5.惑わしの体験
(2)褒められた理由
前回に続き、自らの「経験」に惑わされ、「神の言葉」がふさがれてしまう体験をしてみたい。その前に、私たちが共通に積み上げてきた「経験」がどのようなものか確認しておこう。
それは、一言で言うなら「行い」で評価されるという「経験」である。私たちはできる限りのことをすれば褒められ、できることしかしなければ評価されないという「経験」を積み上げてきた。
そうした「経験」から、少しでも人から褒められようと、できる限りのことをするようにしてきた。今度は、そうした「経験」が「神の言葉」を読むときにどう影響するのかを体験してみることにしよう。
ここで取り上げる「神の言葉」は、イエスに香油を塗った女性をイエスが褒める様子を伝えている。イエスは、「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」(マルコ14:6)と香油を塗った女性を褒め、褒めた理由として、「この女は、○○○をしたのです」と言われた。
では、イエスが立派なことをしたと褒めた理由は、「A」であったのか、それとも「B」であったのか、次の二つから選んでみてほしい。この御言葉をすでに知っているかもしれないが、それは横に置き、あくまでも自分はどう思うかで選んでほしい。
「この女は、( )のです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(マルコ14:8、9)
A:自分にできることをした B:できる限りのことをした
ほとんどの人は積み上げてきた「経験」から、Bの「できる限りのことをした」を選ぶ。私たちの積み上げてきた「経験」は、褒められるためには「できる限りのことをしなければならない」とささやくからだ。
ならば、この箇所の日本語訳はどうなっているかというと、口語訳と新共同訳は「できるかぎりのことをした」と訳し、新改訳(改訂第三版)と新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店刊、2004年)は、「自分にできることをした」と訳している。意見が二つに分かれる。どちらが正しいのかは原文を見れば分かる。
空欄部分のギリシャ語を見ると、「エコー、ポイエオー」という二つの動詞が書かれている。「エコー」[ἔχω]は「持つ」「できる」といった意味の動詞で、もう一つの「ポイエオー」[ποιέω]は「する」「作る」「行う」といった意味の動詞である。
この二つの動詞は、ここでは過去の1回の動作を表す不定過去で書かれている。従って、素直に直訳すると、「持った(もので)、した」、あるいは「できた、した」となる。しかし、この直訳では分かりづらいので、聖書を翻訳する際は、分かりやすい文にするための文法解釈、日本語解釈などの作業が入る。
この時、人の「経験」がささやいてくる。「この女性はできる限りのことをしたから褒められた」と。そのささやきに従うと「できる限りのことをした」という訳になってしまう。
ところが、原文には「持った(もので)、した」、あるいは「できた、した」としか書かれていないため、「できる限りのことをした」と訳せば、原文に意味を付け加えたことになり、脚色したという非難は避けられない。
そうした非難を避けたければ、人の「経験」がどうささやこうが原文の意味を大切にし、「自分にできることをした」と訳すしかない。そういうわけで、異なる二つの訳が生まれた。
しかし、ギリシャ語の原文を見る限り、正解はAの「自分にできることをした」となる。今度は、この訳で間違いないかを聖書の教えから見てみよう。
神は、人が「できる限りのこと」をしなければ褒めないのだろうか。それとも、「自分にできること」をすれば十分なのだろうか。前者であれば、神に愛されるために頑張ろうという話になり、後者であれば、神に愛されようと頑張る必要などないという話になる。
イエスはこの女性に対し、「できる限りのこと」をしたから褒めたとなれば、人は頑張らなければ神に愛されないことになり、「自分にできること」をしたから褒めたとなれば、愛されるための努力など不要ということになる。
無論、愛される努力など必要ないことを聖書は教えている。良いことが何もできない罪人であっても、神は無条件で罪人を愛することを教えている。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
なぜ神は人を無条件で愛するのかというと、私たちは生まれながらに罪人であり、誰一人、神の前で正しいことなどできないからである。「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)。それゆえ、神は行いに関係なく、神を信じるだけで人を義とし救ってくださる。
「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)
ここで聖書は、誰であれ行いでは救われないことと、人が義とされるのは神の憐れみにすがる信仰だけであることを教えている。この教えから、人は「できる限りの行い」をすることで神に称賛され、義とされるわけではないことが分かる。
それは、神は人が何をしたかではなく、あくまでもその人の心をご覧になるということを意味する。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)。神にとって重要なのは人の「行い」ではなく、神に対する「愛」があるかどうかなのである。
「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(Ⅰコリント13:3)
神が見たいのは神に対する「愛」であり、それは罪が赦(ゆる)されたことの「感謝」から生まれる。イエスは香油を塗った女性の心に、神への「感謝」が満ちあふれているのを見たからこそ感動し、「自分にできることをした」と言われたのである。彼女の「行い」に感動したのではないので、「自分にできることをした」と言われた。
実は、この女性、死んでよみがえったラザロの姉妹マリヤであり(ヨハネ12:1~3)、彼女がイエスを心から愛し感謝するようになったのには、理由があった。それは、ラザロがよみがえるという奇跡にまでさかのぼる。その時の出来事を見てみよう。
ある日、ラザロは死んでしまった。死んだ後、イエスはマリヤの姉マルタに、「あなたの兄弟はよみがえります」(ヨハネ11:23)と言われた。しかし、彼女は信じなかった。そこでイエスは、かつて「神の言葉」を熱心に聞き入った妹のマリヤなら(ルカ10:38~42)、ラザロのよみがえりを信じられるだろうと思い、彼女を呼びに行かせた。
ところが、マリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:32)と言って、もう手遅れですとつぶやいてしまった。マルタもマリヤも、イエスの言葉を信じようとはしなかったのである。
そして、イエスは霊の憤りを覚え、涙を流された。「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。それから、イエスはラザロをよみがえらせた。
マリヤは、ラザロがよみがえるという奇跡を目の当たりにした瞬間、自らの不信仰の罪が照らされ、イエスが涙されたわけを悟った。自分は赦されない罪を犯したと思った。
しかし、イエスはその罪を何も責めることはせず、ラザロに巻かれていた布をほどいてやりなさいと、マリヤ同様に不信仰の罪を犯した人々皆に優しく言われた。マリヤはその優しい言葉を聞き、イエスに涙させるほどの罪を犯したにもかかわらず、罪が赦されたことを知った。
彼女はそのことの感謝から、イエスを心から信頼し愛するようになり、埋葬の用意にと香油を塗ったのである。確かにそれは高価な香油ではあったが、そこには、イエスに褒められようとする思いは全くなかった。何の見返りも求めてはいなかった。
あったのは、ただ罪が赦されたことへの「感謝」だけであった。この感謝こそ、神に対するまことの「愛」であり、イエスはそれをご覧になったので感動し、「この女は、自分にできることをしたのです」と言われたのである。これが事の真相であった。
この女性とは対照的だったのが、当時の弟子たちであった。弟子たちは、偉くなりたいという見返りを求め、一生懸命に頑張っていたからだ。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(ルカ9:46)
イエスを感動させようと、少しでも褒められる「行い」を目指していた。積み上げてきた彼らの「経験」が、「立派な行いがなければ神に愛されるはずがない。頑張らなければ、神は認めてくれない」とささやいてくるから、彼らはそうしたのである。
「罪人なんか愛されない」と自らの「経験」がささやいてくるから、「できる限りのこと」をしなければならないと思うようになり、弟子たちは「行い」でもって神の義を目指したのであった。これを「律法主義」という。
こうした「行い」は、一見すると神のためにしているようだが、それはあくまでも自分のためにしているのであって、神への愛ではない。イエスは、そうした弟子たちの誤りを何としても是正したいと思っておられた。そこで、香油を塗った女性に対し、あえて「自分にできることをした」と称賛されたのである。
このように、原文の意味から見ても、聖書の教えから見ても、「自分にできることをした」という訳が正解である。しかし、私たちの積み上げてきた「経験」は、神に認められるには「できる限りのこと」をしなければならないとささやき、誤った意味に訳させ、それを読む人たちにも、彼女のように高価な物をささげなければ、神は愛してくれないと思わせてしまう。
こうして、神からの祝福がいつの間にか「行い」に対する対価となり、無償で与えられる「神の恵み」の御言葉がふさがれてしまう。
以上で、「惑わしの体験」の話は終わるが、自らの「経験」に惑わされ、容易に御言葉がふさがれてしまうことが体験できたなら幸いである。前項で述べた「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・・」(ヨハネ15:2)の例もそうだが、人は自らの「経験」に容易に惑わされてしまう。
まことに戦うべき敵は、積み上げてきた「経験」で間違いない。そこで今度は、「経験」という、戦うべき敵の全貌を明らかにしてみよう。
◇