるから来なさいと言われた。重荷となった「殻」を下ろさせてあげるから、わたしのところに来なさいと言われた。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
そして、「不完全」な私たちを受け入れることの証しに、すなわち罪人であっても愛していることの証しに、十字架に架かられた。そのことで、「不完全」な者を受け入れる「全き愛」は真実であることを明らかにされた。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
この「全き愛」を知ることが、「不完全」な自分を受け入れる「勇気」となる。「全き愛」を受け取ることで、人は「不完全」な自分を受け入れられるようになる。こうして、神の「全き愛」は、人から良く思われようと身にまとった「殻」を壊し、人の目に対する「恐れ」を締め出し、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)、「殻」から人を抜け出させてくれる。ここに至る行程がイエス・キリストとの交わりであり、そこには「殻」から抜け出せる希望がある。では、最後のまとめをしよう。
(5)キリスト者の希望
神と「疎外」された中にあっては、人は自分の弱さに出会うしかない。罪深さに気付き、「不完全」な自分と向き合うしかない。しかし、そんな自分を到底受け入れることなどできないので、人は本当の自分を「殻」の中に閉じ込めてしまった。それが人を苦しめている。
ところが十字架に目を向けるなら、「不完全」な自分に出会うたびに、それでも愛してくれるという神の「全き愛」を知ることができる。そのことで、「不完全」な自分を受容できるようになっていき、愛せなかった周りの人を愛せるようになっていく。それにより、「殻」から抜け出すことができ、自由が回復する。これが、イエス・キリストとの交わりである。聖書には、こうした交わりの実際が記されている。それを幾つか見てみよう。
ある時、姦淫の現場で捕まった女性がいた。本人は、こんな「不完全」で罪深い自分は誰も受け入れてはくれないと思った。ところが、イエスは彼女をそのままで受け入れ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)と言われた。何と、彼女の罪を赦されたのである。罪を問わないということは、「不完全」であっても受け入れるということを意味する。それにより、彼女も自分を受け入れる勇気を持つことができ、「殻」から抜け出すことができた。これが、彼女とイエス・キリストとの交わりである。
ある時、弟子のペテロはイエスが十字架に架けられる前、皆の前でイエスを知らないと言って裏切った。そんな「不完全」な罪深い自分を、もうイエスは受け入れてはくれないと思った。ところが、復活されたイエスは、そんなペテロであってもそのままで受け入れ、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と言われたのである。そのことで、ペテロも「不完全」な自分を受け入れる勇気を得、「殻」から抜け出すことができた。これが、ペテロとイエス・キリストとの交わりである。
ある時、パウロはイエスの弟子たちを殺そうとしていた。ところが、天からの光が彼を巡り照らし、彼はイエスこそが神だと知った。それは、「不完全」な罪深い自分を思い知らせたということでもある。そうではあっても、イエスはパウロをそのままで受け入れ、「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」(使徒9:6)と言われた。彼の犯した罪を問うこともせず、彼を受け入れ用いたのである。そのことで、パウロも「不完全」な自分を受け入れる勇気を得、「殻」から抜け出すことができた。それでパウロは、「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)と、自らの「不完全」さを堂々と告白できるようになった。これが、パウロとイエス・キリストとの交わりである。
すると、どうしてイエス・キリストは、「不完全」な私たちを受け入れてくださるのかという疑問が湧いてくる。しかし、その答えは簡単である。なぜなら、キリスト者の土台はイエス・キリストであるからだ。
「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(Ⅰコリント3:11)
私たちは、イエス・キリストという土台の上に存在している。イエス・キリストに、昔から背負われている。故に、イエス・キリストは何があろうとも見捨てずに受け入れてくださる。「不完全」であろうと、ご自分がその土台であるが故に共に苦しみ、受け入れてくださる。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)
ただ人の側が、この事実を知らない。だが、イエス・キリストとの交わりを通してこの事実を知るようになる。イエス・キリストとの交わりとは、まさしく「不完全」な自分であっても支えられ、受け入れてもらえる体験にほかならない。そのことで、本人も「不完全」な自分を受容できるようになっていき、「罪の律法」の奴隷から解放されていく。自由を得、「安息」に入っていく。故に、キリスト者の希望は、「不完全」であっても受け入れてくださるイエス・キリストとの交わりにこそある。
このように、キリスト者の「希望」は天国に行けることでも、愛されることでも、問題が解決することでもない。ただただイエス・キリストを知り、その方と交わり、何があってもその方に自分が受け入れられていると知ることにある。それを「永遠のいのち」に至るといい、キリスト者の「希望」は、まさしく「永遠のいのち」にこそある。
◇