6. 敵の全貌
(2)律法
イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)と言われた。人が生きるには、「神の言葉」を必要とすると言われた。
ところが、「神の言葉」をふさぐ敵がいる。「神の言葉」を食べさせないよう、その意味を惑わしてくる敵がいる。イエスはその敵のことを、「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)と言われた。
「この世の心づかい」とは、人から良く思われようとする思いであり、「富の惑わし」とは、お金で安心を得ようとする思いである。イエスは、こうした思いが「神の言葉」をふさぐ敵だと言われた。
そこで前回は、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という敵と戦うために、そこに潜む共通の価値観を見てきた。その価値観は、人の「うわべ」に人の価値を見いださせるものであった。その価値観のことを「肉の価値観」と呼んだ。「肉の価値観」は人の「うわべ」に価値を見いださせるために、心は神に向かなくなり、「神の言葉」がふさがれてしまうのである。
では、さらに「敵の全貌」を明らかにしてみよう。「神の言葉」をふさぐ「肉の価値観」という敵は、具体的にどうやって人の「うわべ」に価値を見いださせているのだろうか。その手口を知れば、「肉の価値観」という敵の別の姿が見えてくる。
「肉の価値観」は、人の価値を「行い」「富」「肩書」「容貌」といったものに見いださせ、それを手にさせることで安全や安心を確保させようとする。しかし、そうした見えるものに価値を見いださせるには、どんな「行い」に価値があるのか、どんな「肩書」に価値があるのか、どんな「容貌」に価値があるのか、そうした「うわべ」の価値を知るための規定を必要とした。
そこで、「肉の価値観」は価値を計るための規定を作らせた。例えば、親は子どもに、こうなってほしいと期待をする。すると「肉の価値観」は、その期待をそのまま「ねばならない」という、人の価値を知る規定にしてしまう。
例えば、人は自分と他人とを比べ、自分よりも愛されている人を見ると憧れを持つ。すると「肉の価値観」は、その憧れをそのまま、「自分もあのようにならなければならない」という、人の価値を知るための規定にしてしまう。
他にも、社会にはさまざまなルールがある。すると「肉の価値観」は、そうしたルールも人の価値を知るための規定にしてしまう。こうして、「うわべ」の価値を知るための規定は誕生し、それは「ねばならない」という思いとなって人を支配した。
聖書は、こうした「ねばならない」という、心を拘束する規定のことを「律法」と呼ぶ。「律法」は言わば、周りから良く思われるための基準である。人は「ねばならない」という「律法」の規定に従い、少しでも「うわべ」を良くしようと頑張る。
「頭が良くなければならない」「美しくなければならない」「お金がなければならない」「立派な行いができなければならない」「頑張らなければならない」等々、さまざまな「律法」に仕え、少しでも人から良く思われようとする。そのことで、おいしい「人の言葉」や、生きるために必要な「富」を手に入れようとする。
すなわち、「肉の価値観」は具体的な姿を「律法」に変え、人の「うわべ」に価値を見いださせるのである。神ではなく人のことを思うようにさせ、「神の言葉」をふさいでしまう。イエスは、「この世の心づかい」と「富の惑わし」が御言葉をふさぐと言われたが、それはまさに「律法」に仕える生き方を意味する。
かつて、イエスはペテロに「下がれ。サタン」と言われた。その理由を、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ8:33)と言われたが、ペテロが神よりも人のことを思ったのは「律法」に仕えていたからである。
聖書は、心を神ではなく人に向けさせてしまう「律法」について、さらにこう教えている。「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」(エペソ2:15)。人が人に対して抱く「敵意」は、人が人の価値を「律法」で裁くために生じるという。
また、次のようにも教えている。「律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません」(ローマ4:15)。信じがたいかもしれないが、人が抱く「怒り」も、人が人の価値を「律法」で裁くことで生じるという。
だから、「愛せよ」という「神の律法」に人は違反してしまうという。言うまでもないが、そうした「敵意」や「怒り」がさまざまな「肉の行い」へと発展していく。これでは、「愛せよ」という「神の言葉」は食べられない。
人が「律法」に仕えるようになった原因は「死」にある。神との結びつきを失う「死」が、人の中に「死の恐怖」という「死のとげ」を住まわせたことに起因する。というのも、人は「死のとげ」の恐怖から、見えるものに安全と安心を求めるようになり、見えるものに価値を見いださせる「肉の価値観」が生まれ、その「罪の力」が「律法」を作らせたからだ。
その「律法」が人の中に「敵意」や「怒り」を生じさせ、「神の言葉」をふさいでいる。すなわち、「死のとげ」が心を神に向けさせない「罪」であり、その「罪の力」が「律法」となって人のことを思わせ、「神の言葉」をふさいでいる。聖書はこうした罪の流れを、次のように教えている。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリント15:56)
このように、「肉の価値観」という「罪の力」は「律法」に姿を変え、人の「うわべ」に価値を見いださせることで、神ではなく人のことを思わせていた。そのことで、人は「神の言葉」が食べられなくなっていた。まことに「律法」が「罪」の姿であった。
「神の律法」も罪なのか?
そうなると、「神の律法」も罪なのかという疑問が湧いてくる。結論から言うと、「神の律法」は罪ではない。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ7:7)。
問題は、人が「神の律法」を、人の価値を計る規定(律法)にしてしまうことにある。これでは、「神の律法」も「肉の価値観」が作らせた「律法」も、全く同じになってしまう。そこでパウロは、「肉の価値観」が作らせた「律法」を「罪の律法」と呼んで、「神の律法」と区別した。
つまりこういうことである。「死のとげ」として住みついた罪は「罪の律法」を作らせ、神が人に与えた「神の律法」に戦いをいどみ、それを「罪の律法」と同じ目的で使わせてしまうということだ。
「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」(ローマ7:23)。「死のとげ」が「肉の価値観」となり、「神の律法」も「罪の律法」にしてしまうのである。
ありとあらゆる規定を、人の価値を判断する規定(律法)にし、それを基に人の価値を裁かせ、その裁きに応じて報われる仕組みを築き上げさせている。こうした仕組みを「律法主義」というが、「肉の価値観」は「律法主義」を構築していた。
パウロは、「律法主義」のことを「罪の律法」に仕えると言った。「肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:25)。要するに、「神の律法」が罪なのではなく、「神の律法」を「律法主義」の用途で使うことが罪なのである。
そもそも「神の律法」は、人の価値を裁くための規定ではない。「神の律法」は、人が自分の罪に気付けるようにと、神が人に与えた罪を知るための基準であり、罪に気付かせることで十字架の恵みにあずからせ、キリストに導くことを目的とする。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)。
ところが「肉の価値観」が、「神の律法」を「律法主義」の中に取り込ませてしまった。「肉の価値観」が作り出した「律法」と同様、人の価値を計る物差しとし、自分が愛されるための規定にさせてしまったのである。
このように、私たちが戦うべき「肉の価値観」という敵は、その姿を「律法」に変え、なおかつ「律法主義」を構築している。それが、互いの間に「敵意」や「怒り」を生じさせ、愛することを教える「神の言葉」を食べられなくさせている。
だから、イエスは「律法主義」と戦われた。十字架にかかり、「律法の行い」では人が救われないことを示し、「律法主義」を終わらせられたのである。
「キリストが律法(律法主義)を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4) ※( )は筆者が意味を補足
イエスが言われた「神の言葉」をふさぐ敵、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」の正体を見てきたが、それは人の「うわべ」に価値を見いださせる「肉の価値観」であり、それは「律法」で互いを裁き合う「律法主義」であった。では、「敵の全貌」を知る最後として、そうした「経験」を背後で支えている「力」は何かを見てみよう。
◇