6. 敵の全貌
(3)「恐れ」
イエスは、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」が御言葉をふさぐと言われた。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)。その「経験」には、人の価値を「うわべ」で判断させ、見えるものに「安心」と「安全」を確保させようとする「肉の価値観」が潜んでいた。
その「肉の価値観」は、人の価値を「うわべ」で判断させるために必要な規定を作らせていた。それは、「ねばならない」という思いであり、人の心を拘束する「律法」となった。人は互いの価値を、この「ねばならない」という「律法」で判断し、それに基づいて「安心」と「安全」が得られる仕組みを構築していた。その仕組みを「律法主義」といった。
今度は、そうした「肉の価値観」を背後で支えている力について見てみたい。その力は、「肉の価値観」の誕生した経緯を見ればすぐに分かる。では、その経緯を簡単におさらいしてみよう。
人は神との関わりの中で生きるように造られていたが、悪魔に欺かれ罪を犯したことで神との結びつきを失い、永遠に生きることができなくなった。やがて朽ち果てていく体に変わってしまった。この出来事を「死」という。人は朽ち果てるまで顔に汗を流し、自らの手で糧を得なければならなくなり、ついに、土に帰るのである。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。言うまでもなく、土に帰るという「肉体の死」は、人にとって言いようもない「恐怖」をもたらす。
それだけではない。人は神との結びつきを失ったことで裸の自分しか見えなくなり、神に愛されている自分が見えなくなってしまった。だから、いちじくの葉で自分を装い、必死に愛されようとした。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)。このことから、神に愛されている自分が見えなくなることは、人にとって言いようもない「不安」をもたらすことが分かる。
すなわち、神との結びつきを失う「死」は、人の心に「恐怖」と「不安」をもたらしたのである。これを「死の恐怖」という。この「死の恐怖」が、見えるものに「安心」と「安全」を確保しようとする「肉の価値観」を誕生させたのである。「肉の価値観」を背後で支えているのは、紛れもなく「死の恐怖」である。
人は一生涯この「死の恐怖」につながれてしまい、神ではなく見えるものを信頼させる「肉の価値観」の奴隷になってしまった。神ではなく、見えるものに「安心」と「安全」を確保しようとする「罪人」になってしまった。ゆえにキリストは、人々を「死の恐怖」の奴隷から解放するために十字架にかかられた。
「一生涯死の恐怖につながれて(肉の価値観の)奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:15) ※( )は筆者が意味を補足
このように、「肉の価値観」を背後で支えているのは「死の恐怖」という「恐れ」であり、これが「この世の心づかい」と「富の惑わし」という、見えるものに「安心」と「安全」を求めさせる「経験」を裏で支えている。この「恐れ」のせいで、人は「神の言葉」が食べられないのである。これについては、例を挙げて説明した方が早い。
例えば、「福音を宣べ伝えよ」という「神の言葉」があるが、この「神の言葉」を食べるとは、実際に家族や友達に伝道することを意味する。しかし、伝道することは容易ではない。なぜなら、伝道しようとすると「恐れ」が来るからである。「恐れ」は、「そんなことをすれば嫌われるからやめろ」とささやいてくる。そうなれば、「福音を宣べ伝えよ」という「神の言葉」は食べられなくなる。
例えば、「心配するな」という「神の言葉」があるが、この「神の言葉」を食べ、何も心配しないで生きていけるだろうか。心配しないことは容易ではない。なぜなら、心配しないでよいと言われても「恐れ」が来るからである。
「恐れ」は、「本当に心配しなくても大丈夫か」とささやいてくる。見えるもので「安心」と「安全」を確保するようささやいてくる。そうなれば、「心配するな」という「神の言葉」は食べられなくなる。
人を惑わし御言葉をふさごうとする「経験」には、こうした「恐れ」がいつも背後につきまとっているからこそ、人は「神の言葉」が食べられないのである。神はこの現状を誰よりもよく知っておられたので、神が聖書を通して最も多く語った言葉は、まさに「恐れるな」であった。
以上で、御言葉をふさぐ「敵の全貌」は全て明らかとなった。では、最後にその全貌をまとめてみよう。
イエスは、「神の言葉」をふさぐ敵がいることを教えられた(マタイ13:22)。それによると、その敵は自らが積み上げてきた「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」であり、人はその「経験」に惑わされ、「神の言葉」が食べられないという。
しかし、そう言われても、惑わしてくるのが自らの「経験」であるため、人は惑わされても気付かないというのが実情である。そこで、気付かない敵に気付くために、「経験」の中に潜む「神の言葉」を食べさせないようにする働きを明らかにしてきた。
その結果、人の「経験」には人の価値を「うわべ」で判断させる「肉の価値観」が潜んでいることが分かった。さらに「肉の価値観」は、「うわべ」で人の価値を判断させるために必要な基準を作らせていたことが分かった。その基準は「ねばならない」という「律法」となり、「律法」でもって人を裁かせ、「神の言葉」を食べられないようにしていた。
そうした「肉の価値観」を背後で支えていたのが、今回分かった「死の恐怖」という「恐れ」であった。これが、人の「経験」に潜んでいた、「神の言葉」を惑わし、食べさせないようにさせる「敵の全貌」である。
「敵の全貌」がここまで明らかになれば、私たちは十分に敵と戦うことができる。人は自らの「経験」に惑わされても全く気付けないが、その敵の姿が、見えるものに価値を見いださせる「肉の価値観」であり、その力が「律法」であり、それを支えている力が「恐れ」だと分かれば、十分に戦うことができる。今までは気付かず戦えなかった自らの「経験」と、これであれば戦える。次項からは、そうした戦いの話をしよう。
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