「序」
2. うちなる敵
人の問題は、心に必要な「神の言葉」が食べられないことにある。そのことが、人をつらくさせている。出来事が人をつらくさせているのではない。そして、人が「神の言葉」を食べられないのは、私たちのうちに「神の言葉」を食べさせない「うちなる敵」がいるからである。イエスは、その敵のことを詳しく教えている。ここでは、イエスが明らかにされた敵の正体について見ていきたい。
(1)敵の正体
イエスは、「神の言葉」を食べさせないようにする「敵」の正体を、「種蒔きのたとえ」の中で教えられた。それは非常に重要な内容であったので、人が誤解しないように丁寧に解説までされた。これは異例のことであり、イエスの例えにおいて、そこまで丁寧に解説されたものはほかにない。そうしたことから、三つの福音書がその内容を詳細に記載している。このことは、「敵」の正体を知ることがいかに重要かということを物語っている。では、その正体を、マタイの福音書の「種蒔きのたとえ」から見てみよう。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
イエスは、御言葉をふさぐ敵の正体を、「この世の心づかい」と「富の惑わし」だと言われた。マルコの福音書には、これに加え「いろいろな欲望」(マルコ4:19)とあり、ルカの福音書では「快楽」(ルカ8:14)が加えられている。三つの福音書では小さな差異が見られるものの、「この世の心づかい」と「富の惑わし」は共通している。「この世の心づかい」とは、表面的には人を気遣うことを意味する。一見すると、「この世の心づかい」は相手のことを思う良いことのようだが、しかしそれが「神の言葉」を食べさせないようにしているという。では、どうしてそうなってしまうのだろう。
考えてみてほしい。人が相手のことを思う「この世の心づかい」に走る本当の理由を。それは、人を気遣うことで、人から良く思われたいからではないだろうか。そうすることで、おいしい「人の言葉」を食べようとしているのではないだろうか。このことは、自分自身の心に手を当ててみればすぐに分かるはずだ。「この世の心づかい」の目的は、少しでもおいしい「人の言葉」を食べるためだということが。つまり、「この世の心づかい」というのは、乳のような「人の言葉」で心を満たそうとするための手段にほかならない。それ故、「この世の心づかい」は、確かにイエスが言われたように「神の言葉」を食べさせない働きをする。では、「富の惑わし」はどうだろう。
「富の惑わし」とは、少しでもお金を手にしたいという誘惑である。人は例外なく、お金を欲している。なぜなら、お金は生きていく上で不可欠であるからだ。安心できる衣食住を確保しようと思えば、お金は不可欠となる。だから、人は少しでも富を得ようと頑張り、富を手にすることで安心する。しかし、その生き方は、心を「富」に向かせはしても「神」には向かせない。これでは「神の言葉」が食べられない。それゆえ、「富の惑わし」は、確かにイエスが言われたように「神の言葉」を食べさせない働きをする。
このように、「この世の心づかい」も「富の惑わし」も、確かに「神の言葉」を食べさせない働きをしている。これこそ、敵の正体で間違いない。しかし、これが事実だとすれば、実に厄介な問題である。というのも、「この世の心づかい」も「富の惑わし」も、私たちの生き方そのものであるからだ。私たちは生まれながらに人から良く思われることを目指し、おいしい「人の言葉」で安心を得ようとする生き方をしてきた。生まれながらに少しでもお金を手にし、見えるもので安心を得ようとする生き方をしてきた。私たちは例外なく、今もそうした生き方をしている。ということは、私たちの積み上げてきた「経験」こそ、「この世の心づかい」であり「富の惑わし」にほかならないということになる。人の「経験」は人の中に住みついてしまっている以上、私たちの中に「神の言葉」を食べさせない「敵」が住みついていることになる。
これは、実に厄介な問題ではないだろうか。私たちは自らが積み上げてきた「経験」に惑わされ、「神の言葉」が食べられないのである。しかし、そう言われても、にわかには信じがたいだろう。だから、いかに「経験」が御言葉をふさぐかを、実際の例で確かめてみたい。そうすれば、容易に信じられる。
例えば、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という「神の言葉」がある。私たちが高価で尊く、神に無条件で愛されていることを教えたこの言葉を、私たちは素直に信じたいと思う。ところが、私たちの積み上げてきた「経験」では、人が無条件で愛されることはなかった。おいしい「人の言葉」を食べるには、相手の期待に応えなければならなかった。そうした「経験」を積み上げてきたので、神は私たちを無条件で愛していると言われても、そんなのは「うそだ!」という思いがやってくる。こうして、私たちの積み上げてきた「経験」が、「神の言葉」をふさいでしまう。この場合の「経験」は、人から良く思われ愛されようとしてきた「この世の心づかい」である。
例えば、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)という「神の言葉」がある。明日のことは何も心配しないで、神に委ねなさいと教えたこの言葉を、私たちは素直に信じたいと思う。ところが、私たちの積み上げてきた「経験」では、お金があってこそ明日の心配をせずに済んだ。それゆえ、明日のことは神に委ね、心配するなと言われても、そんなのは「無理だ!」という思いがやってくる。こうして、私たちの積み上げてきた「経験」が、「神の言葉」をふさいでしまう。この場合の「経験」は、お金を手にすることで安心しようとしてきた「富の惑わし」である。
すなわち、「神の言葉」を食べさせない敵の正体は、「この世の心づかい」であり「富の惑わし」である。それは、人が積み上げてきた「経験」にほかならない。「神の言葉」が「○」だと言っていても、その「経験」が「×」だとささやいてくる。結果、人は「神の言葉」が食べられず、「つらさ」を覚えてしまうのである。
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三谷和司(みたに・かずし)
神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。
新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美は全て著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。