4. 御心に反する「経験」
(2)「死」が原因
神に似せて造られた人に、なぜ御心に反する生き方ができるのか。なぜ御心に反する「経験」を積み上げることができるようになったのか。その疑問を解くために、アダムとエバが罪を犯したことで入り込んだ「死」について見てきた。
「死」とは、神との関係を失うことであった。関係を失えば、今まで神から与えられていた生きるために必要な糧は、もう受けられなくなる。イエスはそうした糧のことを、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)と言われたが、人は心の糧となる「神の言葉」と、体の糧となる「食物」を、神から得られなくなってしまったのである。
さらには、永遠なる神との関係を失ったことで、永遠には生きられなくなり、朽ちる体へと変わってしまった。そうした出来事を含め、「死」という。では、どうしてこの「死」が、御心に反する「経験」を積み上げさせることになったのだろう。
人は「死」のせいで「朽ちる体」を背負うようになり、生きるために必要な「心の糧」と「体の糧」を自らの手で確保しなければならなくなった。とはいえ、神との関係がない中では、心の糧となる「神の言葉」を手に入れられなかったので、それを「人の言葉」で代用するしかなかった。
おいしい「人の言葉」を食べることで心を満足させるしかなかった。そこで人は、少しでもおいしい「人の言葉」を食べようと、少しでも人から良く思われることを目指した。これが、「この世の心づかい」という生き方となり、神ではなく人に頼るという、御心に反する「経験」を積み上げさせることになった。
さらに人は、生きるために必要な体の糧、「食物」も自らの手で確保しなければならなかった。それには「お金」を必要とした。だから、人は必死になって「お金」を稼いだ。「お金」を少しでも多く手にすることで安心を得るしかなかった。
こうして、人は「お金」を信頼するようになり、「お金」が安心の元となった。これが、「富の惑わし」となり、神ではなく富に頼るという、御心に反する「経験」を積み上げさせることになった。
このように、「死」が入り込んだことで、人は御心に反する「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」を積み上げることになった。そして、その「経験」が「神の言葉」を別の意味に補完し、御言葉をふさぐことになった。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
御言葉がふさがれると、人は罪を犯しても気付かなくなる。というより、御心に反する生き方そのものが罪であり、人は「死」のせいでそういう生き方しかできなくなってしまった。まさに「死のとげ」が、人の「罪」となったのである。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。
これで、どうして神に似せて造られた私たちが、神の思いに逆らうような「経験」を積み上げるようになったのか、その疑問も解けただろう。全ては、アダム以降に入り込んだ「死」に起因していた。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)。「死」こそ、人の罪の原因であった。
すると、ここに新たな疑問が湧いてくる。今日人が罪を犯すのは、「欲」がはらむからであって、「死」が原因ではないのではという疑問である。
聖書も、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14、15)と教えている。もしそうであるならば、「死」が御心に反する「経験」を積み上げさせ、そのことで人は罪を犯すというのは誤りということになる。
実は、これも積み上げてきた「経験」による惑わしである。とはいえ、このことにも答えないと、「死」が御心に反する「経験」を積み上げさせてきたという話に納得いかないだろう。
そこで今度は、人に罪を犯させる「欲」が、人に入り込んだ「死」とどのような関係にあるのか見てみたい。それを見ると、「死」が御心に反する「経験」を積み上げさせてきたことは間違いないことが分かる。
神との関係を失う「死」は、神に愛されている自分の姿を見えなくさせた。人は、自分の姿しか見えなくなり、そのことの「不安」から、「愛されたい」という願望を持つようになった。その願望は、自分を少しでも良く見せようとする行動を取らせた。
聖書はそうした様子を、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)とつづっている。
しかし、神との関係のない中では、人に愛されることで「不安」を脱出するしかなかった。これが、人から愛されようとする、「この世の心づかい」という生き方となった。それは言い換えれば、人から愛されようと、人の関心を引くことでもある。
そのために人は、「暮らし向きの自慢」さえする。つまり、「この世の心づかい」は人の関心を引くために、「自慢欲」(高ぶり)へと結び付くのである。この「欲」がはらむと、ねたみや争いを生じさせ、人を罪の行為へと導くことは言うまでもない。
また、神との関係を失う「死」は、神に愛されている自分の姿を見えなくさせただけではなかった。神との関係を失ったことで、人は永遠には生きられなくなった。その「恐怖」から、人は少しでも長く「生きたい」という願望を持つようになり、必死になって見える物にしがみつくようになった。
これが「富の惑わし」という生き方を生み出した。それは、当然ながら、見える物にしがみつこうとする「肉の欲」、「目の欲」を開花させる。こうした「欲」がはらむと、人はさまざまな罪の行為に至ることは言うまでもない。
すなわち、人は神との関係を失った「死の世界」(この世)で生きるようになったことで「愛されたい」という願望を持ち、「この世の心づかい」に生き「暮らし向きの自慢」をするようになった。同時に、「生きたい」という願望を持ち、「富の惑わし」に生き「肉の欲」、「目の欲」を開花させることになった。
そうした「欲」が、人を罪の行為へと駆り立ててしまうことは言うまでもない。人に罪を犯させるさまざまな「欲」は、まことに「この世」を支配する「死」から出たのである。聖書は、そのことを次のように教えている。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世(死)から出たものだからです」(Ⅰヨハネ2:16) ※( )は筆者が意味を補足
上記の御言葉からも分かるように、人に罪を犯させる「欲」は、神との関係を失う「死」から出るようになった。「死」が生じさせた「愛されたい」「生きたい」という願望から、人の「欲」がはらむようになったのである。その「愛されたい」という願望を具現化したものが「この世の心づかい」であり、「生きたい」という願望を具現化したものが「富の惑わし」であった。
このことからも、人に入り込んだ「死」が、人の「罪」になったことが分かる。つまり、人は「死」に支配されたことで、「罪」が君臨するようになったのである。「それは、罪が死によって支配したように・・・」(ローマ5:21)
この項では、人に罪を犯させる「惑わしの仕組み」がどうして人の中にできてしまったのか見てきた。それは、「死」が原因であった。悪魔の仕業によってアダムとエバが罪を犯し、そのことで人の中に「死」が入り込んだために、「惑わしの仕組み」ができた。すなわち、「死」が、御心に反する「経験」を積み上げさせ、その「経験」が「神の言葉」を惑わすのである。
そのため、せっかく神との関係を回復し、御霊の助けによってすでに「神の言葉」が食べられるようになっても、人は「死」がもたらした「経験」のせいで「神の言葉」が食べられないで罪を犯してしまう。
しかも、「神の言葉」を食べられないよう惑わしてくる相手が自らの「経験」ゆえ、人は惑わされても気付けない。あのパリサイ人のように。まことに、人に入り込んだ「死」は、人の中に罪を犯させる完璧な「惑わしの仕組み」を完成させてしまったのである。
次項では、見てきた「惑わしの仕組み」を、実際に体験してみたい。実際の御言葉を読み、「経験」から来る惑わしを体験してみたい。そうすれば、私たちの戦うべき「うちなる敵」は、御心に反する「経験」であることが実感できることだろう。
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