「緒論」
人の本質は「良き者」なのだろうか。それとも、罪を犯す「ダメな者」なのだろうか。人をどう捉えるかで、「神の福音」の理解は大きく左右される。「良き者」となれば、「神の福音」は、私たちに「良き者」だと気付かせ、「良き者」として生きられるようにするものになる。しかし、「ダメな者」となれば、「ダメな者」を「良き者」とするのが「神の福音」になる。このように、人をどう捉えるかで、「神の福音」の理解も変わってしまう。
では、人が「良き者」なのかそれとも「ダメな者」なのか判断する基準は、一体何なのだろう。それは、人の持つ善悪の価値観である。しかし、人の価値観は正しいのだろうか。もしも間違っていれば、人は間違った「人」の理解をし、間違った「神の福音」の理解をしていることになる。この『緒論』では、「神の福音」を理解する上で何が障害となるのか、何が私たちを惑わす敵なのか、そうした実態を明らかにすることを目指す。
「序」
1.問題の提起
「つらさ」の原因
人はなぜつらくなるのか、その原因を知っているだろうか。多くの人は、困難な出来事が人をつらくさせると思っている。例えば、仕事が上手くいかない。人間関係が上手くいかない。大切なものを失う。思い通りにならない。そうした困難な出来事が人をつらくさせる原因だと信じて疑わない。だから、つらさを解決するには、出来事を変えるしかないと思っている。しかし、人がつらさを覚えるのは、そうした出来事のせいではない。それは単なるきっかけにすぎず、本当の原因は、心の食事にある。その説明から始めよう。
人は、「心」と「体」からできている。体には食物が必要なように、心にも食物が必要である。その食物とは「神の言葉」である。「イエスは答えて言われた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある』」(マタイ4:4)。ところが、生まれながらの人の状態では神との結びつきがないため、人の心は「神の言葉」が食べられず、「人の言葉」を食べて生きている。実は、この食事が人をつらくさせている。それはちょうど、「体」が本来の食物でない物を食べたなら具合が悪くなるのと同じである。「心」も本来の食物でない「人の言葉」を食べれば、具合が悪くなり、つらくなる。では、どうして「人の言葉」は人をつらくさせるのか、そのわけを見てみよう。
人は人の価値を、「行い」「容貌」「学歴」「富」「家柄」といった「うわべ」で判断する。「うわべ」がよければ称賛され、よくなければさばかれる。そのため、人から称賛されるおいしい「人の言葉」を食べるには、「うわべ」を人から良く思われるものにする必要がある。それは、人からの期待に応えることを意味する。しかし、全ての人の期待に応えられる者などどこにもいない。従って、「人の言葉」を心の食事とする限り、人は必ず誰かの期待に応えられずさばかれることになる。イエスでさえ、律法学者やパリサイ人たちにさばかれた。そうなると、人は傷つき「つらさ」を覚える。
「人の言葉」が人をつらくさせる理由は、まだ他にもある。おいしい「人の言葉」を食べようと「うわべ」を良くしようとすると、いつも自分がどう思われているかを気にする必要が出てくる。それは、人の目におびえることを意味する。これは何とつらいことだろう。どんなに苦労しておいしい「人の言葉」を食べたとしても、こうして絶えず人の目を気にするという「つらさ」がつきまとうのである。
それだけではない。おいしい「人の言葉」を食べようと、少しでも「うわべ」を良くすることに関心を持つため、絶えず人の「うわべ」が気になり、自分と比べてしまう。そこから、嫉妬や怒りが生じ、言いようもない「つらさ」に襲われるようになる。「人の言葉」を心の食事とする限り、こうした「つらさ」からは逃れられないのである。
このように、人をつらくさせている原因は、心に「人の言葉」を食べさせるからである。「神の言葉」ではなく、「人の言葉」を食べて生きるからつらくなるのであって、出来事が人をつらくさせているわけではない。出来事というのは、あくまでも「人の言葉」を食べるきっかけとなったにすぎない。
例えば、失敗をして期待に応えられなかったとしよう。そうすると、「お前はダメな奴だ」という言葉を浴びせられる。そして、浴びせられた「人の言葉」を食べると、言うまでもなく悲しくなりつらくなる。つまり、人は、出来事を通して「人の言葉」を食べるから「つらさ」を覚えるのであって、出来事が人をつらくさせているわけではない。
このことから、人はいくら出来事を解決したところで、「つらさ」からは解放されないことが分かる。「つらさ」という問題を真に解決したいのであれば、イエスの言われる通り「神の言葉」を食べて生きるしかない。おいしい「人の言葉」を食べることを生きる目標とする限り、決して「つらさ」からは解放されないのである。では、どうすれば「神の言葉」が食べられるようになるのだろうか。
「神の言葉」は、人からではなく神から頂く食物である。そのため、「神の言葉」を食べるには、兎にも角にも、神との関係を回復するしかない。イエスが神であることを知り、それを信じられるようにならなければ、いくら聖書の言葉を知っていても、それを「神の言葉」としては食べられない。だから、神は、人に信仰を与えられ、神を信じられるようにしてくださる。これを救いといい、救いは神の恵みによる。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)。神の恵みゆえに信仰が与えられ救われた者を、クリスチャンと呼ぶ。
つまり、「神の言葉」を食べるには、救われることがその第一歩となる。クリスチャンは、その第一歩を踏み出し、「神の言葉」を食べられる環境に移っている。では、クリスチャンになれば、「神の言葉」を問題なく食べられるのだろうか。実は、そう簡単にはいかない。次に、その辺りのことを見てみよう。
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三谷和司(みたに・かずし)
神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。
新しい時代にあった日本人のための賛美を手掛け、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美は全て著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。