われわれは、物質の善悪の問題と、物質主義を区別して考えなければならない。聖書を信じる者は、物質主義と対決することになる。なぜなら物質主義は、目で見たり手で触ったりすることができるものだけを信じるからだ。
物質主義には創造者なる神(物質を超えて存在する神)の入る余地がない。当然物質以外のところに価値は存在しない。共産主義は典型的な物質主義なので、宗教は無用の長物となる。無神論の立場に立つ科学者も物質主義者なので、実験で証明できないこと、あるいは実験の対象になり得ないものを受け入れない。
創造主を信じ、永遠の命を期待している者たちは、当然唯物論の愚かさを知っている。でも一つ問題なのは、物質主義を否定する人たちが、物質そのものも罪悪視する可能性があることだ。すなわち「物質に価値はない」という発想だ。
われわれ人間の体そのものが物質であり、また周りにあるありとあらゆる物が物質である環境の中で、物質の是非の評価は、われわれの価値観や生活態度に多大な影響を与える。私が見るところ、多くのクリスチャンが、物質は取るに足らないもの、場合によっては悪しきものと理解しているようだ。
確かに聖書には、やがて朽ち果ててしまう物質に頼って生きることの愚かさが、ここかしこに書かれている。例えば「富んでいる者は草花のように滅び去る」(ヤコブ1:10)などが典型例だ。
ヨハネの福音書6:27では、イエスを探し求めていた人々に、イエス自身が「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われた。ここで言う「朽ちる食べ物」は文字通りのパンを意味している。でもその直前に、空腹の彼らに奇跡のパンをたらふく食べさせたのもイエスであった(6:12)。
イエスは弟子たちに模範的祈りを教えたとき、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイの福音書6:11)という祈りを加えている。主の祈りの中で、物質を対象とした祈りは、この「日々の糧」だけであるが、これは物質的祝福の全てを代表するものであると考えられる。
神が初めに創造されたもののほとんどが物質である。6日間の創造の業を一つずつ吟味していくと、物質以外のものがほとんど見当たらない。物質でないことが明らかなのは、人に神がご自身の息を吹き込んで、人が生きるものとなったという事実であるが、人の魂も、体という物質がその受け皿となっている。
天と地とそれらの中に存在する全ての物質は神の作品である。物質が物質である限り、やがては消滅していく運命にある。でも物質が宇宙の歴史の中で悪になってしまった事実は見当たらない。罪を犯したのはわれわれ人間の魂であって、魂の無い物質が罪を犯すことはない。
もちろんわれわれは物質主義を否定する。物質主義は神を否定するからだ。でも物質そのものは神からの贈り物、祝福であることを忘れてはいけない。また人の貪欲さと物質そのものを混同してはいけない。
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。