4. 御心に反する「経験」
人の脳には、積み上げてきた「経験」を基に、意味を補完する機能がある。「有名な外科医」と聞くと、人は「男性」を連想するが、そうした連想が脳による「補完機能」である。
ということは、積み上げてきた「経験」が御心に反するものであれば、脳は「神の言葉」に対して誤った意味を補完してしまう。そうなると、「神の言葉」は空文になり、「神の言葉」を食べているつもりでも食べていないという現象が起きてしまう。
では、私たちの積み上げてきた「経験」はどうなのだろうか。残念なことに、私たちの「経験」は御心に反しているとイエスは言われた。私たちの「経験」は、人から良く思われようとする「この世の心づかい」であり、富で安心を得ようとする「富の惑わし」であり、それが御言葉をふさいでしまうと言われた。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
つまり、私たちは自らが積み上げてきた「経験」に惑わされ、「神の言葉」が食べられない。これでは、罪を犯しても気付かないまま甚大な被害に遭ってしまう。そうしたことを詳しく見てきたが、ここからはさらに話を進め、ではどうして人は御心に反する「経験」を積み上げるようになったのかを考えてみたい。
人は神に似せて造られていたにもかかわらず、どうして神の思いに逆らうような「経験」を積み上げることができたのかを明らかにしたい。その疑問を解くカギは、まさに人に入り込んできた「死」にある。では、「死」とは何か、そこから話を始めよう。
(1)「死」とは何か
創世記2、3章には、人の生き方を大きく変えた出来事が詳細につづられている。それは、悪魔が蛇を使って人を欺き、罪を犯させ、そのことで人の中に「死」が入り込んだ出来事である。
創世記は、この「死」が、人の生き方に大きな影響を及ぼした様子を伝えている。それゆえ、「死」が何であるかが分かれば、どうして人は御心に反する「経験」を積み上げるようになったのか、その答えも見えてくる。
ただし、「死」を知ろうとすると、またしても積み上げてきた「経験」が誤った意味を補完してくるので注意がいる。「経験」に惑わされないようにするには、兎(と)にも角にも、聖書の言葉でその意味を探るしかない。その聖書に初めて「死」という言葉が登場するのが、神がアダムにされた注意の中だった。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)
ここで初めて「死」という言葉が出てくる。この「神の言葉」に対し、悪魔は人にこう言った。実を取って食べても、「あなたがたは決して死にません」(創世記3:4、5)と。悪魔は人を惑わし、「神の言葉」をふさごうとしたのである。
人は、その悪魔の言葉に欺かれ、食べても死なないと思って、実を取って食べてしまった。しかし、「神の言葉」は真実であるがゆえに、人は食べたことで死んでしまった。
すると、人は思う。アダムもエバも、実際は食べても死ななかったではないかと。この疑問こそ、脳の「補完機能」が引き起こしている。脳は、「死ぬ」という言葉を聞くと「肉体の死」という意味を補完してくるから、食べても死ななかったではないかとなる。
確かに、人の積み上げてきた「経験」では、人が死ぬというのは「肉体の死」を指している。そのため、彼らは食べても「肉体の死」には至らなかったことから、脳は、食べても死ななかったではないかという疑問を抱く。
しかし、もし本当に彼らが死ななかったとなれば、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われた神は嘘つきになり、「あなたがたは決して死にません」と言った悪魔が正しかったことになる。そんなばかげた話はないので、神が言われた「必ず死ぬ」とは、「肉体の死」ではなかったことが分かる。
この項の冒頭で、「死」とは何かを知ろうとすると、積み上げてきた「経験」が誤った意味を補完してくるので注意がいると述べたが、それはまさにこのことを言っていた。
では、神が言われた、食べたなら「必ず死ぬ」とは一体何だったのだろうか。神は食べるとき、「必ず死ぬ」と言われた以上、食べたときに起きた変化こそ、神の言われた「死」を意味する。その変化を、創世記は次のようにつづっている。
「・・・それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。・・・彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』」(創世記3:6~10)
彼らは食べた後、自分たちの姿が裸であることに気付いたという。それで、その姿を「恐れ」、腰のおおいを作って隠れたという。ということは、彼らは実を食べる以前は、裸であっても気にせず、恐れることなどなかったということになる。
これこそ食べたことで生じた変化であり、神が言われた「必ず死ぬ」である。問題は、この出来事が何を意味するかである。その意味を考えてみよう。
彼らは裸を見て恐れたとある以上、実を取って食べる以前の彼らは、裸であっても気にせず、恐れを抱くこともなかったことになる。それは、ありのままの姿で神に愛されていることを、彼らが十分に認識できていたということだ。
ところが、実を取って食べたとき裸を意識し、恐れたという。このことから、彼らは神に愛されていた自分たちを、全く認識できなくなったことが分かる。
それは、神との関係を失ったことを意味する。ゆえに、自分の裸を意識するしかなくなり、そのことの不安から恐れが生じたのである。これが、神が言われた、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)という出来事であった。すなわち、神の言われる「死」とは、神との関係を失うことであった。
しかし、これだけでは「死」の理解としては不十分である。確かに、神の言われた「死」とは、人が神との関係を失うことを指すが、そのことが一体どのような変化を人にもたらしたのかまで知らなければ、「死」を十分に理解したことにはならない。ただし、その変化を正確に知るには、神と人との関係が一体どのようなものであったかを知る必要がある。では、その関係を簡単に見てみよう。
神と人との関係は、次の御言葉から見えてくる。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。神は、人をご自分に似せて造られたとある。このことから、人は神の一部としての関係にあったことが分かる。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:15)
だから神は、人を造られるとき、ちりから人の「体」を造り、その「体」には神の「いのち」を吹き込まれた。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)
ここで「いのち」と訳されているヘブライ語は複数形で、三位一体の神の「いのち」を指している。「息」と訳されているヘブライ語は「魂」という意味にも訳されている言葉で、人の「魂」は神の「いのち」の一部として造られたことを表している。まことに、人は神の一部であり、神との関わりの中で生きる者として造られていた。
それゆえ神は、人の「魂」には「神の言葉」を食べさせ、その「魂」を支える「体」にも必要な糧を与え、人をご自分の一部として生かされた。従って、人は生きるために必要な糧を何も心配する必要はなく、ただ神を信頼し、委ねておけばよかった。一つ思いを共有し、神と共に生きることができた。これが、神と人との間にあった関係である。
人は、こうした神との関係を失ってしまった。すると、どのような変化が生じるだろう。言うまでもなく、人は神の一部として、神との関わりの中で生きられるように造られていた以上、その関係を失えば生きられなくなる。つまり、やがて朽ち果てていく「肉の体」へと変化してしまった。
人は、その「肉の体」が朽ち果てるまで顔に汗を流し、自らの手で生きるために必要な糧も確保しなければならなくなったのである。神は、こうした「死」による変化を、次のように言われた。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)
このように、「死」は神との関係を失うことをいう。人は神との関わりを失ったことで、神に愛されている自分が見えなくなって「恐れ」が生じ、やがて朽ち果てていく「肉の体」の「恐怖」におびえるようになった。さらには、自らの手で必要な糧も確保しなければならなくなった。
この一連の変化こそ、神が言われる「死」の全容にほかならない。この「死」が、アダムが罪を犯したことで入り込み、全ての人に及んだのである。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)。創世記は、その「死」について詳しくつづっている。
では、神との関係を失う「死」という出来事が、どうして神の思いに逆らう「この世の心づかい」や「富の惑わし」といった「経験」を積み上げることにつながったのか、次にそのことを見てみよう。
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