5. 惑わしの体験
「死」は、神と人との関係を壊し、人に対し、見えるものにしがみつかずにはいられなくした。見えるもので安心するという、御心に反する「経験」を積み上げさせた。目に見える人から良く思われることで安心しようとする「この世の心づかい」と、目に見えるお金で安心しようとする「富の惑わし」の「経験」を積み上げさせた。
人は、そうした御心に反する「経験」に惑わされ、「神の言葉」が食べられなくなり「つらさ」を覚える。人は、その「つらさ」から逃れようとするので「欲」がはらみ、罪の行為に走ってしまう。
こうした話をすると、人はどうしても懐疑的になる。なぜなら、自らの「経験」に惑わされているなどとは思わないからである。そこで、この項では実際に、自らの「経験」に惑わされ「神の言葉」が食べられなくなることを体験してみたい。つまり、イエスの言われた、「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)が真実であることを確かめてみたい。
(1)実を結ばない者
惑わしの体験をする前に、私たちの積み上げてきた経験を少し整理しよう。人から良く思われようとする「この世の心づかい」は、人の期待に応える実を結ぶことで褒められようとする経験である。この経験を裏返すと、それは、期待に応える実を結ばなければ罰を受けることを意味した。
例えば、親の期待に応えられないと罰を受けた。学校でも会社でも、求められる実を結ばなければ罰を受けた。実を結ばなければ「ダメな者」とされ、最悪、その交わりから取り除かれた。家庭であれば勘当され、学校であれば退学処分を受け、会社ならクビになった。
期待に応えることで褒められようとする「この世の心づかい」の裏では、こうした期待に応えられなければ、すなわち、実を結ばなければ取り除かれるという「経験」が積み上げられていたのである。それが、「神の言葉」を読むときにどう影響してくるかを体験してみることにしよう。
では、下記の「神の言葉」である御言葉を読み、空欄部分にふさわしいと思う言葉を、「A」と「B」の二つから選んでみてほしい。この御言葉を知っているかもしれないが、それは横に置き、あくまでも自分はどう思うかで選んでほしい。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを( )、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15:1、2)
A:取り除き B:持ち上げ
ほとんどの人は、Aの「取り除き」を選ぶ。新改訳聖書も新共同訳も、「取り除き」と訳している。それだけではない。著名な英訳聖書はどれも、「取り除き」といった訳になっている。ただし、New King James Versionの脚注には、「lifts up」(持ち上げる)という訳も記載されていた。しかし、聖書がどのように訳そうとも、「A」の訳が正解になるなどあり得ない。その訳を説明したい。
Aの「取り除き」が正解となると、人が救われて「神の国」に行くには、実を結ばせることが条件になる。人はキリストを信じることで「キリストの枝」となり、そこで実を結ばせるなら救われる、という話になる。別の言い方をするなら、人は神が示された「律法の行い」の実を結ぶことで、神から「義」と認められ救われる、ということになる。そうなると、次の御言葉を聖書から削除しなければならない。
「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)
聖書は繰り返し、人が救われるのは、「律法の行い」という実によるのではなく、「神の恵み」によることを教えている。その「神の恵み」とは、人の行いに関係なく、すなわち、結ぶ実に関係なく、神にあわれみを求める者を誰であれ「義」とし救うキリストの贖(あがな)いにほかならない。
つまり、Aの「取り除き」が正解となると、「神の恵み」を教えた一連の御言葉は全て削除することになる。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2:8、9)などは、真っ先に削除されなければならない。
イエスご自身も例えを通して、神にあわれみを乞うだけで義とされ、救われることを教えておられる。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13、14)。
このイエスの話も嘘になり、削除しなければならなくなる。それだけではない。イエスは、人が救われるのは「律法の行い」によるとしたパリサイ人と戦われたが、あの戦いは誤りであったということにもなる。
またイエスは、「律法の行い」に関係なく、イエスを信じる者は救われ、「永遠のいのち」を持つと言われたが、それもうそということになる。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6:47)。ここで「持ちます」と訳されている箇所は現在形であり、信じている者は「永遠のいのち」を持っていますと言われたのである。
さらにイエスは、「神の恵み」によって「永遠のいのち」を持つようになった者、すなわち、イエスの枝となった者が滅びることは決してないとまで言われたが、それすらうそということになる。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)
従って、「A」が正解となれば、「神の恵み」を教えた一連の御言葉は全て削除することになり、さらにはイエスご自身を偽善者にしてしまう。そのようなことはあり得ない以上、Aの「取り除き」は不正解としか言いようがないのである。正解は、Bの「持ち上げ」になる。
実は空欄部分のギリシャ語は「アイロー」[αίρω]で、この言葉の本来の意味は「持ち上げる」である。次に「担ぐ」、そして「支える」という意味があり、最後に「取り除く」とある(参照:織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館)。つまり、本来の意味に訳すことが正解となる。
しかし、誰もが「A」を正解とし、「取り除き」の訳を選択してしまう。それは言うまでもなく、人の積み上げてきた「経験」が、「実を結ばないもの」という言葉に対し「罰を受けて当然」という意味を補完するためである。では、イエスはどのような意図から、実を結ばない者は「アイロー」(持ち上げる)と言われたのだろう。その意図を探ってみよう。
イエスはここで、神と私たちとの関係を「農夫」と「ぶどうの木の枝」の栽培に例えられた。というのも、当時の人々はぶどう栽培のことならよく知っていたからである。当時のぶどう栽培は、日本で見られるような棚を作る栽培ではなく、枝が地面を這うようにして栽培された。
そのため、枝に泥などが付いてしまうと実を結ばなくなった。そうなれば、農夫は実を結ばない枝の下に石を敷いて「持ち上げる」か、支柱で「支える」かして、実を結ぶようにした。
イエスは、こうした誰もが知るぶどう栽培に神と私たちとの関係を重ね、実を結ばない者は「アイロー」すると言われたのである。実を結ぶように「持ち上げる」、「支える」という意味で「アイロー」と言われた。決して「取り除く」という意味で言われたのではない(参照:ブルース・ウィルキンソン著『ヴァインの祝福』いのちのことば社、2002年、39~45ページ)。
すなわち、イエスはこの箇所で、イエスにとどまり(イエスを信じ)、その枝となったのなら(救われたのなら)、神が責任を持って実を結ぶよう育ててくれることを話されたのであった。私たちは神の枝であり、その枝を神が責任を持って育ててくれるから、何も心配する必要はないという意図から「アイロー」と言われた。従って、人はいったん救われたのなら、その救いが取り消されるようなことはないのである。
そうであれば、イエスが同じヨハネの福音書の中で言われていた、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)とも整合性が取れる。
逆に言うと、イエスにとどまろうとしない者は、すなわち、キリストを拒む者は救われないということでもある。その者は滅んでいくしかない。それ故イエスは、「アイロー」と言われたこの話の先で、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」(ヨハネ15:6)と言われた。そのことで、「神の恵み」による救いがいかに素晴らしいかを対比された。
このように、正解はBの「持ち上げ」になる。しかし、人の積み上げてきた、実を結ばなければ取り除かれるという「経験」は、Aの「取り除き」を正解とさせ、無条件で人が救われることを教えた「神の言葉」をふさいでしまうのである。救われるには「行い」が必要であり、「行い」がなければ救いが取り消されるとおびえさせてしまう。
こうして人の心は神ではなく、あのパリサイ人のように「律法の行い」に向けられ、互いに「律法の行い」でさばくようになり、「神の福音」が見えなくなる。そのことが実際に体験できたのなら幸いである。では、もう一つ「神の言葉」が食べられなくなることを体験してみよう。
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