「序」
1. 問題の提起
幼子と大人
クリスチャンは、神との関係が回復し、「神の言葉」が食べられる環境にある。にもかかわらず、多くの者は「神の言葉」を食べない。いまだに「人の言葉」で心を満たそうとしている。そのため、いつまでたっても「つらさ」から解放されないのである。聖書は、そうした現状を次のように教えている。
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです」(Ⅰコリント3:1、2)
聖書は、クリスチャンを二つに分類する。肉に属する「幼子」と、御霊に属する「大人」である。そして、その違いは食物にあるという。「幼子」は「乳」しか飲めず、「大人」は「堅い食物」が食べられるという。「乳」とは、噛むことを必要としない心地の良い食事を意味し、それは人の慰め、称賛といった「人の言葉」を指している。それに対して「堅い食物」とは、なかなか食べられず、それを自分の中で消化しきれない食物を意味する。それは、「神の言葉」にほかならない。というのも、例えば「神の言葉」は、汝の敵を愛せよと教えるが、それは人の力では実行することが難しく、なかなか自分の中では消化できないからだ。このように、聖書は二つの食物があることを教え、そのどちらを食べるかでクリスチャンを「幼子」と「大人」の二つに分類している。
さらに聖書は、自分がどちらに属するクリスチャンで、どちらの言葉を主食にしているのかを知るための判断基準も示している。ねたみや争いがあれば、それは肉に属し、「人の言葉」で心を満たそうとしているという。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか」(Ⅰコリント3:3)。ねたみや争いがあるときというのは、言うまでもなく激しい「つらさ」に襲われる。つまり、人との関係において「つらさ」を覚えるなら、それは「人の言葉」で心を満たそうとしていることのサインであり、その人は肉に属する「幼子」だということになる。
無論、救われた私たちは、誰もが「神の言葉」を食べたいと願い、自分はそれを食べていると思っている。しかし、聖書の示すこの基準に従うなら、人間関係で「つらさ」を覚えることは「神の言葉」を食べているつもりでも食べていないことになる。これは、何と厳しい現実だろうか。神は、あえてこうした厳しい現実を突きつけることで、私たちが気付いていない問題を提起されている。その問題とは、「神の言葉」が食べられないことにほかならない。「平安」が得られないのは「神の言葉」を食べないからであり、相手の問題ではないことに気付かせようとされている。人は「神の言葉」を食べて生きるように造られている以上、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)、それを食べなければ「つらさ」を覚えるのは当然であって、決して相手のせいではない。神は、そのことを教えようとされている。
では、どうして「神の言葉」が食べられないのだろうか。それは、人の中に隠れ住んでいる敵がいて、食べたくとも、食べさせないようにしてくるからである。敵がいると言うと、何だか信じがたい話に聞こえるかもしれないが、食べたくても食べられないということは、そういうことなのである。次に、その敵について見ていこう。
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三谷和司(みたに・かずし)
神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。
新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美は全て著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。