6. 敵の全貌
(1)共通の価値観
人は神との結びつきを失う「死」を背負って以来、神に愛されていることが見えなくなり、永遠に生きることもできなくなった。
神に愛されていることが見えなくなったことで、人は言いようもない「不安」を抱くようになり、「愛されたい」という強い願望を抱くようになった。それが、人から良く思われようとする「この世の心づかい」をもたらした。
また、永遠に生きられなくなったことで、人は言いようもない「恐怖」を抱くようになり、「生きたい」という強い願望を抱くようになった。それが、安心して生きられる衣食住を確保しようとする「富の惑わし」をもたらした。
こうして人は、「この世の心づかい」と「富の惑わし」を土台とした「経験」を積み上げるようになった。この「経験」が人を惑わし御言葉をふさぐ働きをしていると、イエスは言われた。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)。しかし、私たちを惑わす敵は、私たちの内側に「経験」として住みついているために、惑わされても気付くことが非常に難しい。そうしたことを、これまで丁寧に見てきた。
では、御言葉をふさぐ敵は「経験」であるが故に、私たちはもう惑わされるしかないのだろうか。確かに、このままでは手の打ちようがない。そこで、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」に潜む「共通の価値観」を明らかにしてみたい。さらには、その「共通の価値観」を具現化した「姿」、「共通の価値観」を背後で支えている「力」、そうした「敵の全貌」を明らかにしてみたい。そうすれば、「経験」という、惑わす敵と戦うことができ、気付かない惑わしを回避できる。まずは、私たちを惑わす「経験」に潜む「共通の価値観」は何か、そこから見ていこう。
「共通の価値観」
イエスが御言葉をふさぐ、惑わす敵と言われた「この世の心づかい」という経験は、「愛されたい」という願望が生み出した。「この世の心づかい」は、人から良く思われることを目指し、人から愛されようとする。しかし、そのためには相手の期待に応えなければならない。相手が期待する「行い」「容貌」「肩書」「富」、そうした「うわべ」を手にしなければ人から良く思われない。だから、人は必死になってそれを目指す。これは、人の価値を「うわべ」で判断する生き方にほかならない。このことから、「この世の心づかい」という経験には、人の価値は「うわべ」にあるとする価値観が潜んでいることが分かる。次に、「富の惑わし」という経験に潜む価値観を見てみよう。
イエスが御言葉をふさぐ、惑わす敵と言われた「富の惑わし」という経験は、「生きたい」という願望が生み出した。人は少しでも安心して「生きたい」と願い、生きていく上で必要な物を手に入れることを目指す。それには「富」が必要となるので、人は必死になって「富」を稼ぎ、「富」を手にすることで安心を得ようとする。だから人は、多くの「富」を持っている人を見ると、「わーすごい」と言って羨望(せんぼう)の眼差しで見る。これは、人の価値を「富」という「うわべ」で判断する生き方にほかならない。「富の惑わし」という経験にも、人の価値は「うわべ」にあるとする価値観が潜んでいることが分かる。
このように、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という経験には、人の価値は「うわべ」にあるとする「共通の価値観」が潜んでいる。ただし、「うわべ」のどの部分に人の価値を見いだすかは、あるいは何をもって「富」とするかは、人によってみな異なる。その人が育った環境や、受けた教えによって異なる。それが、考え方の違いと言われたり、価値観の違いと言われたりする部分になる。
この世界には、誠にさまざまな考え方や価値観があるとされるが、実は「うわべ」の何に価値を見いだすかが違うだけで、「うわべ」で人の価値を判断するという手法は共通している。人に対する見方はみな同じなのである。みな、「うわべ」で人の価値を判断している。これこそが、私たちを惑わす「経験」という敵に潜む「共通の価値観」にほかならない。この「共通の価値観」は、「うわべ」という見た目の「肉」で人の価値を計ることから、今後はこの「共通の価値観」を「肉の価値観」と呼ぶことにする。
無論、「肉の価値観」は神の価値観とは全く異なる。神は、人の価値を「うわべ」では判断しないからだ。「しかし【主】はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る』」(Ⅰサムエル16:7)。ということは、人は神に似せて造られた以上、もともとは神の価値観を持っていたのが、今では神とは全く異なる価値観に支配され、御心に逆らう生き方をしていることになる。なぜそのようなことになってしまったのだろう。その経緯も、併せて見ておこう。
神と異なる価値観を持つに至った経緯
人は神に似せて造られた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。神に似せるとは、三位一体の神と同じ関係を築けるように造られたということだ。その三位一体の神は、互いに「愛したい」「仕えたい」という関係であることから、人も「愛したい」「仕えたい」という願望を持つ者として造られた。こうした願望を「御霊の思い」という。そこには、確かに「うわべ」で人の価値を判断する「肉の価値観」など全くなかった。
ところが、そこに悪魔が現れた。人は悪魔に惑わされ、「御霊の思い」に逆らう思いを信じてしまった。その結果、「御霊の思い」を共有できなくなってしまい、神と人との関係は壊れた。これを「死」という。人は、神との関係を失う「死」によって神の愛が見えなくなり、激しい不安に襲われ、そのことで「愛されたい」という強い願望を抱くようになった。それが、人から愛されようとする「この世の心づかい」をもたらした。
また、人は神との関係を失ったことで永遠には生きられなくなり、朽ち果てていく姿に変わり、激しい恐怖に襲われた。そのことで「生きたい」という強い願望を抱くようになった。それが、生きるために必要な衣食住を得ようとする、「富の惑わし」をもたらした。
こうして、悪魔の仕業による「死」によって人の心は2つに分割され、「御霊の思い」とは真逆の思い、「愛されたい」「生きたい」という願望を持って生きるようになった。この願望を「肉の思い」という。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです」(ローマ8:7)。そこから、イエスの言われた、惑わす敵となる「この世の心づかい」と「富の惑わし」の「経験」が積み上げられていく。それは、人の価値を「うわべ」で判断する「肉の価値観」による生き方であった。
誠に「死」が入り込んだことで、人の価値を「うわべ」で判断する「肉の価値観」が誕生したのである。そのことは、「死」が入り込んだ直後のアダムとエバの変化を見れば、容易に分かる。
彼らは神との結びつきを失う「死」に襲われた途端、いちじくの木の葉をつづり合わせ、腰の覆いを作り、「うわべ」を良くしようとした。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)。
ここでいう「ふたりの目は開かれ」とは、彼らの価値観が変わってしまったことを言い表している。どう変わったのだろうか。彼らはその後、自分たちの「うわべ」である裸を意識し、その「うわべ」を少しでも良くしようと腰のおおいを作ったとある。このことから、「うわべ」で人の価値を判断する「肉の価値観」に変わってしまったことが分かる。
このように、私たちを惑わす敵である「経験」には「共通の価値観」がある。それは、「うわべ」に人の価値があるとする「肉の価値観」にほかならない。このことが分かれば、私たちは惑わす敵と戦える。それは、「うわべ」で人を裁かないようにすることである。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)。
兎(と)にも角にも、人を裁くのをやめることが敵との戦いとなる。裁くことをやめなければ、私たちは自分自身の「経験」に容易に惑わされ、御言葉がふさがれてしまうのである。それゆえ、イエスは次のように言われた。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1~2)
普段、何気なく人を裁くことが、実は敵の罠に陥って惑わされていることの証しなのである。少なくとも人を裁くとき、上記の御言葉はふさがれている。
では次に、「経験」という、人を惑わす敵の具現化した「姿」を見てみよう。人を支配するようになった「肉の価値観」は、人の価値を知る「善悪の知識」となったが、それは一体どのような「姿」となって人を支配しているかを見てみたい。その具体的な「姿」を知ることで、「経験」という人を惑わす「敵の全貌」が、さらに明らかとなる。
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